「あっ、そういえば稲葉さん」
「ん? 稲葉さんって、どっち?」
「私でしょうか、るねちゃんでしょうか?」
「あ、すいません厚志さんです」
ある昼下がりのこと……。
名古屋の鹿野山邸では、小さな混乱が起きていた。
賢也から稲葉夫妻に声をかける際に、どちらへ声をかけたのか少し分かりづらくなっていたのだ。
会社では苗字被りが基本無いためつい苗字呼びをする癖のある賢也は、頬を掻いて恥ずかしそうにする。
そんな姿を見ながら厚志は顎をさすった。
「そうだ、なんならるねちゃんのようにあだ名呼びで呼び合いますか?」
「ああ、それも良いわねあっくん」
「え……あだ名呼び、ですか?」
あだ名呼び、そう言われて賢也は面食らう……。
距離を一気に詰めるなあ、と内心思ったのだ。
だが稲葉夫妻としてはそこまでおかしな事でもないらしい。
確かに、厚志は基本春音をるねちゃんと呼ぶし、春音も気分次第であなたと呼ぶ日も有るが基本はあっくんと呼んでいるのだ。
「あなた、もしくはあっくんか……なんというか、呼び名一つ変えるだけで一気に距離が縮まる感じがしますね」
「でしょう? 学生時代から、まずはこうやってあだ名から入るようにしてるんですよ」
学生時代……実を言うと、厚志も真白と同じく、家柄が家柄だからと距離を置かれがちだった。
そんな中、めげずに諦めずに周囲と関係を持っていき、時にあだ名で呼び合うことで仲を深めていったのだ。
それ故、厚志は周りと打ち解けるということに余念が無い。
スナイパーという役職が周囲と連携せねば無力な仕事であることも、成人してからも彼の社交性を高めてきた要因なのだろう。
「今も組員をあだ名で呼ぶことは多いんですよ、ああでも……真理子さんは学生時代からあだ名が嫌いだったな」
「ははは、真理子らしいですね、私と真理子は幼馴染みなんですけど……子供の頃からそんな感じでしたよ」
文武両道、容姿端麗、高校では周囲の女子から完璧王子などと呼ばれてきた真理子。
だが本人はその呼び名をいつも嫌っていた。
完璧などこの世にはない、分不相応な呼び方だと……。
だが、今思えばそれは単純にあだ名自体が嫌いというのも有ったのかもしれない。
今は年を経て社交性も身についたが、昔はいつだって気難しい、そんな女だったよなあ……と過去を少し振り返ってしまう。
ただそれでも、堂々とした態度は常に崩さずいた……誇り有る気難しさだった、そう言える。
「賢也、少しいいか?」
「あ、真理子」
「ん……? なんだその顔は、私の話でもしていたのか?」
「お、ご名答、主将はあだ名とか嫌いだったな-、って話をしてたんですよ」
主将、そう言われて真理子は少し面倒そうな顔をする。
実のところ、真理子と春音は今回の件が初対面ではない。
両家合同で車を回していたあの日はまだ忘れていて、春音もよそ行きの己を取り繕いながら振る舞っていたが……実のところ、二人もまた学生時代に知り合っていたのだ。
それも同じ部活の主将と副主将である。
「まったく……剣道部はおろか大学を学生結婚でやめた女が、まさか稲葉の妻だったとはな」
「私も、夫のビジネスパートナーが主将だったなんて思いませんでしたよ」
稲葉組が表社会で行っているシノギ、稲葉建設。
その上得意である鹿野山グループが、よもや学生時代世話になった主将の家とは本当に予想していなかった。
せいぜい苗字が同じだけの関係ない人間だと思っていたのだ。
これもまた、数奇な運命という奴なのだろうか?
