稲葉真白は生まれてこの方自慰行為をしたことがない女だ。
理由は簡単、真白には自分だけが気持ちよくなろうという意思が存在しないから、なので自分だけが気持ちよくなる意味が理解できない。
真白にとって愛は望むものではなく捧げるものだ。
愛する人へ、自分がただ一つあげることの出来る大事な捧げもの。
それが愛……だから、自分の幸せや快感なんてどうでも良い。
いや……むしろ、相手の幸福こそが真白にとっての幸福なのだ。
だから望まず与える、相手を幸せにすることこそ全てになる。
そのためなら己の何が犠牲になろうと構うまい。
命に替えても、心に替えても、名誉に替えても、為すべきを為すのみだ。
……真白のそんな精神性はどうして生まれたのだろうか?
確かに生まれ育った環境でも人の性格は決まるが……遺伝、というものも無くはない。
これは、そんな真白の遺伝元に関するお話である。
かつて、18歳の頃……。
稲葉春音になる前の春音……。
田村春音は高校を卒業し、晴れて県内一の名門である名古屋大学に在学していた。
学部は経済学部、成績は可もなく不可もなく、優等生というほどでもないし劣等生というわけでもない普通ライン。
……正直言うと、経済学部には進みたくて進んだわけではないのだ。
家柄にばかりこだわる両親に強要され……しぶしぶここまでやってきた。
とはいえ、学生生活自体は充実している。
その理由は……。
「ふー、第3体育館の掃除はこれで終わり……っと」
「よし、では今日の部活動はこれで終わりだ!」
顧問の号令に、みな一礼する。
そして……周りの生徒達が次から次へと第3体育館……剣道場を後にし始めた。
そう、春音は大学において剣道部に所属している……というより、剣道部のついでに大学に通っている、が正しいと言っても良い。
剣道は楽しいし、友人は気が良いし……そんなことを考えていると、肩が後ろから叩かれた。
叩いたのは……剣道部の先輩である白鳩だ、その隣には主将の鹿野山もいる。
「よっ田村、一緒に帰ろう」
「ええ、喜んで!」
「今日はどうする……着替えたら直接帰るか?」
話し合いながら、三人は更衣室へ向かい服を着替える。
そして外へ出て運動施設棟から全学教育棟の方へ向かうと……同じく部活帰りなのか、談笑して歩く三人組の男子が目に入った。
手には皆、雑誌と思われる本を持っている。
「あ……オカルト研究会の連中だ、アイツら顔は良いのにいつも変なことしてるよね」
「まあな、だが……あの中の一人と友人だが、気が良い奴だぞ」
「へえっ、主将って顔が広いんですね!」
鹿野山の意外な人脈に盛り上がる三人……。
そんな中、男子の一人が「あっ」と声を上げた。
そして鞄の中を見つめ……汗を垂らす。
「あっ、忘れ物……! 少し取りに行ってきます!」
「あっ……!」
「あっ!」
急ぎ足で振り返った男子が春音に衝突する。
身長差によりバランスを崩してしまう春音……その体を男子は咄嗟に抱き留めた。
二人はしばし……じっと見つめ合う。
「こら男子! 田村はちっこいんだから気を付けてよね!」
「誰がチビですか! ふーんだ、いつか主将よりもデカくなりますもんねーだ!」
「ふ……そうやって拗ねられるなら平気だな、それより稲葉、不注意だぞ」
「すいませんでした、つい焦ってしまったようです! このお詫びはまた後日、互いに用事のない日にでも」
頭を下げ、稲葉と呼ばれた男子が走って行く。
その背中を春音はじっと見つめていた。
心なしかドキドキしているような気がする。
「うわあ、イケメンとあんなに顔近くなったの初めて、お詫びだって……何してくれるんだろう」
「でも……稲葉って噂のヤクザの子でしょ、法学部の、あんま近寄らない方が良いんじゃない?」
「稲葉は気の良い奴だぞ、将来は良きビジネスパートナーになるだろうな」
「そうだよ、あっくんを家柄だけでとやかく言うなって!」
「凄く良い奴なんだからな!」
