幸せは唐突に奪われる、彼女はそれを若くして知っていた。
果たして、知ったのはもう何年前だったか……。
家を焼かれ、一人になり……職もないままさまよう毎日。
そんな中、女……オノス・トレンマは空を見上げていた。
「……腹が減ったな……」
被差別民族ゆえ職を探すことも誰かの保護下に入ることもできない彼女は、ただ静かに朽ちていくだけの日々を送っている。
朽ちると言っても今日明日ではない。
しかし、野草と虫、ネズミや野犬……そんなもので過ごす不健康な日々を続けていけばいずれ朽ち果てるだろう。
そんな彼女に親切心を向ける人間はいた。
いたが、それもペクス人と知るまでの話。
彼女の人種を知れば皆離れていく。
所詮彼らの親切心は下に見ている存在への哀れみでしかなくて、だからこそペクス人と知るなり関われば自分もトレンマ家のように焼かれるのではないかと思い、逃げていくのだ。
オノスがそのトレンマ家の娘であり、腹の底に憎悪をため込んでいるとも知らずに。
「……いっそ、どいつもこいつも焼いたらどうなるかな……同じ気持ちを与えてやりてえや……急に家が焼けて、誰も助けてくれなくて……ただ死んでいく……そんな気持ちを」
呟き、オノスはゆっくり立ち上がる。
燻ってもいられない、水路を出たら川で水浴びをして、今日も仕事探しだ。
……そうだ、仕事を探す、そして拒絶され、またネズミを食べる。
そんな変わらない毎日を過ごしていく。
自分は何のために生きているのかすら分からない、何故生きるのかすら見いだせない。
そんな人生の価値とはいったいなんなのだろうか?
目的意識こそが生だとするのであれば、何のためにオノスは生きる?
それを見出せないまま、オノスは今日も差別を受けるのだ。
(……ダメだ、生きないと……生きないといけない、父や母の分も……)
辛うじて唯一生きていたものの、全身火傷で動くことすらできない父……。
そんな彼の死を看取った日、そして父に促されたとおりその血肉を喰らった日を思い出す。
ペクス人を差別する連中と同じ事などしたくはなかったが、しかし父の死を無駄にすることはできない。
だから食べるしかなかった……吐きそうになりながらも、必死で……。
こうして最後に残った家族を喪い、あれからずっと一人きりだ。
……人は孤独に耐えられるほど強い生き物じゃない、人は一人では生きられない。
いっそ殺してくれ、そんな言葉すら浮かぶ。
だが家族の分生きるため、死ぬわけには行かない。
しかし生きてどうする、生きて何になる?
天にいる家族に何を見せ、何を誇るというのか。
何一つ見いだせないままオノスは石を手に取り、水路の水へと叩きつけた。
「誰かこの生活から救い出してくれねえかな……そんな奴、いるわけもないか……」
自分の甘い考えを笑い、オノスは息を吐く。
そしてフラフラと歩き出した。
淡い希望を捨てきれないまま、しかしそんな自分を嘲笑するリアリズムも同居した不思議な心地で……。
「どうか仕事を下さい、どうかお願いします!」
「またアンタか……悪いけど、アンタと関わるつもりはないよ」
「……はい……」
職業斡旋所に拒否を喰らった時、最初は泣いていた。
しかしそんな日々も繰り返せば涙も涸れる。
今や、拒絶されても何一つリアクションをせずに外へ出て、今度は路上で物乞いをするだけだ。
もう痛みすら感じない、もしかすると心の痛覚が一足先に死んできたのだろうか?
街行く者の哀れみやさげすみの視線も、苦痛に感じない。
わざとらしくぶつかられ、つばをはきかけられてもいつものことだ。
ただ、お金を下さいと媚び続けるだけ……。
そんな中、オノスは路上に光る何かを見つけた。
一枚の金貨だ、たった一つだがこれでパンが3個は買える。
つまり3食分になるということだ。
嬉々として拾い上げると、オノスは水浴びをしてからパン屋に向かうことにした。
そこで更なる絶望が待っているとも知らずに……。
「あの、あの……」
「おっ、いらっしゃ……!? なんだよ、物乞いは路上でやれ! うちにくるな!」
「そうじゃなくて、その棚に有るパンを、この金貨で3つ……」
「金貨……!? ははあん……どうせ、どこかから盗んできたんだろう! これは俺が責任を持って衛兵に届ける!」
「あっ……か、返して……!」
「うるさい、出て行け!」
パン屋の店主が金貨を奪い、オノスの顔面を殴りつける。
そして外へ放り投げられたオノスの視界……その先で、店主は金貨を売り上げ保管庫にしまい込んだ。
明らかな着服……。
こうして、美味しくて暖かいパンの夢は奪われた。
後に残ったのは頬の痛みと無念だけ、そんな状態でとぼとぼと用水路に戻ると、オノスは力尽きて横になり始める。
もう怒る気力も湧かない、物乞いをする気力も湧かない。
何故こんな目に遭わなくてはいけないのだろうか。
誰も教えてなどくれない。
この世界に生まれた意味が分からない、神は何故自分達ペクス人を生み出したのだろうか。
差別されるため?
