八重沢雅樹の朝は早かった

家族が目を覚ます前に目を覚まし、キッチンに用意されたパンをカップスープと一緒にに食してから、家を出る。

通っている高校までの距離が遠いわけではなく、朝練が早い部活に入っているわけでもない。

ただ、雅樹が勝手に早く学校に向かっているだけ。

当初は雅樹に合わせて母も早くに起床し朝食を作っていたが、雅樹は却って気を遣うからと断り、朝食だけ用意してもらい家族が起きる前に家を出るこの流れが構成された。

家を出た雅樹は、規則正しい自分の足音を聞きながら、スマホの画面を操作し歩く。

いつもと同じ朝。

そんな日常は時として予期せぬ形で崩される。

「〇〇小学校は、どこにありますか？」

不意に声をかけられた雅樹は、視線をスマホから声の主に移す。

雅樹に声をかけたのは、六十代ほどの気の良さそうなおじさんだった。

尋ねられた雅樹は、遅刻の恐れもない時間帯なので丁寧に道を教える。

目的地までの行き方が分かったおじさんは、雅樹に頭を下げて教えられた方向に進もうとする。

その後ろ姿に、雅樹は浮かんでいた疑問を素直にぶつけた。

「こんな早くに小学校に行って、何の用があるんですか？」

雅樹に問いかけられると、ゆっくりと振り向き、優しい笑顔を浮かべた。

「そこの生徒を皆殺しにしようと思っているので、待ち伏せをします」

そう言って、安物の包丁を見せる。

「そうですか。お気をつけて」

雅樹が頭を下げると、おじさんも頭を下げて歩を進める。

曲がり角を曲がると、雅樹は頭がおかしいと思われるのではと危惧しながら、先程のやり取りを警察に通報した。

♢

学校に着いた雅樹は、教室に鞄を置くと文芸部の部室に向かった。

読書家の雅樹にとって、文芸部の部室は何よりも安らぎ、至福を満たしてくれる。

文芸部の中でも、作品を書くのを目的にしているタイプと、読むのを目的にしているタイプとパターンは二手に分かれた。

雅樹はその中で後者に属する。

部室に入ると、片側は一面大きな本棚で埋め尽くされ、その中には歴代の部員が書いた小説がぎっしりと並べられたいた。

この、世に出回っていない作品を読むのが雅樹の楽しみになっている。

昨日の続きを読もうと、戻した場所を把握している作品を取る。

朝早くから来て三ヶ月ぐらいが経過しているが、未読の作品はまだ九割ほど残っていそうだ。

タイトル等で選ばず、左上から順に読んでいっているために、様々なジャンルの作品を目にする。

現在読んでいるのは歴史小説。

これまで数多く部室の作品を呼んできたけれど、初めてのジャンルだった。

学校外でも歴史小説を読まない雅樹が悪戦苦闘しながら読み進めていると、部室のドアが勢いよく開く。

「おはよ、八重沢君」

腰まである真っ直ぐな黒髪を、束ねずにそのまま下している女生徒が、笑顔で挨拶する。

「おはよ、神代」

「くるみでいいってば」

笑顔のまま部室に入ってきたくるみは、机を挟んで雅樹の向かいの椅子に腰を下ろす。

「部外者の立ち入りは禁止なんですけど」

「そんな校則とか、部の決まりはないよ」

そう言われると言い返す言葉が浮かばない雅樹は、呼んでいた作品に集中を移す。

雅樹が作品を読み始めると、くるみは黙ってその姿を見つめ、読書の妨害行為になるような行動や言動を見せなかった。

沈黙の中に、ページを捲る音だけが不規則に流れる。

その静寂に耐えられなくなったのは、意外にも雅樹だった。

「何かしたら？　ずっと見ていられたら気まずい」

「何かあった？」

雅樹の言葉に対する返事になっていないが、くるみは確信に満ちた目で雅樹に問う。

「八重沢君、今日何かあったんじゃない？」

「どうして、そう思うの？」

「その反応、図星だね」

「まぁ、変わったことがあって、それが胸に引っかかってはいるから」

「私は八重沢君のストーカーだから、何かあったかぐらいはお見通しだよ。何があったかは分からないけど」

隠しておく必要はないので、雅樹は先程の出来事を簡潔に説明した。

その説明をくるみは真剣に聞き、時折頷きながら受け入れていく。

「本気かどうか分からないけど、通報はしといた」

「ある意味、本気だったんじゃないかな」

「ある意味？」

「私は、おじさんの気持ちが分かる気がする」

「どういうこと？」

「それは内緒」

くるみはベーと舌を出した後に、机に身体を乗り出して『自分で考えなさい』と雅樹の頭を微笑みながらポンポンと軽く叩く。

「いつもニコニコして、幸せそうだな」

頭を叩かれた雅樹が照れ隠しに言うと、くるみは先程まで浮かべていた微笑みを真顔に変えて口を開く。

「幸せだよ、凄く。このまま死んじゃおうと思ってる。明日辺り自殺しようかな」

衝撃的なくるみの発言を聞いた雅樹は、心の中で『またか』とため息を漏らした。

♢

二限目の授業が終わり休み時間が訪れる。

雅樹はスマホを開くと、地図アプリから通知が来ているのに気が付いた。

この地図アプリは自分の住んでいる地区周辺で犯罪行為が起きると防犯情報として通知が来る。

今までも何回か子供が不審な大人に声をかけられたり、女性が男性に猥褻行為をかけられた時に通知が来ていた。

今回の通知はすぐ近くで起きたもので、刃物を持った男性が捕まったというものだった。

おそらく、自分が通報した男性だろう。

何事もなくて安堵すると、そんな雅樹に一人のクラスメイトの男性が声をかける。

「今日も来てるよ」

声をかけた男性、倉本明が教室の外を顎で示す。

そこには、くるみが立っていた。

「羨ましいな、あんな綺麗な彼女」

「彼女じゃなくて、ストーカーだよ」

「そうなの？」

「本人がそう言ってる」

くるみからストーカー発言を聞いたのは、今日が二度目だった。

初めて聞いた時、それは出合いの時。

今日のように部室で作品を読んでいると、突然ドアを開け部室に侵入し、入部希望か問いかけると『八重沢君に会いに来ました』と真っ直ぐに伝え『私は、八重沢君のストーカーです』と宣言したのだった。

