和佐の想定外のトラブルは、岬に思いがけない幸運をもたらした。
このとき編入生は食堂で昼食のキーマカレーを食べ進めていたが、華やかな談笑がひしめく中、若干の疎外感を抱かずにいられなかった。別に寂しさに押しつぶされるほど彼女は弱くはないが、賑わいに混じっての一人の食事は、温かなカレーも冷めた食感に変えてしまいそうだ。白髪の少女に過度な期待を押し付けるのも考えものだが、それでも入寮四日目なのにルームメイトと一度も食事を摂れないのはいかがなものだろうか。
「はあ……一条さんと一緒にご飯が食べたいなあ」
溜息交じりに嘆いた矢先のことである。向かいの空席に何者かが断りもなく訪れ、岬が顔を上げると、それはトレイを持った一条和佐であったのだ。ルームメイトの同席を願ってわずか二分後、岬の想いは成就されたのだった。
「困った事態になったわ」
岬はカレーと白米を口に含めたまま、しばらくプルーン色の瞳を見開かせていた。和佐は断ることなく腰を下ろし、岬は食物を喉に押し込んでようやく声を出すことができた。
「あの、困ったことと言うのは……?」
「彼女と連絡がつかなくなったのよ」
再度プルーン色の瞳を見開かせ、岬は軽く身を乗り出して尋ねた。
「あの人のこと……ですか?」
岬が協力者の人物を『あの人』と称したのは、周り、というより、一条和佐に配慮してのことであった。
寮生が多く食事を摂っている中で、和佐が第三者とつるんでいることを語ったらまずいと思ったのだ。
編入生の配慮を汲み取ったかは不明だが、白髪のルームメイトは何も言わず、箸を手に取って頷きを返す。彼女の昼食は、玄米入りご飯と、ササミとナッツの入ったサラダのみである。美しい少女にふさわしい、美容に気を遣った食事である。
彼女の食事事情にも関心を持ちつつ、岬は真顔で無難な回答を投げかける。
「何か事情があったのでは?」
「送信したことには気がついているはずなのよ。それでいて返信が来ないなんて……」
「既読してスルーされてる状態というわけですか?」
岬はグラスに入った水をあおって、美しい少女のかんばせを見つめた。濃い灰色の瞳には、わずかながらに苦悩がちらついているが、その瞳がふいに見開かれる。何かに気づいたようだが、とても朗報とは言いがたい反応であった。
「まさか……」
「どうしましたか、一条さん?」
和佐は小さく身じろぎし、周囲をうかがいつつささやく。
「……ここでは話しにくいわ。続きは寮部屋に戻ってから聞いて」
そして、淑女にふさわしい行儀の良さで、和佐は迅速に昼食に取りかかった。
岬も残ったキーマカレーを平らげ、彼女が食べ終わるのを待つ。時間は長くかからなかったが、食べ急ぐ和佐に世間話を振る雰囲気ではなかったため、口元を拭い終えた岬は実質の時間以上の暇を持て余すことになった。
せっかく同席したのだから、乙女らしい会話の一つでもしたかったなあ……。
だが、白髪のルームメイトが話を持ちかけてきたこと自体は非常に喜ばしい。初めて会った時に比べれば大きな進歩ではなかろうか。
偉そうに評価してしまったが、岬としては単に彼女と会話ができるだけで嬉しかった。内容がどうあれ、無視されるよりはずっとマシだ。
三号棟の217号室に帰還すると、和佐は椅子に座るなりこう言った。
「……彼女に資料室での出来事を聞かれたのかもしれないわ」
出来事と言われてもあまりにも起きたことが多すぎて、岬はどのことを指しているか咄嗟に見当がつかなかった。首を絞めかけられたことを振り返るのは心の負担が大きすぎるから、黒タイツの質感と首筋に触れられた感触だけを思い出すことにする。
「聞かれたって、一体どこから……」
