一条黎明は約束を忘れない女性だった。
事情を聞いた報酬として、夕霧火影の二の舞を望む岬の願いをきちんと叶えようというのである。
夜、岬は黎明の寝室のベッドで待機させられた。仕事部屋とは別に存在しているらしく、調度品は集中力を高めるより安らぎを与える方を優先して作られていた。
風月から「外をうろつかれませぬよう」と念を押されているため、できることと言えば室内を眺め回すくらいしかない。
すでに入浴後であるため、三つ編みはすでにほどかれており、寝間着として濃いラベンダー色のシュミーズを着せられている。丈は太ももの上半分ほどしかなく、みずみずしい素足をクイーンサイズと呼ぶべきベッドの縁から投げ出している。ベッドの寝心地は今まで経験したものの中で間違いなく最上級のものだろうが、ここはかつて黎明さまの元専属メイドが情事の果てに片耳を喰いちぎられた現場だ。それを思うと、いい夢はとても期待できない。
ちなみに、ラベンダー色のシュミーズは黎明が用意したものだ。話によれば、エミリーこと一条和佐のために購入して一度も着られることなく衣装部屋に眠らされていたというが、何とも勿体ない。サイズは胸にわずかな余裕がある以外は申し分なく、姿見で眺めたときは一時的に心が生き返ったような気分になった。
何せここにいたるまでの間、岬はさらなる孤立感に苛まれており、心が枯れ果てた方がましと言えるほどの状態にまで追い詰められていたのだから。
話を終えた岬は昼食の前に衣装部屋に連れ込まれ、身体検査を受けることとなった。やつれた姿では黎明さまの欲情が発揮させられないというのがその理由である。身に付けているものをすべて脱がされ、一糸纏わぬ肌に次々と巻尺を当てられる。
黎明はその様子を壁際から眺めていたが、岬のみずみずしい裸体に対して何の感慨も抱いていないようだった。測定を担当した風月も事務的なことしか口にせず、慇懃な態度の裏には氷刃の気質が見てとれた。
メイドの風月は、最初は岬が親友のように岬の耳を奪うことに難色を示していたはずだが、今では黎明の指示にためらいがないように見えた。岬の話を聞いている間に心変わりを起こしたのか、それとも従うふりをして彼女だけの思惑を果たす隙を狙っているのだろうか。
殺伐とした空気の中で身体検査が終わると、一同はそのまま昼食に移ったが、会話らしき会話は、黎明と風月が時折ひそやかに話し合う程度で、岬に声はついにかからなかった。夕食に関しては、黎明は仕事の前倒しという理由でダイニングに訪れることすらなくなり、黙々と家事を進める風月の姿を見ながらの食事となった。
ここまで来ると、心が死んだと思われた岬も子供じみた寂しさが込み上がってきた。入浴の際は、シャワーに紛れてこっそりと自分の涙を溶かしたほどだ。
愛らしいシュミーズで心が慰められても長く持続するものではなかった。すぐさま片耳を奪われる恐怖で塗り潰されると、今更ながら自分で言い出したことに後悔しそうになる。
(でも、もう後には引けない……‼)
この強情さだけはルームメイトの白髪美少女譲りであろうか。岬は可憐な表情を引き締めて、弛んでいた自分の精神を責めた。
変態淑女を辞めると意気込んだところで、健全な肢体のままではすぐさま元通りになってしまう可能性がある。それならば欠損を生み出し、相手側から身体を重ねることを拒否させてしまえばいい。退路を断つことで否が応でも性癖から隔絶された世界で生きねばならないし、真人間としてやり直すことで、もはや誰に迷惑がかかることはないのだ。
(先輩から受けた影響は間違いだったんだ。先輩と過ごした楽しいひとときは全部間違いなんだ……)
岬の独白はもはや暗示に近い。熊谷瑠乃亜に関わるものをすべて消去しなければ、忌まわしい盗撮のトラウマは永久に残る。先輩に会う前の、無条件に頼み事を引き受けていた上野岬に戻ることこそが、大金を使わせた両親に対する唯一の償いであるはずだった。
豪奢な室内を見渡す気力も失せ、岬は艶やかな黒髪を這わせながらベッドに倒れ込んだ。火影の血の臭いは当たり前だが感じない。だが、ここに己の血を交えると思うと、ありもしない臭いにも過敏になってしまうというものだ。
(早く終わらせてくれないかなあ。ずっと心が宙ぶらりんになるのも疲れるんだよ……)
情事の前だから寝るわけにもいかず、岬は時間と精神を持て余した。退屈は空想の土壌である。運命の女神はこのとき岬に対して極めて意地が悪く、空白の思考に少女の淡い思い出を流し込んでいた。
聖黎女学園での楽しいひとときや、騒動がうまく収まった際の胸のすくような皆の笑顔。変態淑女であったが、中学時代は他の誰よりも聡明であった熊谷会長。そして何より、幼少期から惜しみない愛情を注ぎ続けてくれた母親、澪のぬくもり……。
「……やめて‼︎」
絶叫しながら岬はシーツを強く握りしめた。未練がましい情誼と完全に決別しようと顔をシーツにこすりつけながらわめき始める。
「あたしはまっとうな人生を送らなくちゃならないの! そのためなら優しいだけの思い出なんか惜しくない‼︎」
やみくもに自分の意固地ぶりを訴えかける。そこに扉が叩かれる音が響き渡った。叫んでいた岬の耳にもしっかりとその音が届き、心臓を直接ノックされたような心地で跳び上がった。
神妙な態度で座り直すと、扉から一条家の優秀なメイドが顔を覗かせた。
「準備がすべて整いました。間もなく部屋へ参られます」
無機質にそれだけ告げると扉は再び閉ざされ、岬は運命の時の到来に心臓を限界まで騒がせた。
そして再び扉が開かれた瞬間、岬は驚きのあまりその心臓が停止してしまうかと思われた。
「う、そ……どうして……」
ゆったりとした白いネグリジェを纏った白髪少女は、灰色の瞳をきらめかせながら愕然とする岬をまっすぐに見つめていた。
次話の更新は2023年1月8日となります。あらかじめご了承くださいませ。
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