☆注意事項:流血描写
今ごろ食堂では、変態淑女の編入生が白々しい挨拶を済ませ、暖かな夕食にありついていることだろう。もしかしたらルームメイトの不在にすでに気づいていて、寮母に相談を持ち掛けているかもしれないが、今のところ、薄明かりの禁帯出資料室に何者かが訪ねてくる気配は一切なかった。
和佐は書架の壁に追い詰められていた。
今はカッターナイフを突きつけられていないが、その不吉な刃はいまだ後輩の左手に握られている。
今のところ、和佐は円珠の言いなりになるしかなかった。逆上してカッターナイフを振り回され、磨き上げた肢体に傷が入ったらと目も当てられない。最愛の黎明のために最高水準まで仕上げた身体のために、白髪少女は後輩の愛とやらを受け入れるしかなかった。
「ああ……ねえさま、ねえさまっ……」
姉様を前にして、円珠はすでに美酒に酔っているかのような有様だ。
胡桃色の瞳に恍惚と狂気のヴェールをかぶせ、ふらふらと全身を重ねてそのまま口づけを交わす。
「……ふぅ、ン⁉ ん……う!」
和佐は灰色の瞳を見開かせた。
彼女の口腔に、不快な軟体生物めいたものが動き回っている。
円珠が口内で舌をうごめかせたからであるが、変態淑女の編入生ならまだしも、後輩の彼女までがその技量を会得しているとは思いもよらなかった。
唇が離れると、和佐は口を拭うのも忘れて問いかけた。
「え、円珠。あなた、そのような技をどこで……?」
「心配なさらずとも、これがわたしのファーストキスです。前のクラスで平然といちゃつくカップルがいたので、それの見よう見まねに過ぎません」
円珠の表情は、初めてのキスを姉様に捧げられた悦びと、付け焼刃の腕では姉様を十分に満足させられないという歯がゆさとがない交ぜになっていた。
和佐が学校全体の風紀に懸念を抱く暇もなく、後輩から二度目のキスを受けた。
二度目のキスは、一度目よりも長く激しく、舌だけでなく、くぐもった吐息ごと絡みつかせる印象だった。技巧はさすがに変態淑女に及ばないかもしれないが、正直なところ、違いがわからない。
不本意な興奮と、ぞわぞわと背を這う悪寒に、和佐は耐え続けなければならなかった。
円珠が、口の端からよだれの糸を垂らしたまま愉悦の声を放つ。
「はぁ、はぁ……ねえさまのくちびる、とてもやわらかくてあたたかい……。わたし、ずっとねえさまとこうしたかったんです。もっと、もっと、ねえさまのことをあじわいつくしたい……」
ランタンに照らされた円珠の笑顔は狂気に満ちており、曇ったビー玉を通したような光が胡桃色の両眼を飾っている。
円珠が姉様にもたれかかる。互いの胸が密着し、スカートどうしがこすれ合う。カッターナイフが至近距離まで迫り、和佐の神経をさざめかせた。
ふと、編入生の姿を思い起こした。変態だが、それ以上に機転に富む少女であれば、この危地をいかにしてかいくぐってみせるのだろう。最適な人材とは言いがたいが、このタイミングで資料室に現れてくれれば……と、ふと期待してしまう。
「……誰のことを考えていたんです、姉様?」
和佐の心臓が跳ね上がった。円珠は声をいくらか冷静なものに戻し、暗澹たる表情で姉様に鋭い一瞥を向ける。
そしてそのまま、彼女は驚くべき行動に出た。
唐突に突き出された腕を、和佐は回避することができなかった。
和佐の美しいかんばせに円珠は腕を押しつけたのだ。自ら傷つけた、血塗れの右腕を。
「な⁉ ふ、ふざけないでッ……」
さすがに無抵抗とはいかず、執拗にこすりつけてくる後輩の右腕を和佐は強引に払いのけた。
円珠の血はあらかた乾いており、白髪少女の頬はかすれた赤色がわずかに付着した程度にとどまった。
血の右腕を示しながら、後輩は顔に暗い憤怒をたたえた。
