始業式を控えた朝がついに訪れる。
ルームメイトの暴走を抑えた岬は、その後、何事もなかったかのように就寝し、いつも通りの時間に起床することができた。一大イベントで遅刻を決めなかったことを、普段祈らない神に深く感謝したものである。
ライラック色の制服に着替え、身だしなみも三つ編みも万全な状態にして寮部屋を出る。廊下には岬と同じ格好の少女たちが、新学年最初の行事を前に談笑の声を高めていた。岬が通り過ぎるとそれがわずかにひそめられたが、すぐに華々しい賑わいが追いすがる。
食堂で朝食を済ませて本棟に戻ると、何やら華やかやらぬ喧噪が見えた。
有名人でも来たのか、と言わんばかりの人だかりが談話室の前に広がっている。
物珍しさをおぼえて岬が人込みに近づくと、すぐさま顔なじみの姿を目撃した。同寮棟の108号室に住まう東野暁音と春山雪葉である。
「あ、みさき!」
雪葉が紺のハイソックスに包まれた細脚で(ニーソックスはNGらしい)岬のもとまで駆けつける。その表情は明るくなかった。
すがるような幼顔を見つめて、岬は不思議そうに問いかける。
「雪葉、この騒ぎはどういうこと?」
「一条がシスター蒼山と一緒にこの中にいるんだよ」
応じたのは、後から近づいてきた暁音だった。変態淑女に対する想いは複雑だろうが、それ以上の深刻さが顔からあふれている。
それだけでこんなに人が集まるものかと岬は疑問に思ったが、それも雪葉の次の言葉を聞くまでだった。
「えんじゅとおかーさんも一緒なんだ。あっ……みさきはえんじゅのこと知らなかったっけ」
岬は返答できなかった。とにかく、集まった人員がただ事ではない。
母親はすでに娘の円珠から昨日の出来事を聞かされていることだろう。
岬の清楚な顔が暁音以上に深刻なものになるのも当然であった。
暁音も雪葉も円珠が傷つけられた件は知っているのだろう。その被害者と加害者が同じ部屋にいるということで、中のやり取りが気になるのは無理もない。
(一条さん……一体どういうことなの?)
和佐とは、夜に二階で別れてから会っていない。彼女をなだめ、これで平穏無事に始業式を迎えられると思っていたのだが、まだまだ認識が甘かったらしい。
雪葉と暁音の視線に気づく余裕もこのときには失われていた。岬は貫くような視線で談話室の扉を遠く見つめ、そのまま微動だにしない。
◇ ◆ ◇
その扉の向こうでは、集まった一同がそれぞれこわばった空気をもよおしながら穏やかならぬ会話を続けていた。
一条和佐がシスター蒼山とともに談話室に入ったとき、まず二人の人物に目がいった。
一人は円珠の母親で、オーソドックスなベージュのスーツを身につけている。髪と瞳の色は娘と同じだが、顔立ちはあまり似ていない。シスター蒼山を十五年ほど若返らせたような印象が、彼女からはたゆたっていた。
そしてもう一人は、雪葉は名前を出さなかったが、円珠の住まう一号棟の寮母である。
三号棟の寮母同様、白い修道服を纏い、三号棟の寮母とは同年代に見えた。だが、彼女は眼鏡の奥の眼光を鋭くし、堅物な印象を前面に押している。名前はシスター井之頭。
日生家の母娘と二人のシスター、そして一条和佐の計五名が革張りのソファーに落ち着く。
和佐の正面には、埋もれるようにソファーに細身を預ける制服姿の『妹』の姿があった。胡桃色の瞳をうつむかせ、ガラステーブルに敷かれたレースのクロスを心細げに眺めている。自身で傷つけた腕は紺色のボレロに隠され、和佐は痛ましさと罪の意識によって必要以上に冷静さを失わずに済んだ。
第一声を放ったのは、うなだれた少女の母親だった。仕事関連で一条家と交流のある日生家の夫人は、顔見知りの和佐に対し、表情をいくばくか物柔らかなものに変えた。
「ご無沙汰ね、和佐さん。お母様に引けを取らない美人になったじゃないの」
「恐れ入ります」
岬が聞いたら目を見張るだろうが、和佐とて認めた相手にはきちんと敬語を使うことができるのである。
だが社交辞令なやり取りが終わると、空気はすぐさま冬めいたものに戻ってしまった。
一同の視線が、一人の例外を除いて同じ存在に注がれた。
その例外とは、周囲の針のような視線に耐えているミディアムボブの少女である。
拳を堅くし、口はそれ以上にかたくなにさせており、母親を嘆息直前の表情にさせた。
結局、彼女の母がそのまま白髪の令嬢に事態を話す流れとなった。
「昨日の深夜、円珠から電話があったの。その内容は先ほど円珠の寮母さんにも伝えたけど、和佐さんにも是非聞いてもらいたいと思ってね」
「……円珠」
白髪少女の呼びかけに、名ばかりの妹は反応を示した。複数の目上の人に見つめられて緊張していないとは思えないが、表向きは取り乱す兆しを見せず、顔を上げて意を決したように言った。
