昨日までの幸せが今日も明日も続く、そんな自信は何一つ根拠なんてないはずなのに、それでも人は信じずにいられない。
明日も同じ朝が来て、目を覚ませばいつも通りの日常が続くのだと。
そんな確証……どこを探しても有るわけないのに。
「おはようお母さん」
「おはよう、有栖は早起きね」
古里有栖、7歳の秋。
いつも通りの朝、いつも通りのご飯、いつも通りのお母さん。
父はもう仕事に向かっていて、母とテレビを見ながら通学の準備をするいつもの時間。
有栖もまた、こんな時間がいつまでも続くと思っていた。
「今日は体育のある日かあ、あたし体育大好き!」
「そっか、ふふ……じゃあ有栖はいつか大きくなるわね、そうなったら私のバイクを譲ってもいいかもしれない」
「お母さんのバイク……! えへへ、いいなあ……」
母のバイク……子供用タンデムシートやタンデムベルトを着けて乗っているいつものバイク。
その馴染み有る一台を自分が動かす……想像するだけで楽しそうだ。
いずれはもしかすると、自分も子供を乗せるのかもしれない。
それは遠い未来の話だが、想像はどんどん膨らんでいく。
そんな中、家のインターホンが鳴った。
「有栖ちゃん! 学校行こう!」
「あっ、真白! うん、今行く! じゃあお母さん、行ってくるね!」
「ええ、行ってらっしゃい」
ランドセルを背負い、母に見送られながら家を出る有栖。
真白と笑いあいながら走って行く彼女に母は「転んじゃダメよ」と声をかける。
そして鍵を閉めてテレビを切ると軽く伸びをした。
(ああ、なんて幸せな朝なのだろう……)
母は幸福を噛みしめながら目を細める。
彼女は生まれからしてあまり恵まれてはいなかった。
とあるアイドルがスキャンダル逃れのため妻諸共捨てた私生児、それが彼女だ。
そんな不遇な生まれである彼女にはいつだって苦難が付き纏っていた。
父がいないということを周囲にからかわれ、いじめられ……。
親がいないというだけで仲間はずれにされることなど多々あった。
いい歳をしていじめをするような下らない大人が祖母を所謂ママ友の集まりからのけ者にした事だってある。
そんな日々の中、祖母は世間への恨みを吐いた後に自分をいびったママ友のリーダー格を刺し殺して自殺。
母はいじめられこそしなくなったものの、怒らせると何をするか分からない血族と陰口をたたかれて、その後保護された養護施設ですら孤立する事になった。
そうして孤独な青春時代を過ごし、すっかり彼女は荒んでいたが……そんな中バイト先で出会ったのが夫だ。
当時は客と店員の間柄だったが、夫はよく妻の体調を気にかけ、声をかけてくれた……。
気遣ってくれるお人好しな他人というのは初めてだった母は段々彼に気を許し……そして、友人関係を経て結婚に至ることとなる。
そして今や子供も生まれ、平和な暮らしを得た……。
こんな幸せ、手放せと言われても手放さないだろう……そう考えながら母は目を細める。
そして、朝食の食器を洗いに流し台へ向かい……。
目眩を感じた瞬間、彼女は忽然とこの世から姿を消した……。
なんの前触れもない、唐突な出来事。
それが今、彼女達の幸せを奪い始めていた。
「お母さん、おかあさーん?」
数時間後、帰宅した有栖は家の異変に気付いた。
インターホンを鳴らしても誰も出てこない……。
しかし、電気は点いているのだ。
窓にカーテンはされていないが、見える内部に人影はない……。
最初は「寝ているのかな」と考えた程度だったが……。
しかし、何度押しても一切の応答がなく段々不安になってきた。
焦燥感の中で強くノックするが、しかし何も返ってこない……。
有栖は家の前で体育座りをし、不安を感じながら息を吐く。
昼は体育の授業にワクワクしながら体育座りをしていたはずだが……今は正反対だ。
日が暮れていき、辺りが暗くなっていく……。
だが携帯電話をまだ持っていない有栖には、父に連絡をする事すらできない。
小学校にお金を持ってきてはいけないので財布すらないから公衆電話を借りることすら無理だ。
近所に住んでいる友達はいるが、こんな時間に歩き回るのは怖かった。
暗い道は子供の視点から見ると、まるで怪物でも出てきそうなおどろおどろしさで……。
今にも、あの電灯の影から何か飛び出してくるんじゃないかと不安になる。
