前述のとおり、赤城沙織子は寮生委員会に所属している。
もっとも、寮内を巡回するのは委員としての責務というより彼女の使命感によるものが大きかった。ルームメイトの千佳が指摘するように常にうまくいっているとは言いがたいが、持ち前の愛嬌の良さもあって『沙織子おねーさん』の評判は上々であった。
そもそも沙織子の暑苦しいほどの使命感は、彼女の実の姉に影響されたものだった。聖黎女学園のOGの一人で現在二五歳。沙織子と九つも年の離れた姉は紅金市内で弁護士として活動しており、黎女時代から正義感に熱く、面倒見の良い女性であった。
スーツ姿で颯爽と働く姉の写真をもらったことがあり、それが沙織子の『素晴らしい女性』の原点となった。ゆえに、と言うべきか、黎明さまや千佳の着るようなフリフリのドレスにはどうしても辟易してしまい、それがゴスロリ好きルームメイトの反感を買っている。
千佳とのやり取りをひとまず記憶から消し、沙織子はシスター蒼山の手伝いをしたり、後輩のお悩み相談に乗ったり、急遽開かれたソフトテニス部のミーティングに参加したりと、忙しい時間を過ごした。すべてを終えたときにはすでに十一時を回っていた。
さすがに疲弊感が回ってきたので、購買でおやつを入手し、いったん三号棟の寮部屋へ戻ろうとした。だが、306号室前の人だかりを見て、沙織子は唖然としたものである。
アイドルのストーカー集団か、あるいは借金の取り立てか。そのいずれにも心当たりのなかった沙織子は入り口でたむろしている寮生たちに呼びかけ、おねーさんの声に彼女たちはいっせいに振り返ったのだった。
「あ、沙織子おねーさん。おはようございます」
「ルチカ先輩に伝えてほしいことがあるんですけど」
また彼女が何かやらかしたんか。苦々しく思いつつも沙織子がおねーさんらしく応対すると、彼女たちはエサをねだる雛さながらに一気にさえずり始めた。
「ルチカ先輩にイラストを頼んだんですけど、ちょっと予定が押しちゃって、締め切りをもう少し早めてもらおうと思いまして……」
「あたしは、いただいたイラストをもうちょいベターな感じに変更してもらおうかな、と」
「沙織子おねーさん、ルチカさんにさらにもう一体キャラ描いてくれるよう頼んでくれません? あの人なら間違いなく応じてくれるはずだから」
「お願いします! あたしたちが頼むより沙織子おねーさんが言った方が効果があると思いますので……」
集まった少女たちがルチカのイラストに関して好き勝手に注文を付けてくる。おそらく、彼女たちには確証があったのだろう。周りの評判を何よりも気にする沙織子おねーさんなら「やれやれ」と思いつつも、気の合わないルームメイトに対しても自分たちの注文を取り次いでくださるだろうと。
だが、沙織子の態度は周りの期待を裏切るものだった。絵描きの同居人がここまで人気だったのかという驚きも一瞬で過ぎ去り、一同に向けて厳しい視線を向けた。
「あなたたち、ちょっと都丸さんに無理させ過ぎじゃないの?」
喜色を浮かべていた少女たちの表情が一斉に固まる。気さくなおねーさんにここまで否定的な態度をとられるとは予想外だったのだろう。
非行少女に対して鮮烈な怒気を示すことは多々あるが、ここまで静かな怒りをたたえるのは滅多にない事態だった。聞いていた少女の一人が「ハッキリ怒るより怖い……」と言いたげに目をそらす。
沙織子は、さらに追い打ちをかけた。
「絵の手直しでも描き足しでも、そう簡単にできるものじゃないでしょう。あなたたち、都丸さんに何でもかんでも押し付けて何とも思わないわけ? イラストの修正を要求するくらいなら、初めから修正する必要がない状態で彼女に注文をするのが筋じゃないかしら」
沙織子に似合わない冷ややかな説教だった。聞いていた彼女たちは当惑しつつも、あくまで自分たちなりの言い分を主張し続ける。
「で、でもお。最初から計画通りに行くなんてわからないじゃないですかあ。行き当たりばったりなんて誰にでもあることですし~」
「ルチカさんなら事情をわかってくれるはずですし、自分のスキルアップになると喜んでくれると思いますよ~」
