熟睡した岬が目を覚ますと、壁掛け時計の針はすでに午後二時半を回っていた。
あまりに寝すぎてしまったという事実に、岬は上半身を起こしたまま愕然としたものだが、どうにか立ち直ると、身じろぎをして自分の肌と衣服の状態を確認する。
(なんだ。痛めつけられても服を乱されてもないじゃない。せっかく一矢報いられる好機を与えたのになあ)
ルームメイトの凄絶な覚悟を知らないからこその感想であった。知っていれば、とても余裕ぶってはいられなかっただろう。
完全に寝入っていたため、首を絞めかけられたことも、私物を入れた引き出しに鍵がかかっていることも、彼女はまったく知らない。
真実に気づかぬまま、軽やかにベッドから飛び降りる。
起床に呼応して胃腸も活動し始め、岬は三号棟から本棟に移り、奥にある食堂へ向かう。だが、食堂の自動ドアは閉め切られていた。ランチタイムはすでに終わったらしく、岬は自動ドアの前でしばらく立ち尽くしてしまった。
「……こりゃあ参った」
口元に苦笑が浮かび、空腹を抱えたまま踵を返す。お昼を抜いたところで別に死にはしないと自らを慰めていたが、ちょうどそのとき購買が見えたので立ち寄ることにした。岬の中学校にも購買は存在していたが、黎女のそれは、ちょっとしたコンビニほどの規模がある。
文房具の他に生活用品や基礎化粧品、廉価版の下着類などが格安で購入できるようになっており、飲み物や軽食なども販売されている。
今の岬にとっては非常にありがたいことだった。
「あ、これ懐かしいかも……」
お菓子売り場で、岬はとある玩具菓子の箱を手に取った。カカオエッグと呼ばれるもので、卵状のお菓子の中にオマケの入ったカプセルが収納されているのだ。岬も幼い頃は母にせがみ、その中身をよく集めたものである。
懐旧の念に駆られてカカオエッグを二つ購入し、岬は本棟と三号棟をつなぐ渡り廊下へ向かう。
いきなり服の袖を引っ張られたのはこの時だった。
「うおうッ」
驚いて背後を振り向く。袖を掴んだのは岬より背の小さい少女だった。幼げな印象で、亜麻色の髪と黒のニーソックスが岬に「あらかわいい」という第一印象を与えた。
改めて少女の姿を観察すると、後ろ髪は背中までのストレート、前髪は真ん中でくっきり分け、愛らしいおでこをひらめかせている。瞳は鳶色で形は大きく、無邪気さは、変態性を隠す岬のものとは異なる本物のようである。
少女の服装は黒のネックシャツにチェック柄のジャンパーミニスカートというもので、黒のニーソックスと相まって、全体的に幼げなあざとさを前に出している。中等科どころか初等科の児童かしらと思ったほどだが、ひとまず岬は変態的人相を押し込めて「どうしたの?」と尋ねてみる。
少女は思い詰めた表情で、こう問い返した。
「……開けないのか」
「えっ?」
「開けてみて、オマケが何なのか確かめないのか」
外見の割に随分とざっかけない口調である。
少女の視線がカカオエッグに釘付けになっていることに、岬はようやく気がついた。
うずうずと期待している少女の態度が微笑ましく、岬の口調も自然と幼子を相手にするようなものに変化する。
「この中身が気になるんだ?」
「うん、その中身を集めてるんだ」
「なるほどね~。もちろんいいよ」
本棟は広く、等間隔に休憩用のベンチが随所にしつらえられている。
その一つに二人は腰を下ろした。
箱を一つ少女に提供し、二人は同時にカカオエッグを割る。
開封した結果は、亜麻色の髪の少女を落胆させるものだった。
「があーっ。やっぱり簡単には当たらんかー……」
盛大にうめいてうなだれる。岬は自分が開けたカプセルの中身を手のひらに乗せてみた。入っていたフィギュアは頭にキノコを生やしたアザラシの赤ん坊であり、隣の少女はキノコの柄の入ったクラゲである。
随分と面白いものを好むんだなあと思いつつ、岬は肩を落とす少女に声をかけた。