誰かにとって都合の良いサンドバッグとなり、誰かを差別しなくては不安を解消することもできない脆弱者のために虐げられるべく生まれた存在なのだろうか?
「……神がいるなら、殴ってやりてえ……」
血を吐くような呟きを漏らし、オノスは息を吐く。
そんな中……誰かの足音が聞こえてきた。
ふと顔を上げると……そこには一人の女性がいる。
黒のローブに流れるような赤毛……いかにも魔術師といった風体で、腰にはかぎ爪付きのバラ鞭を持った人物だ。
「あら……ごめんなさい、探し人がいるかと思ったら……別の先客がいたのね」
「……えっと、あの……」
「怯えないで大丈夫、きっと辛いことがあったのよね……ほら、お腹すいてるでしょう、パンでも食べる?」
「あ……」
パンを渡され、オノスはどうしていいのか分からなくなる。
ただただ戸惑い、一度は拒否し……だが女性が手を下げなかったため、結局はパンを手に取った。
腰には拷問器具を付けているし、もしかすると毒入りなのでは……そう警戒するも空腹に耐えきれず一口かじった。
すると口の中に麦の甘い味が漂う……。
久々に食べた美味しい食事に、オノスは気付けば涙を流していた。
「あの、ありがと……」
「どういたしまして、ごめんねこんなものしかなくて」
「あなたは……?」
「私は……そうだな、パーニスとでも呼んで」
パーニス、そう名乗った女性は静かに微笑む。
……後々聞いた話、パーニスという言葉は他国語でパンという意味らしい。
恐らくは偽名だったのだろう……。
閑話休題。
どうやらオノスは、彼女の優しさに心惹かれたらしい。
これまで浮浪者生活を続けてきて、真っ当に優しくしてくれた人は殆どいなかったからだ。
だが……同時に彼女もペクス人と知れば自分を差別するのだろう、という気持ちも湧いてくる。
「……あの、パーニス、あんま……関わらない方が、良い……私はペクス人だから……」
「ああ……差別されているのね、でも大丈夫よ、私は外様だから下らない差別意識とかないの」
「……そうなの……?」
「ええ! だって私は脆弱な人間とは違うもの」
「……? あなたは、もしかして魔物……?」
「それも違うのよ、ふふふ」
人間とも魔物とも違う、そう言うとパーニスはニコニコと笑う。
そして……下水道の外を軽く見やった。
何かを考えている顔だ。
「本当はあなたを保護してあげたいんだけどね……仕事があるのよね」
「仕事……?」
「そう、大事なお仕事……生神、現人神……そう言われる類いの存在を討つ仕事かな、今はその下準備中」
「……いきがみ……? あらひとがみ……?」
「えーと、例えば関帝聖君やメタトロンみたいな……って言っても通じないか、まあ色々とね……」
難しいことを口にするパーニスに、オノスはただただ困惑する。
そんな彼女に笑みを返すと、パーニスは立ち上がった。
オノスは「あっ」と声を漏らし、恐る恐る彼女にしがみつく。
ここまで優しくしてくれて、差別もしなかった人だ。
まさに千載一遇の出会い……。
手放したくなどないにきまっている。
だが、パーニスは諭すように首を左右に振った。
「ごめんね、今はまだやることがあるから、そうだ……じゃあ、もしあなたがこの先、私のやるべき事に付き合えるくらい成長したら、一緒に仕事をしましょう」
「う、うん……」
「その時まで、生きられるように……これはおまじない」
「あっ……」
パーニスが頭を撫でると、不思議な温かさが全身に広がる。
それと同時に、栄養失調の不快感が格段に減っていった。
オノスがこの奇跡を高度な治癒術によるものだと理解する頃には、既にパーニスはいない。
だが……オノスはこの再会の約束に勇気を貰えた、そんな気がした。
力無くふてくされるのをやめて、もう一度物乞いをしてみよう……。
そう決意し、彼女は街へ戻っていく。
ゆっくりと歩きながら……ただ静かに。
その足取りは、目の前にある困難へ立ち向かっていく力強さに満ちていた。
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