聖黎女学園は中高一貫の全寮制の女子校であり、赤煉瓦の寮は本棟とそこからつながる四つの寮棟で成り立っている。
各寮棟にはそれぞれ担当の寮母が付いていて、外泊から戻ってきた寮生は、その旨を寮母に報告することを推奨されていた。
あくまで「推奨」であり「強制」ではなかったので、岬も和佐も担当寮母であるシスター蒼山と会おうとせず、三号棟の217号室へすぐさま引き返したのであった。
一条邸の同じベッドで目覚めた二人は、朝から一度も口を交わしていない。
怒れる和佐が鋼鉄の意思をもって、編入生の言葉など一切受け入れぬという態度を崩さなかったからである。
平時の岬であらば、いくら白髪少女が強情を張ったところで、魅力的な笑顔で容赦なく突破するものだが、今回ばかりは眠気に勝てそうにない。それに、和佐の暴走を止めるためとは言え、さすがに自分の行為に負い目を感じていたのである。
だがそれでも、岬は今の和佐の態度が気に入らなかった。嫌われるのは当然だとしても、それならわざとらしく無視を決め込まないで堂々と文句を言えばいいものを。
ハンドバッグを置いた和佐が部屋を出ようとする。しっかりしすぎた足取りで、ルームメイトを存在から抹消しようという態度が露骨だった。
その和佐の白ブラウスの袖を、岬は掴んで引っ張った。
苛立ちが睡眠不足と重なり必要以上に力がこもってしまった。
「触らないで‼」
和佐の鬱憤が一気に弾けた。
心臓に突き刺さるような怒声を受けた岬はあくまで真顔で、プルーンの色艶をした瞳を白髪少女に向ける。
「あたしが憎いのなら恨みつらみをぶつければいいじゃないですか。最悪なのは何もせずに逃げることです」
逃げる、という単語に和佐の矜持が刺激されたらしく、全身ごと編入生と向き合った。
和佐は身体をわななかせながら、猛禽類の鉤爪のように岬の両肩を掴み、うつむきながら自らの溜め込んだ想いを吐き出す。
「……私の身体は黎明に捧げるためだけのものだったの」
「知ってます」
「だったらどうして手を出したの⁉」
泣く寸前を思わせる少女の悲鳴。
和佐は肩を掴む手と歯を噛みしめる力をさらに強めた。
「他の誰にも触れられたくなかったのに。あなたはそんな私の想いを土足で踏みにじり、何のためらいもなくその身体を穢した! 返して! 返しなさいよ! 綺麗だった頃の私の身体を返してよ……‼」
和佐は十五歳でありながら、同年代の少女に比べてはるかに大人びた雰囲気を持っている。
もっとも、この瞬間だけは例外だった。手の細かい震えが肩に連動し、さらに顎の先まで伝染している。岬の目には、顔をゆがめた彼女が十も満たない童女のようにしか見えなかった。
静かな声で、岬は白髪少女をさとす。
「あたしに時を戻す能力はありません。できるのは罪を償うことだけ……。これからもう一寝入りしますから、一条さんが望むなら、襲うなり暴力を振るうなり、どうかご自由に」
そう言って和佐の手を振りほどくと、編入生の少女は柔かな毛布に背中からダイブし、宣言通り、すぐさま寝息を立てたのだった。プルーン色の瞳を閉ざしてから二分も満たない早業である。
和佐は行き場を失った腕を無気力に垂らし、小気味よく胸を上下させる編入生を呆然と見つめていた。
放心が去ると、白髪美少女の中に苛立ち交じりの疑問が浮かぶ。
(この女は何を考えているの?)
