幸運にも、黎明の痴態は『クラウンアリス』の面々に気づかれることはなかった。白髪美女は何食わぬ顔を装ってワンピースやアクセサリーを買い上げ、店長の凛に別れを告げた。和佐の希望した衣装は来月あたりに完成して届けられることになっている。
ピンクのアルトラパンが都心を去り、紅金市の屋敷へと帰還した。
時刻はすでに午後二時を過ぎており、遅めの昼食を済ませてから、白髪姉妹はそれぞれの部屋に戻った。その間、二人の間に交流はなく、静寂を平然と受け入れていたのはメイドの風月だけであった。
動きが生じたのは、夕食を摂った後のことであった。
妹に続くかたちで席を立った黎明は、急いで彼女に追いすがった。少なくとも、姉の方には妹をないがしろにするという意思は存在しない。
ただ、不都合な事実を知ってしまった和佐にどう向き合えばいいか、判断がつきかねていたのである。
呼びかけられて、和佐は陰気の強い表情で振り返り、硬質な灰色の瞳に改めて不信の光を宿らせた。
意地でも口を開くまいという態度が明確で、必然的に黎明の方から話題を切り出すこととなった。
「ねえ、エミリー……」
「何よ」
「えっとね、凛ちゃんに一体どのような衣装を依頼したのか気になりまして」
「そんなことでいちいち声をかけてこないで」
キャリーのことをどう思っているのか踏み込めない弱腰の姉に、妹は冷然な態度で突き放した。
「教えるつもりはないわ。あなたに見せるために着るのではないもの」
「……岬ちゃんですのね」
「いけない?」
和佐は白髪をかき上げ、背を向けて部屋に戻ろうとする。
黎明は声を張り上げた。
「待って! 岬ちゃんのためだと言うなら、もう少し他の服も見てみませんこと? もしかしたらタンスに眠っている物の中に岬ちゃんの気に入りそうなものがあるかもしれませんし」
意表を突かれて、和佐は改めて姉と向き合った。
姉が勝手に依頼した服の存在などすっかり忘れ果てており、一度も見たことのない衣装もかなりあることだろう。黎明の態度は気に入らないが、一目見る価値ぐらいはあるかもしれない。
「わかったわ。とりあえず見てみる」
和佐や黎明の部屋にもクローゼットは置かれてあるが、普段着ることのない服などは専用の衣装部屋に眠ってある。管理は風月が完璧に行なっているため、傷んでいる可能性については心配いらなかった。
姉の視線がわずらわしいと感じつつも、和佐は一つ一つの衣装を丹念に観察した。
もともと自分の好みではなく、黎明と凛のOGコンビが「着せたい」というコンセプトでこしらえたものだ。コテコテのフリルやレース、リボンのついた衣装ばかり見せつけられ、岬好みの代物を見つけるという目的も忘れ、和佐は検分を中断してしまった。
「駄目。どれもピンとこないわ。あいつなら私が何を着ても喜ぶでしょうけれど、いずれの服も、私を引き立たせるものとしてふさわしくない……」
理想高き白髪乙女の嘆息に、黎明はおずおずと対応した。
「エミリーは岬ちゃんが一番喜びそうなものを凛ちゃんに依頼したのでしょう? この中にそれと似ているような服はなかったのかしら?」
「ないわね」
にべもなくエミリーは言い放った。
「そもそも、あなたたちが用意した衣装は私の要望を通してないものばかりでしょう。少しでも好みがあると踏んでいた私が浅はかだったわ」
無駄足とばかりに苛立つと、白いドレスの美女はどちらが姉かわからないような態度で妹の反応をうかがった。
「……あの、もしかしてエミリー、わたくしのこと怒ってます?」
「もしかしなくても怒っているわよ。私というものがありながら、他の女にうつつを抜かして、それを黙っているとはね。火影の件と一緒じゃない。あなたは私の気持ちをどう見ていたの」