そんな気持ちを抱えたまま、有栖は父に早く帰ってきて欲しいと願いながら涙を流すしかできなかった。
「有栖……?」
「……! お父さん!」
それからどれだけ経ったのだろう、帰宅した父に有栖は飛びつく。
そして顔をうずめると再度涙を流し始めた。
一方、父は何が何だか分からない様子だ。
「母さんは……?」
「分かんない……家にいなくて、でも家の電気は点いてて……」
「……どういうことなんだろう……」
父は戸惑いながらもドアを開ける。
当然ながら、中に物取りの様子は一切無い。
有栖が「お皿がそのまんまだ」と言うのを聞いて、これが朝食直後だと察する。
もしかすると誘拐でも有ったのかもしれない……。
そう考えながら父は警察に連絡し……。
そして、妻の捜索が始まった。
愛知中を探し続ける大捜索……裏では真白の命を受けた稲葉組も協力していたというその捜索は数ヶ月続いた。
しかしその甲斐もなく母は見つからず……。
有栖が感じていた幸せは、有栖の母が尊んでいた幸せは……。
大きな音を立てて、崩れ去っていった……。
父は「自分に落ち度があったのだろうか」と気に病み。
有栖は朝になる度、父が作り置きして冷めてしまった朝食を一人食べ……。
今ここに、大きな悲しみが溢れ出していた。
「有栖ちゃん、大丈夫……?」
「……あんまり、あんまり大丈夫じゃないかも……」
「……そうだ、良かったら今日気晴らしに遊ばない?」
通学路でいつものように語り合う中、真白が出した提案。
それは有栖にとって大きな救いだった。
家にいると母の事を思い出して悲しくなってしまう……。
だからあまり家にいたくない有栖にとって、頻繁に遊びへと誘ってくれる真白は大きな救いだ。
親が失踪した話を聞いても、真白だけは偏見を持たずに接してくれる……。
今思えば、そんな真白に対して有栖は若干依存するようになっていたのかもしれない。
そうやって家を頻繁に空けることが、父の孤独を深めているとも知らずに……。
「有栖、今日は……」
「真白と遊んでくるね……食事も外で食べてくる」
「そっか、うん……」
家を後にする有栖。
そんな彼女を父はただ見送るしかできない。
孤独に耐えながら一人休日を過ごし、息を吐くしかできなかった。
真白の家が任侠組織ということは知っている。
仲良くすること自体には文句がない。
だが、食事まで奢ってくれるのはやりすぎだな……などと父は考えていた。
家族の時間を過ごしたいのに、自分だって寂しいのに。
これでは、団らんの時を送ることすらできない……。
静かな孤独に苛まれながら、父は心を痛めていった。
一方、有栖は……。
「……ありがとうね、真白」
「ん? 何が?」
「今日も遊びに誘ってくれて、おかげで全部忘れられる……」
温水プールのサイドに座り、照れながら礼を言う有栖。
そんな彼女に真白は満面の笑みを返した。
幼稚園時代の張り付いたような笑みとは全く違う……。
有栖のためならこの程度、お安いご用だと言わんばかりだ。
そんな真白が有栖は愛おしく感じ……少し顔を赤くする。
「なんだって言ってよ、私有栖ちゃんの為なら何でもするから!」
何でもする、それは実のところ比喩表現抜きで本当に何でもすると言うことなのだが……。
たとえば、もし有栖に「不快だから死ね」と言われれば真白はショックではなく“有栖のために”の一心で命を絶つだろう。
そんな危うさなどいざ知らず、有栖は純粋に照れて頬を掻く。
そして……「ありがと」と呟くと、照れを隠すようにプールへ飛び込むのだった。
……それから数ヶ月後。
小学二年生になった有栖は、始業式から帰宅した時……家に知らない靴が二人分ある事に気付いた。
大人の女性が使う靴と、子供の靴だ。
なんだろうと奥に入ると……そこには、父と見知らぬ女性、そして子供がいる。
「お父さん、ただいま……この人達は?」
「ああ有栖、お帰り……紹介するよ、この人は筒本さん……実は、父さんこの人と再婚しようかなと思うんだ」
「え……?」
再婚、その言葉に有栖は戸惑う。
筒本と呼ばれた女性の挨拶も、子供の挨拶も頭に入ってこない。
そんな状況の中、有栖はただ困惑し続けていた。
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