朝食後、岬は和佐とともに一条邸を後にした。
黎明さまに見送られ、風月の運転するアルトラパンに乗り込んでの出立である。
熱い夜を過ごした二人は揃って後部座席に収まっていたが、隣どうしにいながら会話は一切発生していない。和佐の場合、元々の性分のせいで違和感はなかったが、人懐っこいルームメイトの方は何やら緊張状態である。
ニーソックスに包まれた膝に手を置きつつ可憐な顔をずっとこわばらせていたものだから、ちらりと見ていた白髪少女も声をかけずにはいられなかった。
「一体何に身構えているというのよ」
「いやあ、帰ってきたあたしを見て皆どういう反応をするかと思って……」
笑みを取り繕うもぎこちない。周りにどれだけ迷惑をかけてきたと考えると、好意的に受け入れられるとは思っていても、やはり指の震えを抑え切れなかったのだろう。
編入生の態度に、和佐は呆れたようにまばゆい白髪をかき上げた。
「なるようにしかならないでしょう。少なくとも私の知るあなたなら、どのような反応を示されても冷静に対処してきたと思うけれど」
「まあ、冷静になるっていうより勝手にそういうモードに入るっていうか……」
言いさしてから、岬は確かに今の状況を自分らしくないと思い、わだかまりを放り投げるかのように両腕で伸びをした。
そこに運転席の風月が振り返らずに付け足す。
「もしお気になさるのであれば、我々の反応をご参照いただければと。私とご主人様が現在の岬様を歓迎しているのは紛れもない事実でございます」
「ありがとうございます。……もう大丈夫です」
二人に励まされ、岬はフロントガラスに映る朝の街並みをまっすぐ見据えた。
ピンクのアルトラパンは箱谷山に突入し、あふれかえる緑を後方に流しながら車道を上っていく。そして寮棟区正門前の石畳に辿り着くと、二人は風月の一礼を受けてその門をくぐった。
赤煉瓦の寮棟に近づくごとに、岬の胸騒ぎも大きくなる。
熱烈な歓迎は、本棟の自動ドアを通り抜けた瞬間に訪れた。
栗色のミディアムボブの少女が艶やかな亜麻色髪の少女と会話をしていたが、岬が耳をそばだてようとする間もなく、二人の口が凍りついた。
叫びを上げるまでに若干の時間的余白があった。
「岬姉様⁉」
「みさき!」
胡桃色と鳶色の視線がそれぞれ稀代の変態淑女に注がれる。
驚きの反応に心をくすぐられるのを感じつつ、岬は表向きは爽やかに二人に笑みを投げかけたのであった。
「やあ二人とも、心配かけちゃったね」
途端に二人の瞳が春の薄氷のごとく融解する。三つ編み少女に飛びかかるさまは少女のかたちをした子犬と称してもいいくらいで、その子犬たちは岬にしがみついたまま涙声で自分たちの心細さを訴えかけた。
「うわぁんっ! 岬姉様っ、岬ねえさまあっ……!」
「やっと戻ってきたか! 遅すぎるぞ、みさき!」
「おーよしよし、本当にごめんね。もう大丈夫だから……」
岬は苦笑しながら二人の頭を愛おしげに撫でた。撫でた本人も次第に涙が込み上がってくる。暖かな日常の帰還を心待ちにしていたのは他ならぬ自分であったと、思い知らされたような気分であった。
雪葉と円珠は岬の服に顔をうずめながら堪えていた分の涙をまだ放出し続けている。
「うっ……ぐずっ……もし岬姉様が帰ってこなかったらと思うと、わたし、わたしっ……」
「ほんとだぞ! ゆきはたちも二度と立ち直れなくなるとこだったんだからな!」
二人がかりで腹に頭部を押しつけられるかたちとなって、さすがに岬も苦笑してやんわりと二人を引き剥がそうとした。
「うう~……悪かったってば。んもう、そんなに泣かないでよ~」
「でも、わたしたちより遥かに泣いておられる方があちらに……」
「ん?」
顔を上げた円珠が指差した先には、いつの間にか人だかりができていた。
三号棟への渡り廊下の入り口で群がる人々の中に、とりわけ反応がすごい人物を岬は発見した。紅茶色の長髪をポニーテールにしている先輩で、名前は赤城沙織子と言った。
