ここから【ライラック色の少女たち1・下】の物語になります。
どうか、よろしくお願いいたします。
四月七日は、鈍色の雲が天を支配する朝から始まった。
この日は夕方から夜中にかけて降雨に見舞われるらしく、晴天の続いた箱谷山の自然は、久々に潤いの時間を迎えることになる。箱谷山は「天を衝く」の形容詞にふさわしい高い山ではなかったが、紅金市の住民にとってなくてはならない存在であった。
歴史は古く、中腹に建てられた聖黎女学園もその連綿の一部を担っているにすぎない。
聖黎女学園に到達するには、ふもとから伸びる道路を通るしかなかった。
その道路を現在、薄ピンク色のアルトラパンが駆け抜けている。運転手である二十歳の美女はクラシカルなメイド服を着用しており、助手席にいる五歳年下の少女に呼びかけていた。
「……それでお嬢様。あの夜、岬様との間に何らかの進展はございましたでしょうか?」
メイドに尋ねられ、助手席におさまっていた少女……一条和佐は美しいかんばせに凄絶な殺意をわだかまらせた。
何かどころではない。屋敷に泊まりに来た編入生のルームメイトによって、自分の身体は陸に打ち上げられたくらげと化すまで、徹底的にもてあそばれたのである。
高等科一年への進学を来週に控えた一条和佐は、極めて美しい容貌をしていた。硬質な灰色の瞳と雪のような白髪は異質であるが、それ以上に色白のかんばせは端麗である。身体つきはしなやかで、形の良い胸は純白のシルクブラウスをつんと押し上げ、ハイウエストのロングスカートで隠された脚は黒タイツに包まれ、ふくらはぎから下の脚線美をさらに際立たせている。
彼女の美しい肢体は、半ば以上は自身の努力によるものだった。最愛の姉に捧げるつもりで各身体的要素を最高のかたちに仕上げてきたのである。その肉体を変態淑女の編入生によって蹂躙されたのだ。許せるはずがない。
和佐の憎悪は、隣に座っていたメイドに対しても向けられた。
「……風月。あなたは最初からこうなるとわかっていて、私を変態娘のもとへ押しやったのではないかしら」
「回答するには目的語が不足しています。私が具体的に何を予期していたと言うのです?」
「とぼけないで! すべてわかっているくせに……」
一方的に決めつけられて、メイド……子夜風月は形の良い眉をひそめた。彼女は優秀なメイドではあるが、全知全能ではない。それゆえ、編入生の少女がお嬢様を止めるために何をしたのかは押しつけた当時は予想できなかったのである。
もっとも、お嬢様の憤慨ぶりを見た今では、何が起きたのかはある程度の目算はつく。この後、シーツを取り換える際にでも、その予想は確信にいたるであろう。
だが自分で仕掛けたこととはいえ、風月は内心驚きを禁じ得なかった。
和佐の憤怒の対象である編入生の少女は後部座席ですやすやと寝息を立てていたが、その天使のような寝顔からは、とても変態淑女の面影はうかがえない。風月は、岬が稀代の変態淑女であることを情報でしか聞いておらず、その才覚を実際に目撃したわけではないのである。
編入生の少女……上野岬は、現在後部座席のシートにもたれかかっており、重圧的な空気とは無縁の様子で静かに寝息を立てていた。朝食の時点で睡魔の女神にまぶたを半分押さえつけられた状態にあったが、車体の揺れを受けてついに限界を迎えてしまったらしい。
上野岬の容姿は、和佐が謗った変態娘の印象を大きく覆す。長い黒髪は二本の三つ編みにして前方に垂らし、顔つきは清楚可憐にして人畜無害。灰色のニットを押し上げる胸のふくらみは和佐には劣るが、健やかな弧を描いており、千鳥格子のショートパンツから伸びた太もも、黒のハイソックスに包まれたふくらはぎも愛らしい弾力を秘めていた。
前情報なしで彼女が変態淑女と見抜くのは難しいだろう。事実、一条和佐も彼女の内外の落差にまんまと騙され、ルームメイトを認めざるを得ない状況まで追い込まれた過去を持つ。
和佐は憎しみしか湧かないだろうが、一条家のメイドは編入生の存在に心から感謝をした。彼女の寝不足は、夜を徹してお嬢様を見守り続けてくれた結果に相違なく、その献身のおかげで一条家のお嬢様はひとまずの破滅を回避することができたのである。
フロントガラスの向こうに横断歩道と信号機が映る。その左右に広がるのが聖黎女学園の寮棟区・学舎区の正門だ。
ピンクのアルトラパンが寮棟区の正門前の石畳に停車すると、メイド服の運転手は後部座席に身を乗り出し、三つ編み少女を揺り起こそうとした。