「この期に及んで編入生の顔が浮かびますか。わたしの方が姉様にずっと尽くしてきたのに、そのわたしを差し置いて、あの女などと‼」
怒りが暴発し、さらに激しく和佐のかんばせに腕を押しつけようとする。
和佐は抵抗したが、我を忘れた円珠の奮闘は想像以上のものだった。
もつれ合ううちに、二人は床に座り込み、どうにか円珠の動きが落ち着いた時には、和佐のかんばせは全体にすり傷を受けたかのような紅の紗に覆われていた。
「円珠! こんな真似をしてただで済むとでも……」
和佐も怒りが募り、声に噴火寸前の気配をただよわせたが、その声が不意に萎えしぼむ。
この時の円珠の表情をまともに見てしまったからだ。
円珠の反応は異常だった。すでに彼女の態度は異常であるが、その一言で済まないくらいに、彼女は危うげな存在になりつつあろうとしていた。
予感は正しかった。ミディアムボブの少女は嫌に焦点の合った視線で姉様のかんばせを見つめ、そこから狂的な美しさを感じ取っていたのである。
血で汚れつつも気高さが損なわれていない姉様のかんばせ。
屈辱にまみれながらもどうにか理性に踏みとどまろうとするその気丈さ。
もっと見ていたい。絶望にもがき苦しむ姉様を自分のものにしたい。
その欲動に完全に魅入られた瞬間、円珠の理性の糸がプツリと切れた。
開いた唇から健常から程遠い笑い声があふれ出す。
「あは、あはは……」
「え、円珠……?」
和佐が無意識に後ずさろうとし、その指先が壁に当たった瞬間、円珠の高笑いが薄闇の中で炸裂した。
「あはは、あははは、あはははは! いいかおです、じつにいいかおをしてますよ、ねえさま‼」
心臓が凍りついた。
このような後輩の狂笑を、和佐は今まで見たことがない。
胡桃色の瞳は今や完全に光を失い、押し殺し続けた愛憎が奇形な花となって今まさに咲き誇ったのだった。
円珠は手に持っていたカッターナイフを持ち上げた。
切られる! と反射的に身構えた和佐が目撃したのは衝撃的な光景だった。
円珠はそのカッターナイフで自分の右腕をさらに傷つけたのだ。
彼女の奇行はそれで終わりではなかった。新たに噴き上がった血を、円珠は嬉しそうにすすると、それを口に含めたまま、姉様の唇に近づける。
「…………⁉」
顔を背けようとしたが無益だった。悪魔から力を得たとしか思えない勢いで円珠に頭を押さえつけられ、そのまま唇を押し当てられたのである。
生温かい液体が唇に触れ、その一部は唇の間に吸い込まれた。円珠はさらに自分の傷口に吸い付くと、今度は空気を求めて開いた和佐の口内に容赦なく唾液と血液のカクテルを送り込んだ。
「ン⁉ うッ……げほ、かはッ……」
混合液の一部が器官に入り、和佐は盛大に咳き込んだ。弱りきった姉様を眺めながら、円珠がうつろな笑い声を奏でる。
「はぁ、はぁ……わたしのいちぶがねえさまのなかに! ねえさまのからだに、わたしのいちぶがかけめぐっている……! なんてゆめのよう! あぁ……ねえさま、ねえさまねえさまねえさま‼」
この先は、もはや血を呑ませる意図も無関係に舌を交えたキスが続けられた。がむしゃらな接吻だが、和佐の感じやすい部分も着実に突いており、身体が跳ね、スカートに隠れた両脚がきゅっとすぼめられる。
和佐はどうにか突破口を求めようとし、ふと床に転がっていたカッターナイフの存在に気がついた。円珠が二度目の傷を入れた際に、そのまま投げ捨てたらしい。
姉様の灰色の視線を追って、円珠も刃の存在に気づいた。奪わせまいと手を伸ばしたが、その隙こそが狙いだったのである。
決死の力で円珠の身体を払いのけて、白髪少女は立ち上がった。
「にげないで‼︎」
悲鳴を放った円珠が拾い上げたカッターナイフを突き出す。