黎明は身をすくませた。五年前の火影の耳の事件は、当時十歳の和佐に話すのは残酷すぎるということで打ち明けず、そのまま告白の機会を逸してしまったものだが、キャリーの件に関しては言い訳しようがない。和佐が円珠に語ったとおり、妹に触れられない寂しさを他の女で紛らわしていたのだから。いかなる弁解も、気難しい妹の機嫌を好転させるにはいたらないであろう。
その気難しさを保ったまま、白髪少女は扉に目をやった。
姉に背を向けるかたちとなり、その状態のまま和佐はぽつりとつぶやいた。
「……まあ、もう私に黎明を責める資格はないのでしょうけれど。これから私は岬に浮気することになるのだから。黎明がキャリーになびくように、私が岬にうつつを抜かせば、触ってもらえる可能性もずっと高くなる計算になるわけでしょう?」
黎明の心は揺らいだ。妹の性格を熟知している彼女は、妹が完全にルームメイトの編入生に傾倒するとは思っていない。
だがそれでも、和佐の口調はその可能性を感じさせるような何かがあったのだ。
もしかしたら、妹が自分を見捨てて、彼女に心を完全にゆだねてしまうのではないか、と。
自分の方から先にキャリーに心と身体を許したというのに、黎明は妹の心変わりを恐れた。まさに身勝手の極みであるが、このときの聖花さまは自己を省みる余裕などなかった。
「エミリー……っ!」
妹が扉の取っ手を引いて外に出ようとしたとき、黎明は動いた。ドレスの裾をはためかせながら駆け寄って、無我夢中に手を伸ばす。
「…………ッ⁉」
白髪少女は背後から姉の抱擁を受けた。すべすべとしたドレスの触感が背中と肩に当たる。
黎明の動悸は、和佐のそれの比ではなかった。以前、和佐の方から触れてもらった際は、後になって抑えていた興奮が暴発してベッドで大いに悶えたものだ。覚悟を決めての接触は黎明の中で猶予もなく発情に直結した。
(ああっ……エミリーのからだ、わたくしの手が、エミリーの柔らかな肌に触れている……!)
眩暈をおぼえそうなほどの興奮と葛藤に苛まれ、黎明は和佐から離れることを忘れた。一秒ごとに頬の色みが増し、妄想が理性に食い込んでいく。最愛の妹を壁に押し付け、ブラウスとスカートを剥ぐ光景まで幻視したが、それが実現されることはなかった。
和佐が勢いよく黎明の抱擁を払いのけたからだ。
「触らないでよ‼」
「え、エミリー……?」
妹のあまりの怒気に、あれだけの黎明の怒気が引いていった。
和佐は背を向けたまま、決死の覚悟で触れた姉に対して吠えたてる。
「どうせ、触れれば私が何でも許してくれるとでも思っていたのでしょう⁉ そのような理由で触れられたって少しも嬉しくないわ‼︎」
黎明は胸をえぐられる思いをした。和佐の痛烈な非難は、こちらの無意識に繰り出したご都合主義を正確に言い当ててみせたのである。
和佐はさらに畳みかけた。かんばせと声が、激しい感情で揺れていた。
「それに、それにっ……。こんなに簡単に触れるのなら、どうして五年前からそうしてくれなかったの⁉ 私が苦しみに耐えてきた五年間は何だったの⁉ どうしてキャリーで慰めてもらう必要があったの⁉ あなたはただ、心の弱さを言い訳に自分の都合のいいことをしたいだけじゃない! 私を避けていた理由も、愛しているという言葉も、まったくもって信用できないわ‼」
どさり、と膝の突く音が聞こえた。白髪少女のまっすぐな怒りはついにドレスの姉を物理的に打ちのめしたのだった。
黎明は肩で息をした。その肩を両手で抱き、指の震えは収まりそうにない。
やがて激しい呼吸のみを繰り返していた唇から声があふれた。それは、言葉ではなく嗚咽の音であった。
白髪の姉のすすり泣きは一秒ごとに大きくなり、妹が静かにたたずんでいる中、衣装部屋に弱々しい弁解の言葉を響かせた。