「あんな綺麗な人になら、俺もストーカーされたいわ」

「ストーカーな上に、死にたがりだよ」

「時々話すけど、そんな感じはしないけどな」

「神代と話したりするの？」

「おっ、嫉妬か？」

「違うよ」

雅樹は、慌てて否定する。

「八重沢は彼女を死にたがりのストーカーだと、精神がいかれてるように言うけど、普通に他の生徒達とも話してるよ。

まぁ、俺は数回口をきいただけで、話した内容もお前についてだけだけどな」

「なんか、不公平な感じがするな」

「不公平？」

「神代は俺について色々知ってるんだろうけど、俺は神代について何も知らないからな」

雅樹が本音を漏らすと、明は可笑しそうに笑った。

「なんだよ、やっぱりお前だって彼女に気があるんじゃないか」

「そんなんじゃないよ。不公平さを感じただけ」

そう言って、雅樹は立ち上がる。

「どうした？　彼女に会いに行くのか？」

「ただのトイレ」

この話題を強制的に終わらせるように、雅樹はトイレに逃げる。

その際、二つある出入り口の中で、雅樹は敢えてくるみが立っている方の出入り口に向かった。

近付いてくる雅樹に驚きながらも、ニコニコしながら雅樹を見つめた。

「どうしたの？」

「ちょっと、トイレ」

「着いていく」

「やめろ。変態か」

雅樹は苦笑いを浮かべながら突っ込む。

「分かった、想像しながら待ってる。大？　小？」

「余計に恥ずかしいよ」

雅樹の中でくるみの印象が死にたがりの変態ストーカーに格上げされた。

便意を催していなかったが、逃避の為にトイレに移動した雅樹は、本当に想像されているのではと恥ずかしくなり、短い時間で教室に戻る。

戻ってきた雅樹に『小だったんだね』とくるみが声をかけ、雅樹は軽く『まぁね』と返事をして教室に戻った。

♢

放課後、雅樹はいつもよりかなり早くに部活を切り上げて、教室に足を進める。

部室を早々に後にしたのには、理由があった。

くるみは、いつから自分を待っているのだろうか？

くるみにも配慮があるようで、部活中の部室までは押しかけてこない。

ただ、部活を終えて教室に戻ると、いつも雅樹の席にくるみは当然のように座っていた。

まるで、自分の席のように。

戻るとくるみが自分の席にいる。

それがいつもの流れになっているが、いつもくるみはどれぐらいの時間に来て、席についているのか。

それが気になった雅樹は、教室でくるみを待っていようと部活を早めに切り上げた。

何も考えずに教室のドアを開けると、そこには意外な光景が広がっていた。

雅樹の席に座り、雅樹のクラスの女子と楽しそうに話しているくるみの姿。

今まで、くるみが誰かに対している姿を見たことがなかった。

いつも、くるみの視線は雅樹に向いていた。

自分以外の人と接するくるみの姿に違和感と虚無感を覚えていると、ドアを開け立ち尽くしている雅樹にくるみが気が付く。

「あっ、八重沢君！　今日は早いね」

くるみは立ち上がり、話していた女生徒達に手を振り雅樹のもとに駆け寄る。

「いつも、こんなに早く来てるの？」

「そうだよ。今日みたいに早く教室に帰ってくる時があるかもって期待して、いつも待ってる」

「うちのクラスの奴らと、仲が良いの？」

「普通だよ」

それ以上は追及せずに、視線を教室内に移す。

教室内では、先程までくるみと話していた女子達が違う話題で盛り上がっているらしく、特に雅樹たちの事を話題にしている雰囲気はなかった。

まだ早い時間だが、部室に戻る気はない雅樹は帰り支度を済ませ、既に帰り支度を済ましているくるみと下校する。

くるみがどこに住んでいるか把握していないが、帰り道の途中に雅樹の家があるからと、下校時は家まで一緒に帰るのが日課になっていた。

下校する二人の姿は、周りから見てもとても付き合っている二人には見えないものだった。

雅樹の斜め後ろを少し離れて歩く距離間。

くるみが距離を詰めようとすると雅樹が形状記憶されたようにこの距離を保とうとするので、この距離を保つのにお互いが慣れ自然になっている。

