図書館の禁帯出資料室は今も昔も、和佐にとって一人きりでいられる貴重な場所であった。
一時期は変態淑女の闖入によって蹂躙されかけたこともあったが、今では彼女も一応こちらの内情を気にかけてくれているようで、入寮期間以降、襲われるという痴態は一度も発生していない。
禁帯出資料室は図書館の裏口に通じており、人の気配のないその場所は、かつて和佐と円珠の秘密の逢瀬の場所として利用された。関係がばれないために、円珠は図書館の外壁と塀の隙間をつたって裏口の姉様に会いに行ったものだが、現在では従来の通路を使って堂々と彼女のもとまで訪れていた。
和佐はいつものように椅子に腰かけて難しげな本を読んでいたが、円珠の慌ただしい到来を受けて怪訝そうに顔を上げる。
事情を尋ねる前にミディアムボブの妹が息も荒く報告した。
「姉様、大変です! 岬姉様の様子がおかしいんです‼」
「何を今さら」
変態淑女について散々思い知らされている和佐はそう口にしかけたが、円珠の様子こそが気がかりだったので、黙って彼女からの報告に耳を傾けた。
岬の変容を聞いて、さすがに白髪少女も表情を変えたが、それでもルームメイトとまだ会っていないため、反応はまだ半信半疑といった状態である。
「あの変態娘が円珠を突き飛ばした? 押し倒されたの間違いじゃなくて」
「……正直、押し倒された方がずっとマシでした」
「その発言はどうかと思うわよ、円珠」
思わず真顔でたしなめてしまったが、円珠は姉様の態度に構っている余裕はなかった。
姉様のシルクブラウスの袖を引きながら、強く言う。
「とにかく、岬姉様にお会いになってください。異常さがわかるはずですから」
気弱な円珠がここほどまでの押しの強さを見せるとなると、和佐としてもさすがに捨て置けなかった。
やれやれと思いつつ書架に本を戻し、円珠とともに本棟へ向かった。
三号棟に戻ると、シスター蒼山は101号室の前で別の寮生を見送っていたところであり、渡り廊下から駆けつけた新たな来訪者に対してすぐさま反応を示した。
「あら、一条さん。日生さん」
「シスター。岬には会ったのかしら」
和佐の問いに、寮母は困った表情で首を傾げてみせた。
「まさにそのことについて尋ねたかったのよ。上野さん、一体何があったというの?」
「会ってもないのにわかるはずがないでしょう。一応タイムスケジュールは提出させたのではないの」
寮生は大型連休中に、どのような活動をしたのかを大雑把でもいいから記録して、担当寮母に提出することになっていた。岬も例外ではなかったが、それを受け取った白衣の寮母の反応は芳しくなかった。
「きちんと書いてあったけれど、もし書いていた通りならば、上野さんはあんな態度を示すものかしら? まあ、嘘を書くこと自体も問題だけれど、普段の上野さんなら嘘を吐いても、それを上手く引っくるめてくるものだと思うのよ」
つまり、今の彼女は自身の状態を取り繕おうとすら思ってないわけだ。
寮母の言葉に説得力を感じた和佐は頷き、次の質問を投げかけた。
「その嘘吐きは部屋に帰したの?」
「ええ。荷物を整理する都合もあるし、私も他の生徒の相手もあって長居はさせられなかったのよ」
ここで別の寮生が白髪少女に気後れしつつ現れたので、二人は退散し、編入生がいるはずの217号室へと向かうことにした。
二人は上野岬と出会った。寮部屋に突入する前に。
彼女はちょうど寮部屋から出ようとしていたところだった。
「あ……一条さん……お元気そうですね……」
岬はなぜかライラック色の制服を着ていた。
だが、そのような事実は些細なもので、死相にも近い表情をたゆたわせているルームメイトに、和佐は美しいかんばせをしかめさせた。
ここまで深刻なものだとは想像していなかったのである。
灰色の瞳をきらめかせ、白髪をかき上げながら追及した。
「社交辞令ね。あれだけ懐いている円珠を突き飛ばすとは一体どういう了見なの」
「円珠……?」
岬の瞳が虚ろげに白髪少女の隣の後輩に向けられた。その虚ろ具合に円珠は再び涙ぐみそうになり、ぬいぐるみをきつく抱き締めた。
そして愛しの姉様から異様な口調から出た言葉を聞いたのだった。
「ああ……さっきのあれか。ごめんね、円珠。お詫びにいくらでも殴ったり蹴ったり刺したりしてもいいから」
「岬姉様っ……!」
ほとんど悲鳴である。
和佐も編入生の暴言にさらに表情を険しくさせた。
「よくもそんな態度で寮に戻ってこれたわね。制服なんか着て、どこへ向かうというの」
「別に言う必要ないじゃないですか」
岬の顔に初めて不機嫌の影がよぎった。
編入生の、ここまでぎらついた敵意は和佐は今まで見たことがない。
心臓に霜が張りつくのを感じながら、和佐はなおも毅然と言い返した。
「刺される覚悟があるのなら行き先を告げることくらいたやすいでしょう。制服を着ているということは学舎区のどこかなの」
鋭い追及に、岬はわざとらしい大きな溜息を漏らす。その態度もまた、平時の溌剌とした彼女からかけ離れた倦怠さがあった。
「……学舎区の屋内プールです。わかったらさっさとそこを通してくださいよ」
わずらわしげに言い放つと、二人を払いのける勢いで彼女は廊下を歩み去った。
和佐の中に苛立ちは当然あったが、それ以上に、ルームメイトに対する戦慄がうずいていた。
円珠相手と違って荒々しい態度を示さなかったのは、編入生なりの配慮といったところだろうか。そうなると、突き飛ばされた円珠があまりにもお気の毒である。
「ね、姉様ぁ……」
円珠がすがりつくような声で呼びかける。シルクブラウスの袖を掴む仕草は子供じみているが、今の心理状況を思えば無理もない。
「岬姉様……プールに向かって何をなさるつもりでしょう?」
和佐は重い溜息を吐いた。
「逃げ出すための嘘八百に決まっているでしょう。……それにしても、これは思ったよりも重症ね」
「追わなくてよいのですか?」
「寮部屋に荷物を置いたのだから逃げる心配はないでしょう。お腹を空かせたら勝手に戻ってくるわ」
毒づいたが、後になって和佐の中に不安がよぎった。
果たして編入生のルームメイトは空腹になってもきちんと帰ってきてくれるのだろうか。
今の岬は、平時の彼女とは別の意味で行動が予測しがたい。「荷物を置いた」と自分で言っておきながらおかしなものだが、それでも彼女の動向を気にせずにはいられなかった。
円珠が姉様に訴えかける。
「シスター蒼山さんから岬姉様の連休の記録を見せてもらいましょうよ。たとえ嘘っぱちだとしても、何らかの手がかりがあるかもしれませんし……」
「……そうね。他の生徒の相手もあるでしょうけれど、ここは無理でも優先させてもらおうかしら」
和佐が同調を示したのは、今にも崩れそうな円珠の心に配慮したものである。実際に手がかりがなかったとしても、とりあえず動かないと不安で仕方がないのだろう。
(それにしても、私があいつの心配することになるなんて……)
厄介や面倒という思いは当然あったが、それよりも自身の心境の変化に意外さを感じた和佐である。
もっとも、そのいずれもが彼女の足取りを緩めるものではなく、ミディアムボブの妹の顔つきをうかがいつつ、101号室へと再び引き返したのだった。
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