「うううう……上野さん、よがっだわ。私も本当に心配じでだんだがら……!」
「沙織子おねーさん、顔がものすごいですよ」
顔もそうだが、声もものすごいことになっている。
周りの後輩に『おねーさん』呼びを推しまくる寮生委員の先輩は、袖で乱暴に鹿毛色の瞳をこすると、その瞳を赤く腫らしたまま少女のもとへ駆け寄った。先輩が迫ってきたということで雪葉と円珠は岬から身体を離し、この先のやり取りをうかがった。
「私の顔なんてどうでもいいの。……うん、やっぱり、笑顔でいた方が上野さんらしいわね」
岬の肩を掴み、沙織子は真摯な笑顔で彼女の帰還を喜んだ。そそっかしいが、紛れもなく生徒のことを思っている先輩の優しさを感じ取り、岬も返す笑みに純粋な感謝を込めた。
だが厳粛な空気が去ると、ここで岬は余計な悪戯心を発揮させてしまった。
「えへへ、ありがとうございます~。これでようやく、おねーさんとの約束も果たすことができますね」
「やくそく?」
きょとんとなる沙織子に、変態淑女の後輩は耳元に唇を寄せてささやいた。
「……あのときの『私を押し倒しなさい』って言葉、あれ本気にしちゃいますから」
「!?!?!」
沙織子の顔色が暴発した。
確かに、豹変した岬を立ち直らせようとそんなことを言った記憶がある。むろん身体を差し出すというのは決死の覚悟から出た方便であり、まさかそれを言質にとって迫ってくるとは予想できるはずもなかった。
瞬時に酩酊状態となり、濃密な絡みにまるで耐性のないおねーさんは肩から手を離して後方へふらふらとよろめいた。
「あ、あれはその場の勢いというか言葉の綾というもので……本気で押し倒されるつもりは……はにゃーん……!」
「うわ、バカリコ! こっちに落ちてくんな!」
沙織子が身体を傾けた先にはルームメイトの都丸千佳がいた。彼女がこの場に訪れていたのは完全に野次馬根性からで、その精神が災難を招く結果となったのである。
小柄な千佳で長身の沙織子を支え切るのは難しい。数人の寮生も救助に加わり、一角はちょっとしたパニックに見舞われた。
その光景の一部始終を見ていた岬は苦笑をたたえたものの、そこに自分が加わってもさらに面倒になると判断し、薄情にもそのまま騒動から遠ざかることにした。雪葉と円珠を再び引っつけて、本棟の内部をさらに歩き続ける。
遠方からこちらをうかがっている存在に岬は先ほどから気がついており、こっそりと視線を飛ばす相手に彼女は悠々と近づいて声をかけた。
「暁音にも迷惑をかけちゃったね。この埋め合わせはきっとするから」
「別にいい。それより雪葉からさっさと離れろよ」
岬に気づかれても東野暁音は逃げようとしなかった。
だが喜びを素直に表せない強がりからか、笑顔が戻った岬に対してそっぽを向けたままである。
毒づく暁音に、両手の花の編入生はさらにだらしなく笑顔をとろかせた。
「それは無理かなー。だって雪葉の方からあたしに引っ付いてくれるんだもん」
「あかねもこっちこいよー。本当はみさきがヘコんで寂しかったんだろ?」
「誰が⁉」
幼馴染の雪葉にもせっつかれて、暁音はさらに野性味あふれた表情をぎらつかせた。そんなみっともない真似ができるかと、黒々とした瞳が語っているようであったが、その確固たる決意は思わぬ横槍で妨げられた。
「あら、せっかくだから応じておきなさいな」
「し、シスター……⁉」
いつの間にかやって来ていた三号棟の寮母の進言で、暁音は大弱りとなってしまった。なるべく穏便な言葉遣いで辞退しようとするも、そのような及び腰を容認するシスター蒼山ではなかった。
「こういう触れ合いができるのも若いならではよ。今は強がるべき場面ではないわ」
やんわりとした笑顔で畳みかけられて、暁音は抵抗の無意味さを自覚した。雪葉と円珠がわざわざスペースを空けてくれたため、やけくその心境でその空間にすっぽりと埋もれる。
前左右の三方のぬくもりを感じながら、短髪少女は可能な限り不機嫌な調子を作って三つ編みの編入生にぼやいた。