「うっ、ううっ……違います、違いますわっ……わたくし、本当にエミリーに触れるのが怖くてッ……それでも、覚悟を決めて、トラウマを押しのけて、ようやく抱き締めることができましたのに‼」
勢いよく顔を上げる。金の瞳からは涙の線が新たに伝い落ちている。
黎明は、妹の言葉の一切を否定することができなかった。
それでも、勇気を振り絞って触れた行為に対して一切の共感を示してもらえないのは辛すぎた。
再び黎明がうずくまる。それゆえ、妹がバツの悪そうな表情で視線を逸らしている事実を知らなかった。
認識したのは、最愛の妹のかけた無情な言葉だけであった。
「……私は岬と親しくすることにする。それが何を意味するかはお姉ちゃんが勝手に決めればいいわ。けれど、予想が外れたからといって、くれぐれも私たちに当たり散らすような真似はしないで」
扉の閉まる音が聞こえた。
黎明はひとり、衣装部屋で取り残されるかたちになった。
行動がすべて裏目に出た聖花さまはやがて泣くことへの無為さをさとると、立ち上がり、ドレスの裾をはたいて衣装部屋を後にしたのだった。
白髪の姉妹は最後まで気づくことがなかった。二人のやり取りを一部始終聞いていた者がいたことを。
一条家の優秀なメイドは衣装部屋に向かう途中、偶然、接触を拒絶する和佐の叫びを聞いた。
扉の前に控えていたのは野次馬根性からではなく、万が一ご主人様が暴走した際に即座に対処できるようにするためであった。
お嬢様が対話を打ち切りあそばすのを確認すると、廊下の物陰に移動し、ご主人様が現れるのを待った。
会話はせず、気配を殺して彼女の後をつけたが、蹌踉とした足取りを見る限り、わざわざ精神を尖らせる必要もなさそうである。
白髪の主人が自分の部屋にまっすぐに帰還するのを風月は見届けた。
妹の部屋に襲撃しないことに密かに安堵し、盗み聞きのメイドはわずかに開けた扉の隙間から主人の様子をうかがった。
大きな変化が訪れたのは、覗き込んでからわずか二分後のことであった。
見目麗しいご主人様は身につけているものをすべて脱ぎ捨て、ベッドの上でやりきれない想いをほとばしらせていたのであった。
「ふぁん! エミリー! どうして、どうしてぇ! せっかく、勇気を出して触ってあげたといいますのに、それに対して、あんな仕打ちなんてぇ! あぁん! やぁぁんっ!」
あまりの苛烈さに、さすがの風月も面食らわずにはいられなかった。
お嬢様に触れたこと、そのお嬢様に冷ややかにあしらわれたことが何よりも強力な媚薬となり、黎明の心身を蛍光ピンクに染め上げたようである。
風月の呆然自失は時間にしてごくわずかなもので、後に続く感情は、主人の痴態に対する盛大な呆れのみであった。
(まさか、恨み言を述べながら致してしまうとは……)
嘆息しつつ扉を閉めたが、お嬢様のもとに飛びかからないだけでも上々だと風月は思い直すことにした。残りの家事を済ませて再び部屋を訪ねると、白髪の美女はベッドの上で全裸姿で果てていた。切なげな寝息を立てており、風月が美しいかんばせを覗き込むと、これまた切なげな寝顔を浮かべながら新たな涙の筋が浮かんでいる。一糸纏わぬ白磁の肌に薄汗が張りついていたが、張りついていたのは、どうやらそれだけではなさそうである。
「やれやれ、相変わらず駄目なお姉ちゃんですねえ。これで、お嬢様に言えない秘密がまた一つ増えてしまったではないですか」
おどけたように言い放つと、風月はあらかじめ用意していたカメラで、主人の痴態の痕跡を一つ残らずフィルムに焼きつけたのだった。
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