なぜ嫌っている相手の前で、ここまで無防備に振る舞えるのか。
自分が何もできないからと高を括って、挑発してみせたのか。それとも実はただのタヌキ寝入りで、こちらの接近を誘って毛布の中に引きずり込もうと狙っているのか。
もしそうであれば、無視を決め込むのが最善であるが、ここで引き下がって三つ編み少女にこれ以上馬鹿にされるのも忌まわしい。
用心深く編入生のベッドに接近することにした。
だが、本当に寝入っていると確信すると、続く和佐の行動は大胆であった。
ベッドに上がると、そのまま入眠中の岬の腹部にまたがったのだ。健康的な弾力が、ロングスカートを通して股ぐらに伝わっている。
編入生の可憐な寝顔を、和佐は自身の影を落としながら見下ろした。
しばらくは何の感慨も湧いてこなかったが、やがて岬の寝顔が、昨晩、自分が性的にもてあそばれた時の状況と重なって不快感が募った。
もしここで岬が目を覚ませば、懇意のルームメイトに馬乗りされてさぞ悶絶することだろうが、それも和佐の次の行動を知るまでに違いない。
(自分から好きにしていいって言ったのよ。なら何をされても文句は言わせない)
白髪少女は長い腕を伸ばし、無防備な少女の首根っこに指をかけた。このまま指を食い込ませれば、変態淑女は頸動脈を押さえられて窒息死は免れない。
一条和佐にはそれを実行する気概は確かにあった。ルームメイトとしてやって来てから、この娘はどれだけこちらの|矜持《きょうじ》を踏みにじってきたことか。昨夜の件は特に最悪だった。
朝、目を覚ましたときには何事もなかったかのようにネグリジェは直されていたが、身体の熱と血の昂ぶりは、今でも容易に思い返せる。
憎しみを込めて、自身の指に命じる。やれ。やってしまえ。
だが、それを余計な良識が妨げにかかった。絞殺魔になることがどういう意味かわかっているのか、と。
和佐のしなやかな指が震えた。呼吸が荒く、動悸が抑えられない。
私はなぜこんなことをしているのだろうと、思わず自問してしまう。
自分のしようとしていることを持ち前の冷静さで客観視した結果、和佐の中の殺意はとたんに逃げ腰におちいった。
物騒な感情が立ち去ると、今度は指を通して暖かな感触が全神経を浸していった。
岬の体温が感じられる。
岬の肌の柔らかさも感じられる。
肌の下で打ち続ける脈拍も感じられる。
和佐は不思議な感慨に包まれた。
思えばこの数日はずっとこの編入生に触れていて、同時に触れられている。
嫌がらせのキスに始まり、昨晩の身体を重ね合わせた件、そして彼女の首に指を当てている現在。妙な縁だとは思うが、喜ばしいとは、むろん思えなかった。
(私が触れたいのは……)
和佐のかんばせに再び切ない影が帯びる。
(触れたかった相手は、お姉ちゃんだけなのに……)
一条黎明は過去のトラウマのせいで、五歳下の妹に触れることを拒否し続けている。
それを認められず、自分は昨晩、夜這いを決行したのだ。
だがメイドの風月に阻止され、気絶させられた後は編入生のベッドの上——というわけである。
現在はその編入生との立場が逆になっているが、和佐は自分の立場の優位性をまるで感じられなかった。
結局、この絶好の機会においても自分は何もできないのか。
悔しさが目の裏を熱く焼き、自身の不甲斐なさに頭がくらくらしてくる。
(……そうだわ)
顔がひしゃげる寸前、和佐の脳裏にアイデアが降り立った。軽やかに編入生から離れる。
手を出さなかったのは決して怖気づいたからではないと自分に言い聞かせ、ルームメイトの学習机に歩み寄る。
岬は入寮当初から慌ただしい時間を過ごしており(半分以上は彼女の自業自得によるものだが)、まだ段ボールの荷解きも済んでいない。
その段ボールの中身を勝手にあさると、和佐は小物やアクセサリーの類を取り出し、そのまま持ち主の学習机の引き出しに放り込んだのである。
学習机の一番上の引き出しは鍵がかかるようになっており、その鍵は引き出しの奥にしまわれている。
その金色の鍵を奪った和佐は、ルームメイトの私物を中に閉じ込めたまま、引き出しに施錠した。
これで、鍵を取り戻さない限り、編入生の少女は私物に触れることは不可能になったわけである。
(幻滅したければ勝手にすればいいわ。それで自分から出て行くというのなら御の字よ)
小さな鍵を握りしめると、白髪の少女は余裕なさげに息を吐き、逃げるように寮部屋を後にした。
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