「えーっと……何かごめんね。ところで、あなたのお名前を聞いてもいいかな?」
「ん? そういや見ない顔だなあ」
少女は顔を上げ、鳶色の瞳で岬をじっと見つめる。
「黎女に編入されたばかりだからね。ちなみにあたしは上野岬」
「春山雪葉って言うんだ。よろしくなー、みさき」
「うん、こちらこそよろしく。春山さん」
「『ゆきは』でいいって。こっちもみさきって呼ぶからさ」
岬は思わず首を傾げそうになった。
何だかどこかで聞いたようなフレーズだと感じたのである。
ともあれ、岬と雪葉はすぐに打ち解けることができた。岬としては、一条和佐を傷つけてしまったことによる罪悪感が一時的に癒えた気分だった。
もっとも、岬が学年を尋ねたとき、雪葉が岬と同じ高等科一年に上がると知って面食らったものだ。完全に中等科に進学するものだと思っていたのである。
子ども扱いされた雪葉の反感をカカオエッグのお裾分けでなだめさせた岬は、ついでに雪葉からフィギュアについての説明を求めた。
ニーソックスに包まれた細脚をばたつかせながら、少女は快く請け負った。
『海洋生物KINOKO』シリーズはキノコアザラシを中心に様々なグッズを出しており、動画やSNSも人気を呼んでいるらしい。寮内でも人気のようで、過去にこの玩具菓子を爆買いされた例もあったくらいだ。それを機に、現在は購入が一日一人三個に制限されているらしい。
キノコアザラシに対する長い説明が終わり、さらに雪葉がクラゲについての話題に移ろうとしたとき。
「おい雪葉、その女に近づくな!」
鋭い一喝が飛び、二人は口を閉ざして声の主を見た。
岬はその声に聞き覚えがあった。カカオエッグと同等の色をした短い髪と、野性味にあふれた黒い瞳。視線は、こちらに対する敵愾心があからさまであった。
岬や雪葉と同様に、数日後に高等科一年の進学を控えた東野暁音である。
暁音と再会したのは一昨日以来だが、思えば随分久しぶりに会ったような気がする。それだけ昨日の一条邸でのやり取りが鮮烈で濃密だったということだろう。
暁音は雪葉に対しても咎め立てするような視線を投げかけ、その雪葉はふてくされたような声を上げて応じたのだった。
「なんだよー、あかね。今いいところなのに」
「その女に近づくなって言ってんだ」
再度警告し、雪葉は不服そうに黙り込む。岬も黙然としながら二人のやりとりを見つめた。
一昨日の出来事を思えば、暁音が自分に好意をおぼえることはまずない。だとしても、他人と接触を禁じる筋合いはないはずだ。
いや、もしかして、暁音にとってこの亜麻色髪の美少女は赤の他人ではないのかもしれない。
「暁音、雪葉の知り合い?」
「ルームメイトで、しかも幼馴染を知らないやつなんかいるもんかよ」
へえ、と感心しかけた岬は、次の瞬間、絶叫寸前の表情を浮かべた。
東野暁音の幼馴染だって⁉
三年前の入寮初日、一条和佐はルームメイトを嫌がらせのキスで追い返したという。
そして、その少女は東野暁音の幼馴染と聞いていたのである。
岬はプルーン色の瞳を最大まで見開かせた。
「まさか、一条さんに嫌がらせのキスを受けたルームメイトって……雪葉のことなの⁉」
その雪葉の目と口も、岬に負けじと丸くなる。
「へ? みさき、カズ嬢のことを知ってんの?」
「かずじょう……?」
なぜ『かずさ』じゃなくて、そんな個性的なあだ名になるのか。
面食らった岬をよそに、暁音が徹底的に意地の悪い口調で、幼馴染の少女に言い放つ。
「こいつはなあ、一条の野郎のルームメイトなんだよ」
「マジで⁉」
雪葉がのけぞる。今まで編入生の正体を聞かされていなかったらしい。ルームメイトの暁音は教えてあげなかったのだろうか。
「じゃあ、みさき……まさかカズ嬢に『ぶっちう』ってされたのか?」
ぶっちう、ってなあ。
キスにはこだわりのある岬にとってあまり感じのよい響きとは言えないが、わざわざ議題に上げるほどでもない。
「うん、されたけど。キス」