「あの資料室、入り口の他に裏口に出る別の扉があるの。そっと開けて耳をそばだてれば声ぐらい聞くことは可能なのよ。まさか、あれで……」
「腹を立てて返信に応じなかったってことですか? 協力者さんを怒らせるようなことを何か言いましたかね……?」
「そもそも協力者の存在をほのめかしただけで、あの子にとっては噴飯ものだったのかもしれないわね。二人だけだった世界を、あなたに知られてしまったのだから」
和佐はややためらいを示したが、ついにその協力者の名前を明かすことを決意した。このまま円珠に拒否され続ければ埒が明かないし、この自分を無視した報いは受けてもらわねばならなかった。
日生円珠の名前を聞き、その彼女が和佐のことを『姉様』呼びで慕っていることまで知った岬は、貴重な情報に喜ぶどころか、かえって提供者に対して怪訝な視線を向けた。
「そんなあっさり教えちゃっていいんですか? 彼女……日生さんにとって非常に都合の悪いことなのでは?」
「私の応答を無視した罰よ。それに、あなたに資料室の場所を知られた以上、裏口の秘密を嗅ぎづけられるのも時間の問題だと思ったから」
こちらを高く買ってくれたことはありがたいが、岬はルームメイトが自棄に走っているのではないかと内心危ぶんでいた。円珠の情報を聞けたのはむろん感謝すべきことであるが、投げやりな様子で後輩について語る『姉様』の姿は、あまり好感が持てない。
その姉様が灰色の瞳を岬に向けた。
「さらに言うと、私は堂々と円珠と出会うわけにはいかないから……。あの場所に彼女が来ない以上、あなたが直接円珠と掛け合って鍵を取り返すほうが得策だと思うの。私が思うに、円珠はあなたが手こずるような相手ではないし」
「一条さんが仰るなら、そうなんでしょうね」
和佐は嫌な顔になった。編入生の言う『一条さん』の上に見えざる形容詞が乗っかっているように思えてならなかったのだ。
たとえば『あたしに手玉にとられまくった一条さん』とか。
もっとも、その岬は和佐の自己嫌悪に気づいていない様子で、とりあえず協力者の顔だけでも拝んでみようかなと考えた。彼女が手を組んだ相手なら、さぞ可愛い娘であるに違いない。
「円珠は一号棟の住人よ。三号棟を出てすぐ向かい側にあるわ」
さらに寮部屋が410号室であることを教えてもらうと、岬はさっそく彼女に会いに、その一号棟まで訪れることにした。
最初から予想できたことだが、一号棟に入るなり、岬は見知らぬ寮生からさっそく不名誉な歓迎を受けた。虫嫌いが虫を見たような表情をとり、さりげなさを装って変態淑女の編入生のもとから遠ざかる。すれ違った三人が同じ反応をとるものだから、四階に上がるまで本来の体力以上の疲労感をおぼえたものだ。
しかも、それだけの労苦を重ねたすえ、410号室を訪ねた結果、住人が不在というのだから失笑を禁じ得ない。もっとも、会う約束をしたわけではないから、和佐の協力者を責めるのは筋違いと言うものだ。
幸い、彼女のルームメイトとおぼしき少女が部屋に戻ろうと現れたため、岬はさっそく彼女から円珠の場所を聞き出した。
そのルームメイトは他の寮生たちよりかは好意的な態度で話してくれたが、円珠の所在に関しては彼女も知らないようだ。もっとも、いつもキノコアザラシのぬいぐるみを抱えているからすぐに見つかるだろうと彼女は教えてくれた。その生き物の名前を聞くと、岬はふと昨日関わった幼馴染の二人を思い返してしまう。
少女に礼を述べ、岬は再び円珠の姿を求めて一号棟をさすらったが、時間は長くはかからなかった。
一階に引き返した瞬間、渡り廊下からアザラシのぬいぐるみを抱き締めた少女がちょうど姿を現したのである。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!