「ったく、世話かけさせやがって……」
「ありがとうね、暁音」
そのまま岬は暁音のチョコレート色の髪を撫でようとしたが、それは実現されなかった。変態淑女の毒牙を過剰に警戒し、白い修道服の寮母のそばまで一飛びで遠ざかる。
やって来た暁音を和やかに見つめたシスター蒼山は、やがてその視線を岬に向けた。
「待っていたわ上野さん。意気消沈していたときの反動かしら。より一層あなたの笑顔がきらめいて見えるわ」
「えへへ、あたしもそう思います〜」
調子のいいものだが、その態度さえも愛おしく感じられたのが両手の花の少女たちである。鳶色と胡桃色の視線が輝きをもってプルーン色の瞳の少女に捧げられ、少女の本性はともかく、絵になる光景であることは間違いなかった。
「これからも節度は保って学校生活を充実させていきなさいね。あと私だけにはこっそり何かあったのか聞かせてちょうだいね」
「えーっ、みさきに何があったかゆきはも知りたいぞ!」
「春山先輩、わたしがお話しいたしますから……」
円珠が小声で雪葉に告げる。もっとも、内容をどこまで打ち明けるべきかは二人の姉様の裁量しだいになるわけだが。
「……って、あれ? 姉様のお姿は……」
「ここよ」
岬を救った最大の功労者は、一同が思ったよりも近くの場所にたたずんでいた。
その和佐は髪をかき上げる仕草をとりながら浮かれ心地のルームメイトに鋭い視線を送る。
「お邪魔虫かと思って距離をとったけれど、そのまま忘れ去られるとは想定外だわ。円珠も岬にべたべたできて良かったじゃない」
冷ややかな声に、円珠の背筋は凍結しそうになった。
「ひっ! 姉様、誠にもって申し訳も……」
「一条さん、そんなにすねないで下さいよ〜。混ざりたいなら歓迎しましたのに」
「馬鹿げたことを」
ルームメイトの誘いを一蹴すると、和佐は白髪を振り乱して背を向け、帰ると言わんばかりにわざとらしい一歩を踏み出した。
「さすがにこの難物を説得するのは疲れたわ。予定もないわけだし、もう一寝入りさせてもらおうかしら。円珠も今は遠慮して」
「は、はい……」
姉様の機嫌を損ねたこともあり、説得の内容について聞くのを円珠は断念した。加えて雪葉が呼ばれなかったのは、そもそも暁音が同行を認めるはずがないと和佐が踏んだからであった。
そして雪葉と同様に白髪少女から名前を上げられなかった岬は、雪葉と円珠を離し、暁音と寮母を加えた面々に対して頭を下げて、こう告げたのだった。
「すいません。あたしも一条さんについてきますね。積もる話はいずれと言うことで」
そうして、黒髪三つ編みの少女は一堂のもとから離れた。
寄り添うように隣り合って歩こうとする編入性の存在を、和佐は拒まなかった。
◇ ◆ ◇
他の面々もそれぞれに活動を再開し、岬と和佐は三号棟の渡り廊下へと向かった。沙織子おねーさんの騒動はすでに収束しており、人がいなくなると物悲しさをおぼえてしまうほどの静けさを感じられる。
渡り廊下を歩きながら、岬はこの先について考えた。
ルームメイトとようやく心と身体を通わせることに成功したが、その喜びが永遠に続かないという事実を、熊谷瑠乃亜を通じて思い知らされていた。
岬は変化が嫌いだ。
自分に限らず、大抵の人は不都合な変化を望まないだろう。
和佐は『変わるべきものだけが変わればよい』と言ってくれたが、それがうまくいくという保障もどこにもないのだ。
だが、それでも前を向いて進み続けるしかない。岬はそう割り切ることにした。
こちらを信じると言ってくれた和佐を、岬も信じたいと思った。
いまだにわだかまっている心の傷を得意のポーカーフェイスで切り抜け、これからの学校生活を謳歌するのが、自身の闇に対する何よりの報復となるだろう。
隣の少女と足並みを揃えながら、岬は決意を秘めた声で切り出した。
「一条さん」
「何」
「あたし、あなたのルームメイトで本当に良かった」