「姉様……いえ、一条先輩」
和佐の心は想像以上に痛んだ。
受けた痛心に、和佐自身も驚かされた。呼び名一つ変わるだけで、こんなに心細い想いをするものなのか。
だが、白髪少女の驚きはまだ早かった。後輩少女はまだ話の本題にすら入っていないのである。
『先輩』に込められた響きと同じくらいの無機質さで、円珠は神妙に頭を下げた。
「今までお世話になりました。この日をもちまして、わたしはこの学校を去らせていただきます」
先輩美少女は打ちのめされた。三号棟の寮母も円珠の凄絶な決意には驚きを隠せなかったが、立ち直りは和佐より早かった。発言者の保護者が担当寮母と揃って否定的な感情を示している以上、少女の決意が成就されることはない。
一号棟の寮母に関しては、はっきりと寮生の無謀な企てをとがめた。
「始業式を目前に控える最中に、このようなことで煩わされるのは迷惑至極です。むろん、お母様が了承されない以上、退校処分など出しようがありませんが、無用な混乱を招くというのであれば、お二人にはそれ相応の処罰を下さなければなりません」
「だから、わたしを退学すべきと言ったでしょう!」
円珠が勢いよくファーから立ち上がった。石頭と言われた寮母を圧するかのように胡桃色の視線を突きつけ、シスター井之頭は眼鏡の奥の瞳に動揺の色を示した。
少女は熱っぽい声で語り続ける。
「そもそも、わたしごときの人間が誉れ高き聖黎女学園に入ったことが間違いだったんです。社交パーティで先輩と出会い、この学校で再会して……まさに夢のようなひと時でした。その夢が一生覚めなければと思った……ですが、それは誤りだったんです」
円珠の視線が、かつて『姉様』と呼んだ少女に向けられる。
「わたしは現実に帰らせていただきます。本来進む予定だった学校に編入し直し、先輩のご迷惑のかからない場所でこれからの人生を歩んでいこうと思います。わたしごときに言われたくもないでしょうが……どうか、お元気で」
息がするのも辛くなった。
かつて自分は、社交パーティで熱っぽく語りかける少女を疎ましく思い、聖黎女学園にやってきてからも、彼女を都合の良い道具としか見ていなかった。
その道具が失われたところで、新品に交換すれば済む。それで解決できる問題のはずだ。
なら、このまま円珠の退校を見届ければいいのか?
できない。できるはずがない。
今となっては、もはや円珠をただの道具として見ることは不可能であった。
妹への罪悪感はむろんあったが、それだけでない。
ここで彼女を引き留めなければ、自分の評価は地に落ちてしまうのだ。ただでさえ最下層を這っているようなものなのに。
姉に失望されるのもそうだが、自分自身がこれ以上の生き恥を受け入れられなかったのだ。
利他利己の事情を交えながら白髪少女が沈黙していると、円珠の母親が呆れ果てた顔で娘をたしなめ出した。
「円珠。わたしも父さんも退学を認めるつもりはないわ。学校を変えたいと気軽に言うけど、それがどれだけ面倒か、あなたにわかるの? わがままもほどほどにしてちょうだい」
「だったら見捨てればいいでしょ! こんな不出来な娘をさあ‼」
母親の説諭に大喝で応じると、声と同等以上の勢いで扉に駆け込む。
大人たちが制止の声を投げかけたが、聞く耳などあるはずがない。
扉は開かれ、たむろしていた寮生たちを振り払うようにしてミディアムボブの少女は姿を消してしまった。
扉が閉められて静寂が戻ると、空気はより絶望の方向へと進行しつつあった。
和佐は端麗なかんばせに死相に近い表情を浮かべ、妹の脱走に対して何一つ反応を示すことができなかった。
一号棟の寮母が厳格に言い放つ。
「このような事態を招いた責任は一条和佐さん、あなたにあるのです。そのあなたが責任を放棄してうなだれたままでいるとは何たることですか。己の頭の明晰さを自覚しているのであらば、いや、自覚していないとしても、問題を収束させるために行動を起こすべきでしょう」
「井之頭さん……」
三号棟の寮母が同僚をたしなめつつ、ソファーから立ち上がった。
「そう手厳しく言うものではないわ。とはいえ、事態をどうにかしなければならないのは同意見ね。私は辺りの寮生から日生さんの行方を尋ねるから、井之頭さんはお母様の相手をお願い」
一号棟のシスターは意外そうな面持ちで、三号棟のシスターの言葉を受け入れた。
「役どころが違うように思えますが……了解しました。あなたに後をゆだねることにしましょう」
「一条さん、行きましょう。あの日生さんの様子では本気で逃げ出しかねない。事は一刻を争うわ」
白髪の少女をどうにか立たせると、三号棟の寮母は彼女を伴い、扉の前で固唾を呑んで待機している少女たちの前に姿を現した。
◇ ◆ ◇
制服姿の寮生たちは二人の表情を見て、即座にただ事ならぬ事態をさとった。