殊勝げに言うが、態度を見れば千佳の気持ちを勝手に代弁していることは明白である。依頼をまとめて引き受けてしまう千佳にも問題はあるが、明らかに彼女を利用しようとしている面々に、沙織子はついに憤りをほとばしらせた。
「あなたたち、いい加減にしなさいよ」
凄むような声だった。彼女たちは肝が冷えたが、立ち直ると、沙織子への態度は反感へと変わっていった。刺すような視線とともに白けたような声が放たれる。
「先輩にイラストの何がわかるって言うんですか」
沙織子は怒れる相手の声音に感化した。もともと売られた喧嘩は買わずにはいられない性分の彼女である。腰に両手を当て、さらに声を荒げようとしたとき。
「ちょっとちょっとちょっとーっ⁉」
突然の第三者の声に沙織子は驚いた様子で振り向く。
少女たちもその叫びで、初めて声の主の存在に気づいた。
ゴスロリ少女の姿は、一同の視界からすれば豆粒ほどの大きさでしかなかった。廊下のかなり遠くにいたはずだが、そこからでも鮮烈に声が届いたのだから、かなりの声量といえるだろう。
タブレットを小脇に抱えながら駆けつけた千佳は、依頼した少女の一人から話の内容を聞くと、沙織子に向けて赤銅色の瞳をぎらつかせた。
「こらあ、リコ! 彼女たちはルチカの大事なお客様なの! こんなとこまで余計な口を挟んでこないで‼」
ルームメイトに吠えたてられ、沙織子の中の闘気は大きく揺らいだ。いちおう彼女を思って憤慨したというのに、その相手から真正面から否定されてしまったのだ。
完全に悄然となる前に、沙織子はどうにか踏みとどまってゴスロリ少女に意見した。
「でも都丸さん、彼女たちはあなたに無茶させようとしてるのよ? たとえあなたが問題ないと思っていても、いきなりこんな要求を出された以上、ちゃんとした報酬を彼女たちから受けておくべきだわ」
「報酬なんて別にいいっての! 彼女たちがうちのイラストをちゃんと評価して綺麗に飾り立ててくれるんだから、これ以上せしめたらかえって申し訳ないでしょ。だいたい本業になったことを考えれば、この程度の要望なんて可愛いもんだし」
プロ意識の高さ誇示しつつ、ルチカが胸を反り返らせる。ロリータ服の配色だけでなく、胸の大きさまでお姉様と対照であった。
少女たちが一斉に「ルチカ様~っ」と言わんばかりの視線を送っているが、どうにもおべっかの色が濃く出ているように思われる。もっとも、そう感じていたのは沙織子だけで、受けたご本人は安っぽいへつらいに気づいていないようだ。
沙織子は、まだ承服しかねる様子で悦に浸る千佳に対して水を差した。
「そういう働き方は感心しないわ。この手の要求は一度呑んでしまうと、どうしてもエスカレートしがちなの。都丸さんならやってくれる、できて当然……と向こうは思い込んで、あなたはその期待に縛られ、イラストを描くのが厳しい状況でも断ることができなくなってしまう……。さらに言うと、あまりホイホイ引き受けすぎると、将来、あなたの絵を悪用する顧客に当たって大変な目に遭うかもしれないわ」
「うっさーーーいッ‼」
千佳の小火山がついに噴火した。
「ただでさえリコは口やかましいのに、そのうえ趣味にまで口出しするなんてどういうつもりなのさ⁉ しかも周りにまで迷惑かけちゃって! これ以上おねーさんとしての評判を落としたくないなら、さっさとどっかへ消えちまいな!」
千佳の罵倒に、沙織子は完全に立ち尽くしてしまった。それを見た少女たちは、この後、おねーさんが本気で憤るか、それとも盛大に泣き出してしまうのかとハラハラしたものだ。
だが、現実はそのどちらも起こらなかった。
熱く大きな息を吐いた沙織子の顔から巨大な感情の渦がうかがえたが、実際に言葉で表明したのはたった一言である。
「……わかった。もういい」
冷ややかに言い捨て、大勢の生徒とルームメイトの視線を受けながら、沙織子は寮部屋へと戻ったのである。
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