平淡に返され、雪葉は短いスカートにも関わらずひっくり返りそうになる。
信じられないと言わんばかりに鳶色の瞳をしばたたかせた。
「されたけど……って、そんなことあっさり言うな!」
「別に心配しなくてもいいぞ雪葉。こいつは気に入ったやつを手当たり次第に襲うような変態だからな。お前も最悪、こいつにもキスされるかもしれないんだ」
今度は雪葉は顔を青ざめさせ、小さな手で自分の服の袖を握りしめた。指が細かく震えている。三年前のキスがそれほどトラウマになっていたということか。
雪葉の上目遣いに、初めて岬に対する否定的な色が現れた。あれだけ気さくに話しかけてくれた少女にこのような態度をとられると、岬としても胸が痛くなる。
そして、雪葉の警戒心を醸成させた暁音に対して岬は抗議の声を上げたのだった。
「あたしは望まない相手にそんなことはしないよ」
「何抜かしてやがる。プールのシャワー室で私に四つん這いで迫ったことをもう忘れたのかよ」
「う……」
忘れられるわけがない。あの時の暁音のスポーティな色香を纏わせた肢体ときたら……いや、これ以上想像したら顔に出て、暁音の反発をさらに助長させそうだ。
一方で、シャワー室での話を聞いて、暁音の幼馴染は違う意味で仰天していた。
「ええーっ⁉ あかね、みさきに襲われたのか⁉ ひんそーな身体つきなのに……」
「身体の貧相さに関しては雪葉も一緒だろうが!」
コンプレックスを刺激されたのか、短髪の少女がさらにわめく。
確かに胸に関しては、幼馴染どうし仲がよろしいことで、ということになるのだが、黒のニーソックスに包まれた雪葉の細い脚は魅力的だし、暁音の肢体は、直に見た身からすれば言わずもがなだ。
なぜか、岬を差し置いて幼馴染どうしの喧嘩が勃発する。雪葉が「ホントのことじゃんか!」と叫び、暁音が「言っていいことと悪いことがあるだろ!」と言い返す。程度の高くない口論が大音量で展開され、岬としては止めるために余計な口を挟むしかなかった。
「雪葉、そんなこと言うのは可哀想だよ。暁音も雪葉も、あたしからすれば卑下するところは何もないって」
「お前は黙ってろ‼」
岬は首をすくめた。怒られるのは予想できていたが、暴走を止めてあげたのにそれはないだろうという心境もないではない。
変態淑女が肢体について語るのがまずかったのか、平均以上のプロポーションを持つ岬が慰めたのが失敗だったのか。正直、内省する気には、あまりなれない。
暁音はすっかり怒り心頭であり、ベンチに座っている雪葉に向かってせかすのであった。
「いくぞ雪葉。こんな奴に構ってられるか」
「う、あ、うん……」
複雑な表情を浮かべつつも雪葉は最終的に頷き、幼馴染に連れられるかたちで三号棟の渡り廊下へ向かった。
立ち去る際に、一度だけ岬の顔をちらりと振り返ったが、声をかけられることはついになかった。
一人取り残されると、岬は盛大にわざとらしく息を吐き、ベンチに置き去りにされた海洋生物のフィギュアに視線を落とした。
「あーもう、どうしたものかなあ……」
岬の嘆きは、フィギュアの保管方法と雪葉との今後の関係についての両方が含まれている。
少なくとも、彼女とこれきりというのは岬にとっては論外であった。彼女自身は非常に打ち解けやすい少女なのだから。
だが、キスにトラウマを抱えているとなると、変態淑女の身としては、彼女から信用を得るために無策で臨むわけにはいかなかった。厄介なことに、彼女の傍には幼馴染の少女がドーベルマンさながらの目つきで変態淑女を警戒しているわけである。
とりあえず、フィギュアの保管に関しては荷解きついでに引き出しにしまっておけばいいだろう。
ひとまずそう結論を出しておくと、岬もベンチから離れ、三号棟の自室へ戻ったのである。
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