大人しい円珠が凄絶な形相で飛び出した時点で異常事態なのは明白だが、特に見えざる死神に抱きすくめられたような和佐のかんばせは、事情がわからない者までも慄然とさせた。
三号棟の寮母は迅速にすべきことをした。
寮生たちの話によれば、談話室から逃亡した円珠は本棟の入り口をくぐり、数名の生徒が彼女の後を追っているのだという。
やがて、それと思しき少女たちが無念と困惑を携えながら自動ドアの前まで戻ってくると、シスター蒼山はさらに彼女たちから情報を得ようと談話室の前から離れた。
同伴者の白髪少女は置いてけぼりにされた。和佐の灰色の瞳には、少女たちの視線が無数の剣先の光に映ったに違いない。
顔を伏せ、シスターが早々に戻ってくるのを期待するしかなかった。
「一条さん!」
そう呼びかけたのは、頼みの三号棟の寮母ではなかった。
和佐は上目遣いで、人込みをかいくぐって現れた三つ編みの編入生を見やり、彼女に続く人物の存在に、思わず身体がすくんだ。
過去に嫌がらせのキスをした春山雪葉と、その幼馴染の東野暁音である。
あくまで優しく事情を問いただす岬に対し、和佐は唇を震わせながら円珠の退校宣言を告白した。
隠してもすぐに寮母にバレてしまうことだ。
そして、白髪少女の言葉は短髪少女を怒らせた。
「こんな事態になるくらいなら、シスターの言いつけを無視してでもお前を締め上げとくべきだったな! 雪葉に続いて円珠まで追い詰めて、清々したか、ああ⁉」
「暁音、ここで一条さんを締め上げて何が変わるっての?」
冷ややかな岬の指摘に暁音は怒りを収めたが、編入生に向ける黒い視線には危うい熱を孕んでいる。
じゃあどうすんだと無言で訴えかけられ、岬はそれに対し、わずかに表情を緩めて応じた。
「ようは日生さんを引き留めればいいんだよね? それなら、あたしに考えがないわけでもないんだけど……」
「ほんとか、みさき⁉」
雪葉は喜びの声を上げたが、暁音と和佐は彼女ほど無邪気に喜べなかった。
そんなにすぐにアイデアが思いつけるのかという疑問と、仮に思いつけたとしても即席のアイデアでうまくいくのかという懸念が、二人の表情を曇らせたのである。
だが、こちらにアイデアがない以上、頭から否定する権利もない。
「聞かせてもらえるかしら」
ルームメイトに呼びかけられ、岬はまず、亜麻色の髪の少女に対して尋ねた。
「雪葉もキノコアザラシのファンだよね? 日生さんが抱えてるようなおっきなぬいぐるみ、雪葉も持ってる?」
意外な質問に雪葉の鳶色の瞳は丸くなったが、もともと大好きなジャンルなだけあって、答える声はわずかに弾んでいた。
「おうとも。一万近くもした大物だぜ」
金額に眩暈をおぼえる暇もなく、岬は小柄な少女に両手を合わせて嘆願した。
「一生のお願い、それ貸して!」
「おい、岬……」
傍観者の立場に限界をおぼえた暁音が呆れた声で呼びかける。
「こんな状態でぬいぐるみを借りてどうする気なんだよ?」
「まあまあ、あたしの作戦を聞けばわかるって」
清楚な笑みを浮かべながら、岬はその『作戦』を語った。
だが、それを聞き終えた三人のうち『おおーすごい、岬は天才だな!』と感心したものは一人もいなかった。
雪葉は「本当にうまくいくのかー?」と言わんばかり困惑し、暁音に関しては「ふざけたことを抜かすんじゃない」と黒い瞳をぎらつかせ、最後に和佐がはっきりと難色を口にした。
「嫌よ。それで事態が丸く収まるとは思えない」
「あたしはそうは思わないな」
確信したように言い返され、和佐は咄嗟に反論ができなかった。代わりに暁音が問いただす。
「もし、それで事態が悪化したらどうすんだ? 円珠が自棄を起こしたら岬が責任とれるのかよ?」
「言っとくけどさ、百パーセント成功する作戦なんて最初からあり得ないんだよ。うまくいくとは思ってるけど、あたしができるのはあくまでお膳立てだけ。後は一条さんしだいなんだよ」
プルーン色、黒色、鳶色の瞳が揃って白髪の少女に向けられる。
ちょうどそのとき、シスター蒼山が戻ってきて、円珠が学舎区の敷地内に向かったことを告げたのだった。
岬はすかさず、現れた彼女に自分の作戦を語った。
寮母はわずかに目を見張らせたが、寮生たちと違って否定の色は示さなかった。
試す価値ありという評定を下すと、全身をこわばらせる和佐に向かって優しくさとした。
「反省文であなた達のやり取りはじっくりと拝見させてもらったわ。彼女との逢瀬を経て生じた関係が、あなたたちに良い結末をもたらしてくれることを心から願っているわ」
白髪少女は長く息を吐くと、緊張の残ったかんばせをゆっくりと持ち上げた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!