岬は連休初日の午前中から遠方の実家に到着していた。
最後の授業日を終えると、予約していた夜行バスに乗り込むために東京駅へ出立し、翌朝には懐かしの地を踏みしめていたのである。
座って寝ていただけにも関わらず、岬の身体は強い倦怠感に包まれていた。駅の前で母の迎えの車に乗せてもらうと、会話中にそのまま寝落ちしそうになるほどである。
だが、母からの驚くべき報告によって、半睡だった岬の意識は一気に冴え渡ることとなった。
「そう言えば、熊谷さんからあなた宛てに電話があったのよ」
「先輩から?」
まさかここで熊谷瑠乃亜の名前を聞くとは思わず、岬の反応は喜びより緊張の方がまさった。彼女には聞きたいことが山ほどあったが、立ち消え方が異様だったために真実を知るのが怖かった。加えて、聖黎女学園の生活が実りあるものであったため、その使命感も段々と薄れていたのであった。
岬が折り返しの連絡を入れたのは、家に着き、短い仮眠をとった後のことだ。心の準備は万全とは言えないが、先輩も暇ではないだろうし、忙しくなる前にかけるに越したことはない。
家の電話からかけると、十秒も待たずに返答が訪れた。
「……岬⁉」
何も変わらない先輩の声音に、岬は胸中に懐旧の念が湧き起こった。
もっとも、二年間も音信不通だった事実もあって、岬の応答は自然と感動が抑えられたものとなる。
「先輩、ご無沙汰ですね」
「ええ、本当に懐かしいわ。ごめんなさい、今まで連絡ができなくて……」
ここまで神妙に謝罪されると「まったくですよ」と文句を言う気も失せてしまう。
岬は慎重な口調で、先輩の深い事情に踏み込んだ。
「あたしは構いませんが……。皆、心配してましたよ。受験に落ちたと聞いてから一切音沙汰がなかったものですから」
「……入試は取りやめたのよ」
「えっ?」
面食らった岬だが、しだいに瘴気交じりの冷気が胃の底から這い上がってきた。
返答の内容もさることながら、言葉からほとばしる雰囲気に岬は過去に先輩を雪女と評したことを思い返した。
その雪女の口調をすぐさま元に戻すと、瑠乃亜は後輩少女に提案した。
「続きは会ってから話しましょう。私のアパートに来れる?」
時計を確認して、岬は電話越しにも関わらず頷いた。
「そうですね。昼食後、午後一時くらいからでよろしいでしょうか?」
「ちょうどいいわ。どうもありがとう」
こうして通話は打ち切られたが、岬としては先輩の態度に不穏を感じずにはいられなかった。高校進学は先輩にとって母を楽にさせるための重要な一歩であったはずだ。その一歩を自分からふいにしてしまったのかと考えると、再会したところで楽しい会話ができるかは極めて怪しいところだ。
ともあれ約束を交わした以上、岬は身だしなみを万全に整えて先輩のアパートへ向かうことにしたのだった。
二年ぶりのアパートは、以前見たよりも退廃ぶりが鮮やかに感じられた。
単に空が曇りだからそう見えるだけかもしれないし、岬の不安を通して建物の印象を歪めているせいかもしれない。先輩の部屋には窓にシャッターが下ろされており、錆びついた鉄のカーテンがさらに岬の心に荒涼の風を吹かせた。
さっさと先輩に会わなくてはと思い、岬は一つ深呼吸し、階段を踏み鳴らして『210』のプレートのかかった部屋の前までたどり着いた。チャイムを鳴らすと、扉越しから声が返ってくる。
「……岬ね?」
熊谷元会長の声は電話の時とは打って変わって、過度な警戒を伴ったものだった。
その緊張は岬の内部にも感染し、応じるのにだいぶ時間を空費してしまった。
「し、失礼いたしました……。時間通りに来たんですからそこまで用心しなくてもいいじゃないですか」
心外そうに岬がぼやくと「そうね……」と返事がきて、やがて扉が開かれた。隙間から紫檀色の髪の先がうかがえる。
先輩との対面に備えて岬は友好的な表情を取り繕ったが、その努力は一瞬で霧散してしまった。
「せ、先輩……?」
思わず声に震えがはしるほど、現れた先輩の印象は尋常でなかった。