「今日はなんだか、特別な日だね」

くるみが、明るい声でしみじみと言う。

「八重沢君が朝から変わったおじさんに会ったり、休み時間に話しかけてくれたり、こうして早めに一緒に帰れたり」

「そうだな」

「幸せすぎて、明日辺り自殺しちゃおうかな」

くるみの死にたがり発言を聞き、雅樹は心の中でため息を吐く。

いつもはそこまでだった。

だが、くるみの言うように今日はなんだか特別な日に思えた雅樹は、一歩踏み出す。

「うちのクラスの女子にも、そんなことを言ってるの？」

「そんなことって、死にたいとか？」

「そう」

「そんなの言わないよ。八重沢君にしか言った事がない。たぶん、みんなは私のことを無個性な人としか見てないんじゃないかな」

「自分のクラスでも、そんな感じ？」

「同じ感じ。当たり障りなくやってる」

「俺にしか、言わないのか」

「八重沢君にだけだよ」

それ以降、会話が続かなかった。

会話が続かなくても、距離が縮まったように思えた二人は、敢えて無理に話題を提供せずに、そのまま雅樹の家まで到達する。

「今日も、着いちゃったね。また、明日ね」

残念そうにくるみが言う。

「早いし、今日は俺が神代に家まで送ろうか？」

思いがけない雅樹の提案に驚いたくるみは、一瞬言葉を失ったが、静かに首を振って答える。

「嬉しいけど、遠慮しとく」

「そっか、じゃあ、また今度」

先程一歩踏み出した雅樹は、もう一歩踏み込んで関係を進展させようとしたが、焦りは禁物だと諦める。

くるみは、嬉しそうでもあり悲しそうな笑みを浮かべ、自分の家に向けて歩を進めた。

そのどちらともいえる笑みを見て、雅樹はいつものくるみの微笑みが、生きるために身に着けた癖のようなものに覚えてならなかった。

♢

翌日、雅樹はいつものルーティンをこなすように時を過ごし、部室に移動した。

いつもと違う点は、雅樹の鼓動の高鳴りぐらいだろう。

毎日、早朝に部室で作品を読むのが幸せだった。

作品を読むだけで幸せだった時間に、イレギュラーのように現れた、安らぎを与えてくれる存在。

その存在が、今日も微笑みドアを開ける。

「おはよう、八重沢君」

明るい声で挨拶をし、くるみは机を挟んで向かいの席に座る。

くるみが座ると、雅樹は作品を机に置きくるみを見つめる。

「どうしたの？」

「真剣な話があるんだ」

決心した雅樹の言葉の後、部室はしんと静まり返る。

くるみに聞こえてしまうのではないかと思うほど高鳴る鼓動に驚きつつ、くるみも同じように鼓動が高鳴っているのだろうかと不安にもなってくる。

「単刀直入に言うよ」

照れ臭さから視線を逸らしそうになるが、しっかりとくるみの瞳を見つめながら続ける。

「俺と付き合ってほしい」

捻りのないストレートな告白を聞いたくるみは、意外にも笑みを浮かべず問い返す。

「それは、普通の恋人同士として？」

告白をした後に問われるとは想定していなかった雅樹は、先程の男らしく告白した姿は形を潜め『そうだけど』と困惑する。

「死にたがりの、問題児の私相手でも、普通の恋人として？」

「当然だろ」

「そっか、ありがとう」

くるみは微笑み、涙を流す。

その微笑は、昨日の別れ際に見せた、嬉しそうでもあり悲しそうな笑みに見えた。

♢

告白した初日ということもあり、この日も雅樹は早くに部活を抜けくるみと共に下校する。

「付き合い始めたんだし、今日は家まで送ってくよ」

送っていいか聞くのではなく、送って行くと断言する。

「ごめん、無理なんだ」

「どうして？」

「私の家、あっちだから」

くるみが雅樹の家の方角とは正反対の方を指差した。

「一緒に帰りたくて、嘘をついてた」

「そうなのか。だから、昨日断られたのか」

「ごめんね」

「いや、安心したよ。昨日断られて避けられたのかって心配になったけど、理由が分かってよかった」

雅樹はくるみの手を握る。