「あらやだ、針のむしろじゃないの」
やいのやいのと騒ぐ他の学生達。
その声を聞きながら、春音はじっと稲葉の後ろ姿を見つめていた。
家柄に苦しめられて育った者……自分と同じではない、しかし似ている者。
そんな相手への親近感を抱いていたのだ。
……これが厚志と春音の出会いの記憶。
この時はまだ互いに、多少の親近感以外はイケメンだな、可愛いなと……その程度の印象だった。
だが、二人が抱く印象は段々と変わっていくことになる。
そのきっかけは、ある日剣道部三人とオカルト研究会三人で遊びに行った事だった。
「見て、剣道部の子達……オカルト研究会の連中と歩いてる」
「あの真ん中の、ヤクザの息子なんでしょ? やだやだ……何かヤバイ物でも貰ってるんじゃない?」
「あいつら……」
出会いから数か月、厚志がしてくれたお詫びはシンプルなプレゼント数回だった。
とはいえ、そのプレゼント内容は真理子伝いにしっかりと春音の趣味をリサーチしてのもの。
その全てが外しておらず真理子はすっかり厚志をいい人だと信頼し、警戒していた白鳩も厚志に感心していた。
だが……それを期にみんなで遊びに行った際、遠くから陰口を叩く女子がいたのだ。
ヤクザの息子というだけで陰口を叩く姿は、警戒していた頃の自分と重なる面もあるのだろう、白鳩はすっかり苛立って注意しに行こうとする。
だが……厚志はその肩を掴むと首を左右に振って気にしていないと笑った。
「慣れていますから大丈夫ですよ、それより剣道家の卵が喧嘩をする方がいけませんから」
「アンタやっぱ良い奴ね……でも、慣れてるって気にならないとはまた別なんでしょ?」
「まあ……それはそうですが、結局の所陰口を叩いてくる人なんてその時限りの付き合いじゃないですか、そんな人に悪口を言われるより、皆に迷惑がかかる方が嫌なんですよ」
困ったように笑い、厚志は首を左右へ振る。
やはりこの男は良い奴だ、自分の個人的怒りといった一時の欲求よりも皆の幸福を何より願う。
その為なら、自分が傷つけられることも構わないのだろう……そういう人間を、世間では善人というのだ。
「ふ……そんな様子で将来極道としてやっていけるのか?」
「そこはまあ……折り合いを付けるしか無いんでしょうね、本当は嫌ですが、こんな生まれですから……非情な自分にもなってみせますよ、悪魔と呼ばれたって」
「悪魔になってでも、かあ……あっくんは凄いなあ」
正直、折り合いの悪い家族相手にそこまでするなんて自分は出来ない。
だが厚志は、このような善性の持ち主であれば当然家族へと含むところもあるだろうに……それでも自分を必要とするならば受け入れるのだ。
勿論そこには「育てた恩を忘れたか」と報復されることを避けるため、という面も有るのだろう。
それでも、生半な覚悟を以てできる選択ではない。
法学部に入ったのも、本当は極道稼業に役立てるためではなく法関係の職業につきたかったのではないか?
しかし、そんな夢も犠牲にすることを受け入れているのだ、厚志は。
(凄いしいい人だし……でも。少し危うくもあるかも)
善性の持ち主で、誰かのために自分を自分の夢を諦められる、そんな人。
しかし……だからこそ放っておけば酷い無茶をしかねない。
たとえば、目の前で困っている相手のために自分の命を投げ出すとか……。
春音は正直、自分で言うのも何だが面倒見の良い方だ。
だからどうも、誰かに対して放っておけないな……と感じてしまうと世話を焼いてしまう。
全くもって……互いに損な性質を持って生まれたものだ。
きっと自分達のような人間が将来結婚したら、産まれてくる子供はどちらの家もこの損な性質を引き継ぐのだろうな。
春音は自分達がいずれ夫婦になるとも知らず……そんなことを考えて笑うのだった。
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