「…………」
和佐は無言で白髪をかき上げ、灰色の視線を送りながらルームメイトの次の言葉を待った。
「一条さんがいてくださらなかったら、あたしは先輩の件で永久に立ち直れなかったかもしれません。哀しみを乗り越えて、今こうやって廊下を歩いていられるのも、すべては一条さんのおかげなんです」
「……社交辞令としてありがたく受けておくわ」
岬の純真な謝意を突っぱねるようにも聞こえるが、何のことはなく、単に白髪少女が持ち前の強がりを発揮させただけである。
それを岬は理解していて、理解されていることを自覚している和佐はしかつめらしくさらに続けた。
「それよりも今後に目を向けた方が建設的ではないかしら。黎明は私や風月以外の事柄に関しては優秀よ。熊谷瑠乃亜が復帰した際は、あなたが責任をもって関係をこじらせないようにすることね」
「えへへ、わかってますって~」
白髪少女の発言を、岬は『私以外の女に移り気をおこしたら許さないわよ』と解釈したのだった。
あながち間違ってもないだろう。
熊谷瑠乃亜の今後はまだ不明瞭だが、過去最高の聖花と謳われた黎明さまの手腕と、それを信じる和佐の言葉を岬は信じることにした。
渡り廊下を通り抜け、三号棟の廊下に移った際、岬は和佐の方へと向き直った。
「あ、そうだ。もし先輩があたしのように救われた暁には、ぜひ一度先輩に会ってみてほしいです。お二人がどのような反応を示すか興味がありますので」
「……そうね。その価値は確かにありそうだわ」
珍しく素直に受け取ってみせたと思いきや、こちらも相変わらずの気難しさを発揮させて、ルームメイトの少女に毒を吐いた。
「私をここまで悩ませてくれたのだもの。一言でも文句を言ってやらないと気が済まないわ」
「な、なるべくお手柔らかに……」
苦笑交じりの岬の声など、和佐は聞いていない。
立ち直った瑠乃亜が、なおも岬に思いを寄せるかは未知数である。岬を巡って争うのは御免被りたいが、万が一そうなってしまった場合、自分は勝てるだろうか。それを推し量るという理由だけでも、ルームメイトの昔の女と向き合うのは有益であるはずだ。
しばらく無言で歩き続け、二人はようやく三号棟の217号室の前まで辿り着いた。
岬が一条邸に赴いたのは昨日のことだが、随分と久しぶりに戻ってきたような心境になってしまう。また明日から楽しい学校生活が始まると思うと、何だか感慨深いものがあった。
だが、祝福の朝はこれで終わりではなかった。寮部屋に帰還した岬が人心地ついていたとき、いきなり和佐がこう切り出してきたのである。
「そう言えば、ちゃんとした挨拶はまだだったわね」
「おはようなら起きたときにすで言ったと思いますが……?」
ちゃんとしたとは言いがたかったですけど……と脳内で返した岬だが、その怪訝げな表情に和佐は白髪を左右に揺らした。
岬は三つ編みごと首を傾げてみせたが、次の瞬間、目が点になる。
和佐のまぶしい笑顔がまたあったのだ。
飽きるということはなく、むしろ頬を薄桃に染めながらの微笑みは、岬の心を完全に虜にさせた。
「小恥ずかしいけれど、言わないと締まらないものね。……おかえりなさい、岬」
変態淑女は沙織子おねーさん並に顔をのぼせ上らせていたが、その自覚さえ、しばらく欠落させていた。やがて喜びが飽和に達すると、その表現を笑顔のみで済ますことは到底できなくなった。
腕を広げて和佐目がけて飛びつく。
白髪の美少女は円珠、雪葉、暁音に続く最後の抱擁の対象となった。
抱擁を受けた白髪少女はさらに、きめ細やかな頬にキスを受けた。思えば、海外の家族が親愛を込めてするようなソフトキスを変態淑女から受けたのは、これが初めてなのかもしれない。
岬は抱擁を緩めると、頬に手を当てて立ち尽くす和佐に明るい声をはじけさせた。
「えへへ。ただいま、和佐!」
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