いずれにせよ……真理子は呆れ気味にもう一度息を吐く。
「主将はやめろ、もう学生ではないのだから……真理子で良い」
「そう? じゃあ真理子」
「一気に砕けた……」
とんでもない落差を発揮する春音に唖然とする賢也。
ことオンオフの切り替えというものにおいて、彼女の右に出る者はそうそういないのかもしれない。
少し見習うべきなのだろうか、賢也はそう考えながら顎をさする。
「あ、そういえば真理子は何の話があったんだい?」
「ああ……おい星蘭、入ってこい」
「うん、わかった」
真理子に促されて部屋に入ってくる星蘭。
その姿は以前のぼろい服から一転、真理子のお下がりと思しきスーツ姿になっている。
ただ、162センチの星蘭と172センチの真理子では10センチ差が有るため捲っても大分袖やら裾やらが余ってしまっているが……。
これでは、きっちりした雰囲気よりも先に子供っぽい印象が出てしまうだろう。
「見窄らしい格好では見るに堪えんからな、とりあえず私のお下がりを着せたのだが」
「似合ってない、子供が背伸びして親の背広を着たみたいよ」
「……ストレートに言うな」
一応、なんだかんだ星蘭も162センチはあるので新成人くらいの見た目をしており、平均身長よりも高いのだが。
しかし、自分より大柄な者達に囲まれている状態でサイズの合わない服を着ていればこんな印象にもなるようだ。
因みに子供みたいな見た目だと評した春音は157センチ。
愛娘から今まさに身長を抜かれようとしていて、星蘭より頭一つほど小さいためよっぽど子供のような背丈をしているのだが。
そこは棚に上げている……というよりは、お構いなしらしい。
身長が小さいのは自分でも理解しているため、娘に言われない限りそこまで気にならないのだ。
……娘から背丈もそう変わらないくせに、成長期を逃したおばさんがと言われた際には、般若が如き表情となって恐れ知らずの娘を本気で震え上がらせてしまったが。
まあ、そんな話はさておいて問題は星蘭の服装だろう。
「よし……こうなったら、もう少し可愛い系でまとめましょ!」
「可愛い系、かあ……良いかもしれないね」
春音の提案を、賢也は静かに肯定する。
昔の星蘭は筒本の望むまま化粧っ気の強いメイクなどをして香水も強めに付けていた。
そこから離れれば離れるほど過去を思い出さずに済むのだから、それに越したことはないだろう。
真理子も賢也のそういった心中を察しているのか、少しムッとはしたものの口に出しはしなかった。
何はともあれ……可愛い系コーデをすると決めたなら、ここからは実行のターンだ。
春音はそう考え、星蘭にカバンから取り出した髪飾りを渡す。
蘭の花を模した髪飾りだ、白い蘭を模した色合いは可憐でありながらも花言葉通りの優雅さで、星蘭の銀髪にもよく合うだろう。
可愛さと美しさを兼ね揃えた一品、と言えるかもしれない。
「それ、自分で似合うと思うつけ方で身に纏ってみなさい」
「……似合う? よく分からない、自己の外見をどう評価するか、全く」
「じゃあ……宿題、期限はなくていいから……自分でよく考えて、思いついたら自分の意思で身に付けてみて」
「……分かった、それを望むなら」
春音の言葉に、厚志は内心で「なるほど」と得心がいったように呟く。
真理子は言っていたのだ、人の望みに従うだけなどおかしい、己の意志を持つべきだ、その為に自分で考えさせたいと。
恐らくは真理子のコーディネートをゴミ扱いするかの如くボロクソにこき下ろしたのも、この髪飾りを渡すための前準備だったのだろう。
……その為にこき下ろされた真理子はご愁傷さまとしか言いようがないが。
さて、そんな少しほのぼのとしたやり取りをする星蘭と春音だが……そこに賢也が挙手をする。
「……そうだ、呼び方をセラさんから星蘭さんに変えたいんだけど、それも良いかな?」
「分かった、そう望むならそうして良い」
呼び名を変える、その理由は簡単だ。
過去を思わせる呼び名を捨てることでもう一歩、新たな関係へ踏み出していく。
そうすることでようやく、軋轢も悲しみも忘れ去っていくことが出来るかもしれない。
呼び名を変えることに、そんな希望を込めているのだ。
厚志はそんな想いも察し、あだ名を呼ばないことで関係を進める……そんな手段も存在するのかと感心する。
そして、静かに目を細めながらスナイパー特有の目でじっと星蘭を見つめた。
二人の願いが叶うかどうかは、この人外次第だ。
厚志は正直、彼女を少し警戒している面が有る。
神秘というものにより近付くため利用してこそいるが、本当に信用しきって良いのか分からないのだ。
実際に出会ってみて、そういう気持ちが高まってきた気がする。
……だがしかし、だからこそだ。
だからこそ期待をしよう、自分の予想を覆して彼女が彼らの願いを叶えてくれると。
この鋭い目を、狙撃のために使わずとも良いことを……。
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