「今日は、俺が送るから」

くるみの家の場所を知らない雅樹は、くるみと手を繋ぎ案内されるようにくるみを家まで送り届ける。

その道中に、付き合い始めて一日目の初々しい恋人同士の会話はなく、告白が切っ掛けで却って距離を作ってしまったような理不尽さを感じられた。

「送ってくれてありがとう。ここだから」

家に着くと、くるみは簡潔に礼を述べた。

家まで送ったら喜んでもらえると思っていた雅樹は、落胆の表情を隠すように努めながら『また明日』と告げ、離れようとする。

「八重沢君」

「どうした？」

「雨が降りそうだから、傘を持っていく？」

仄かに明るいけれど曇っていて、時折冷たい風が吹く。

まるで、今の自分の心情のようだなと雅樹は思った。

「確かに天気が悪くなりそうだけど、まぁ、大丈夫だろ」

「天気は悪くないよ」

そう言った後、久し振りにくるみが微笑む。

「今日の夕方なんか、自殺日和になりそうじゃない」

「またそういうことを言う」

「私は、そういう子だから」

ネガティブな発言を微笑みながら言う姿に、少し安心しつつも不安を覚え、今日の所は別れ、学校からよりも離れてしまった帰り道を歩く。

くるみの家から雅樹の家までは、歩きだとかなりの距離がある。

その道則をくるみはいつも歩いていたんだなと考えると、頭が下がる思いだった。

長い帰り道を、落ち込みイラつきながら歩く。

女性と付き合ったことのない経験の浅さからガッカリさせてしまったのか、告白後の展開は期待を大きく裏切るものだった。

何がいけなかったのだろう？

何度もそう問いかけては、答えが見つからずに苛立ってしまう。

自宅に着いた雅樹は、リビングのテーブルに限定物のキーホルダーが適当に置かれているのに気が付いた。

これは妹の朝霞がとても大切にしていたもので、大好きな漫画の限定物と言っていたのを覚えている。

「朝霞！　いるのか！」

リビングで朝霞の名を叫ぶと、すぐに朝霞は二階から下りてくる。

「どうしたの？　大声出して」

「大切にしてるキーホルダー、出しっぱなしだぞ」

「あぁ、それは大丈夫」

「大丈夫って、いらなくなったのか？」

「いらなくはなってないけど、それ、再版されちゃったんだよ。シリアルとかが入ってて世界で一つの私だけの物なら大切にするけど、なくしてもいつでも買えるから」

と言いつつも、大切なものには変わりないので、朝霞はキーホルダーをポケットにしまって自室に戻っていった。

疲れた雅樹も自室に戻り、ベッドに寝転がり目を閉じる。

すると、昨日からのことが頭の中で組み立てられていくように、思考が纏まっていく。

三十分ほど思考を巡らせた雅樹は、当たっていてほしくない考えが思い浮かび、飛び跳ねるように立ち上がる。

その勢いのまま、雅樹は学校に向かい走った。

早朝に小学校の場所を訪ね、殺害を宣言したおじさん。

彼には小学校を襲う何らかの理由があったのだろう。

だが、彼の中にある理性がそれを制御した結果、あんな意味の分からない行動を縋るような気持ちで取ったのだろう。

誰か、私を止めてくれと。

殺害を起こすより、未遂に終わり警察に捕まりたいと。

それと似たＳＯＳをくるみも出していたじゃないか。

似ているけれどまったく真逆のＳＯＳを。

全速力のまま校舎に入った雅樹は、一度足を止めて、くるみが自殺を図りそうな場所を考えた。

定番は屋上なのだろうけれど、それは物語の中での話で現実的ではない

現実では屋上は解放されていないことも多く、この学校も同様だった。

放課後に部室に来ることもないので、それも除外だ。

この時間にくるみがいて一番自然な場所。それは、雅樹のクラスの教室だろう。

そう結論付けた雅樹は、体力の限界が近付いているが、もう一度走り始める。

放課後の教室は静かだが無人ではなく、僅かな生徒が残っていた。

室内を見回すがくるみの姿は見えない。

それでも諦めきれずに辺りを確認すると、自分の机に書き置きが残されているのに気が付いた。