あくまで姉様への威嚇が目的であって、円珠の中にはそれ以上の他意はなかった。
だが、後輩少女の行動は互いに大きな不幸を招いた。
咄嗟に身体をかばおうと突き出した和佐の指先に、その刃が当たってしまったのである。
「…………‼」
和佐の頭によろめくような衝撃が起きた。
指先に微熱と痛覚が同時に訪れたが、和佐の神経は逆に底冷えするような悪寒を感じていた。
最悪の事態が脳裏をかすめ、恐る恐る右手の人差し指を見る。
その指先は、残酷な現実を彼女に突きつけていた。
色白の指の腹が裂け、鮮やかな血が一筋したたっている。
「あぁ……いや……そんな……そんな!」
和佐のうめきは発狂寸前だった。
ここまで取り乱した姉様の形相も、円珠の狂気同様、滅多に見られるものではなかった。
円珠の害意は一瞬で消散したが、代わりに姉様の恐怖が伝染したかのように顔を青ざめる。
彼女は直感した。姉様の狼狽は、そのまま自らの破滅につながっているのだと。
「いやあぁぁあッ‼ 私の身体が! お姉ちゃんに捧げるためだけに必死に磨き上げた私の大事な大事な肉体を……よくも、よくも‼」
和佐の絶叫は闇を裂き、資料室の壁をも貫くと思われたほどだ。
一瞬で表情を絶望から激しい怒りに変え、傷を入れた少女を睨みつける。
円珠は石になったかのように硬直した。
和佐は床に置かれたランタンを拾い上げ、それを円珠目がけて投げつけた。
直撃は免れたが、代わりにランタンが床に叩きつけられる。
ガラスが砕け、同時に中の電球も割れる。
本格的な闇の中で、円珠の狂ったような泣き声が響いた。
「うわあぁぁあッ‼ ごめんなさい、ごめんなさい! ねえさまあっ‼」
姉様は容赦しなかった。闇の中で円珠の前髪を引っ掴むと、そのまま床に引き倒し、うずくまる彼女をひたすら足蹴にしたのだった。
「許せない……‼ 私の身体を傷つけたお前は……お前だけは、絶対に許さないわ‼」
後輩の肢体を踏みつけながら煮えたぎった声を叩きつける。
円珠はもはや哀願することもできず、嗚咽をこぼしながら姉様の暴虐が収まるのを待つしかなかった。
和佐の怒りは永久に続くと思われたが、その終息は、思いがけないかたちで迎えられることとなった。
「一条さん! こちらにいらっしゃいますか⁉」
切迫した少女の声とともに、部屋全体に照明がつく。
和佐の物騒な闘気は、闇と同時に打ち払われた。
丸まった円珠の背中から足を離したが、その円珠はすすり泣いたまま起きる兆しを見せない。
和佐は大きく呼吸を繰り返し、自らの手で痛めつけた『妹』の惨状を呆然と見下ろした。
駆けつけた足音は一人分だけではなかった。続けて呼びかける声によって、和佐はシスター蒼山と司書も一緒に資料室に現れたことを知った。
最初に二人を発見したのは、一番に声を張り上げた上野岬である。
緊張をはらんだ顔も一瞬、三つ編みの少女は白髪のルームメイトを見ると同時に立ち尽くしてしまう。
床に転がった円珠の存在など、まるで念頭になかった。岬は、表情をこわばらせた白髪のルームメイトをまともに見てしまったのである。後輩の血をいたるところに貼りつけた、美しい少女のかんばせを。
「ひ、ひぃッ……⁉」
音を外したバイオリンのような悲鳴が漏れた。青ざめた顔で一歩退き、ふらつきながら二歩目を踏む。
そして、三歩目の足はついに地に着けることはかなわなかった。
身体の均衡が完全に失われ、そのまま床に崩れ落ちてしまう。
「岬⁉」
「上野さん!」
必死の呼びかけもむなしく、駆けつけた編入生の少女はルームメイトから何一つ事情を聞き出せないまま、意識を失ってしまったのである。
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