瑠乃亜のかんばせには辛うじて昔の美しさが残されていたが、そのほとんどは化粧で補われたものだった。肌は白く塗られ、まつ毛は黒さを際立たせており、唇はまるで質の悪い血液で染めたかのように鮮やかだ。それだけ顔を整えておきながら、身につけているものが中学時代のジャージのままというのが何ともちぐはぐである。
そのジャージ姿の先輩に促されて、岬は廊下に足を踏み入れた。以前も移動するのに骨が折れた私物まみれの狭い廊下だ。渡る際、すぐ近くにあった先輩の後ろ髪から放たれる強烈な香水の匂いがただよい、岬は顔をしかめた。
だが廊下を抜けると、その匂いさえも気にならなくなった。
先輩の変貌以上の衝撃に、岬は立ち尽くしてしまった。
六畳一間の部屋は悪い意味で一新されていた。シャッターが下ろされ、蛍光灯の冷めた光のみで照らされた空間は、かつては瑠乃亜によって手入れがきちんと行き届いていたはずだ。だが今、その場所は荒廃の極みにあった。
まず、機能性の高そうな机がなくなっている。代わりに空間を占めていたのは、乱雑に私物が密集された収納ボックスの山だった。ちらりと見ただけで、服から日用品、それからこまごまとした小物までが一緒くたに詰め込まれているのが判別でき、部屋の湿り気と入り混じって奇妙な臭いをただよわせている。岬の知っている先輩からは想像もつかないほどの混沌ぶりであった。
そして、その混沌の部屋の主は中央に敷かれた布団に膝をつくと、岬もそれに倣い、こわばった表情で変わり果てた空間を見回した。
「一体どうしたというんです、これは?」
「母が死んだわ。去年の一月のことよ」
早々に岬の心臓は凍りついた。直接会うことはなかったが、先輩の話しぶりからしても、いかに素晴らしい母親であるかは理解できた。身に余る献身ぶりを娘は危惧していたが、その無茶が最悪のかたちで報われることになってしまったということか。
神経まで青ざめた岬だが、衝撃の事実を聞いてしまった以上、踏み込まないわけにもいかない。先輩もきっと、聞かれることを望んでいるのだろうし。
「それじゃ、お母様が亡くなった後の生活は……」
「母の親戚が後見人として来てくれたわ。優しい人だけど、お金に余裕がないからと進学を取りやめるように言ってきてね……。貯めていたお金も全部生活費に回されてしまったわ」
岬はさらに胸が痛くなってしあった。あれは先輩が母親のために苦心して貯めたお金のはずなのに。その母親が亡くなった以上、目的を見失った資金が逼迫した生活を救うためにあてがわれるのは間違った判断とは言えないのだろう。
だが、そうなると部屋中にある私物の山に疑問が残る。
あれはすべて生活に必要なものなのだろうか。岬の知っている先輩であれば、この手の浪費を半分程度には抑えられるはずだ。そうすれば貯蓄をつぎ込むにしても微々たるもので済んだのかもしれないのに。
瑠乃亜はすでに諦めがついたと言わんばかりの軽い溜息を吐いた。
「確かに、この状態ではとても勉強なんて言ってられないからね。アルバイトをしてどうにかこうにか生計を維持してきて、最近になってようやく岬のことを思い出せる程度には余裕が出てきたというわけなの」
逆に言えば、思い出すまでに一年もの時間を犠牲にする必要があったということだ。
ここまで聞いてしまうと「なんで連絡を寄越さなかったんです?」となじることは、到底できない。一体いかなる女神が何の権限をもって、この美しい外貌の先輩に非業の運命を強いるのだろう。
瑠乃亜は顔を上げて、まじまじと岬の容姿を見つめた。顔から服装にいたるまで、丹念に。
かつて彼女に裸体をもてあそばれた件もあって、何だか視姦されているような気がして岬は落ち着かなかった。恐らく白髪のルームメイト相手ならその手の視線も歓迎したことだろうが、先輩相手だとまるで猫に値踏みされる鼠の気持ちになる。
耐えきれず、岬は声を出して身をよじらせた。
「せ、先輩っ……」
「ふふッ……会わなくなってだいぶ時間が経ったけれど、あなたはさらに可憐になったみたいね。初めて会った時と比べると見違えるようだわ」
それは先輩も一緒ですよ、と答える勇気は岬にはとてもなかった。
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