もしも私を想ってきてくれたのなら、旧手芸部の部室で待っています。

そう書かれ部室の場所が記されている。

旧手芸部と書かれているということは、現在は空きの状態になっているのだろうと予測を付けた雅樹は、指示通りに手芸部に向かった。

記された場所には何も表示がされていない部室がある。

教室で辺りを見回していた時間が休憩時間の役割を果たし、足は疲労しているが息は整うようになっていた。

ここが手芸部の部室だったのだろうと扉を開けると、中には生きているくるみの姿があった。

「間に合って良かった」

「遅いよ。そろそろ死のうかと思った」

くるみは明るく笑って続ける。

「八重沢君を想いながら、スパッと死のうと思った」

「そっか。間に合って良かった」

明るく猟奇的なことを言うくるみに近付きながら、安堵の息を漏らす。

「私を止めに来てくれたの？」

「近いけど、違うかな」

雅樹の手は、振るえていた。

これから自分が取る行動に対してのプレッシャーと恐怖から。

くるみのすぐ傍まで近付いた雅樹は、徐にくるみの首を両手で締め上げた。

細いくるみの首を、力一杯締め上げる。

「自殺は止めに来た。

俺が、神代を殺すために」

首を締めあげられたくるみは、それを受け入れるように抵抗をしなかった。

「ありが…と…う」

首を絞められながらも微笑み、苦しそうに感謝の言葉を述べる。

その笑顔は幸福感で溢れていた。

その言葉を聞き、スッと、雅樹の力が抜ける。

くるみは酸素を求めるように咳ばらいをし、そんなくるみに雅樹は悔しそうに声をかけた。

「ごめん、やっぱり好きな人を殺すなんてできないよ。でも、神代が俺以外の人を好きになったら殺すし。俺が神代以外の人に目移りしても殺していい」

悔しそうな雅樹を慰めるように、くるみも自分の心情を語り始める。

「告白されて、なんだか嬉しかったんだけど怖くなっちゃったんだ。

私はね、なんでもいいから八重沢君にとって特別な存在になりたかった。

良い印象は残らないかもしれないけど、学生時代に死にたがりのストーカー女がいたなって、一生覚えていて欲しかった。

それが彼氏彼女になったら、私達が別れてその後に新たに恋をして、また別れてを繰り返したら、その他大勢の一人になってしまいそうで怖かったんだ。

それなら、一生心に残る異常者になりたかった」

「それか、俺に殺されたかった」

「気が付いてたんだね」

「家に帰って、神代が俺にとって世界で一つの存在になりたいんじゃないかって気が付いた時、分かったんだ。

初めは、俺に自殺を止めてほしくて死にたがり発言をしていたんじゃないかと思ったけど、その一歩先を行っていたんじゃないって」

雅樹の推測を聞いたくるみは『正解だよ』といい、言葉を続ける。

「八重沢君はまともな人だから、人殺しなんかしないと思う。そんな八重沢君に殺されたら、八重沢君は一生私を忘れられなくなるって思ってね」

死にたがり発言は自殺の宣言でも、自殺を止めてほしいからでもなく、いつでも殺していいよというアピールだったのでは。

そう気が付いた雅樹は途中までくるみを殺す演技をした。

まともな人間の雅樹には、そうアピールされたからと言って殺害するという選択肢は最初からなかった。

「大丈夫。俺はずっと神代だけのものだから」

「さっきの言葉、私みたいな異常者は鵜呑みにして、そのまま行動に移すよ」

「あぁ、俺だって神代が浮気をしたら、相手ではなくて神代を殺す」

残虐な発言を聞いたくるみは、今までに見せたことのない弾ける笑顔を浮かべ宣言する。

「分かった、私も八重沢君がちょっとでも私以外に気が向いたら、すぐに殺すね！」

雅樹が了承の返事をしようとするが、返事をする間もなく雅樹の口はくるみからの熱い口づけによって塞がれる。

リミッターが外れたくるみは、感じている喜びと幸せを全て注ぎ込むように、雅樹に長い長い口づけを交わした。

了

唯一無二でないと殺すから【短編】