「岬様、聖黎女学園に到着いたしましたよ。どうか起きてくださいませ」
聖黎女学園は一般的に『黎女』と略されることが多いが、堅苦しい言動のメイドは正式名称で呼ぶことにこだわりがあるようである。
隣で和佐が唾を吐きかねない様子で言い放つ。
「さっさと捨ててしまいなさいよ。そんな女」
むろんお嬢様の暴言を鄭重に無視して、風月は黒髪少女の肩をゆすり続けた。やがて「んっ……」と色っぽい声を立てて少女は身じろぎをし、プルーンの色艶をした瞳を開ける。
和佐はその時にはすでに車から出て正門を突破しており、岬もメイドにうながされてボストンバッグを抱え、よろめくようにしてアルトラパンから飛び降りる。
風月も運転席から離れ、正門に向かおうとした岬を呼び止める。
振り返る彼女にメイドの美女は深々と頭を下げた。
「岬様、昨晩はお疲れ様でございました。そしてご協力、心より感謝を申し上げます」
平時の岬であらば、爽やかな笑顔の一つでも返せただろうが、とにかく今はすべての感情が睡魔よりも後回しな状態であり、半熟の感情で頷くことしかできない。
編入生の少女を見送った風月は守衛に挨拶を交わして車に戻ろうとしたが、そのとき敷地内から慌ただしげに走ってくる少女の姿をとらえた。
駆けつけた少女の表情は驚きにあふれていたが、それ以上に両眼が陽光を受けた水面さながらにきらめいている。
「し、子夜先輩⁉ どうしてここに……いえ、こちらにいらしたのですか?」
動揺のせいか、素の口調が出かかってしまう。それに対して風月は完全な平静さをもって少女に微笑みを返した。
「これは千佳様。このような時間にお会いできるとは奇遇ですね」
「せ、先輩もごきげんうるわしゅう……。あの、先輩がおられるということは、お姉様も?」
ここでいう『お姉様』とは、和佐の実姉である一条黎明のことだ。彼女は在学中に『聖花』の座を賜り、卒業後もファンの数は根強い。ついでに言えば、黎明に仕えている風月も彼女の同期生であり、今もなお『先輩』と呼ばれ続ける理由となっている。
「まことに残念ではございますが……」
黎女OGであるメイドは、聖花ファンの少女に苦笑してみせた。
「あなたのお姉様の寝起きの悪さはご存知でしょう。特別な用事でもない限り、あの方に早起きを期待するのは厳しいかと思われます」
「じゃあ……じゃなくって、それならどうして先輩は朝から聖黎女学園へ……?」
千佳(フルネームは都丸千佳と言う)の問いに、風月は少し意外そうな様子で寮棟区内の景色を見据えた。
「本日はお嬢様とルームメイトの方をお送りするために参上しただけです。お二人がご主人様の屋敷に外泊なさった件はすでに伝わっていると思ったのですが……」
その事実を知らされていなかったのは、千佳の呆然と立ち尽くす様子からでも明らかだ。
目と口をOの字にさせた少女に対し、風月は恐縮げに「ご主人様が目を覚ますかもしれませんので……」と一礼し、アルトラパンへと引き返した。
千佳がようやく立ち直ったのはメイドの乗った車が去ってしばらく経ってからのことだった。
(あの女……変態娘がお姉様の屋敷でお泊りだとおッ⁉)
憧れのお姉様のメイドの前では礼儀正しさを維持していた千佳だが、一人になると早々にそれを放り出した。非言語的な怒号を発し、煉瓦タイルの地面を踏み鳴らす。
それを見ていた守衛の白い視線を受けて少女はそそくさと寮棟区の敷地まで退散したが、その間にも彼女の中では苛立ちがぐらぐらと煮えたぎっている。
(ぐうっ……う、うちだって、お姉様の屋敷にご招待されたことがなかったのに……‼)
もともと千佳は他のファンと同様、性格の悪い和佐には好意を抱いていなかったが、それも編入生が外泊した事実の前では取るに足らないことだった。
赤煉瓦の寮棟を目指す間、知佳の口から不穏な歯ぎしりの音が絶え間なく漏れていた。
「うぎぎ……許さん、絶対に許されないし……ぐぎぎぎぎ」
通りかかった友人がぎょっとした様子で千佳の表情をうかがい、彼女は癇癪交じりに子夜先輩から聞いたことを、大量の尾ひれをくっ付けて打ち明けた。その後出会った顔なじみにも一人残らず、同じことをした。
かくして、上野岬の『朝帰り』の噂は、たちまち寮内に広まったのである。
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