その日、名古屋大学剣道部はにわかに騒然としていた。
だが……その原因ときたら、どこ吹く風と学校を出ようとしている。
……流石にそこまでは都合良くいかないようで、原因……春音の肩が強く掴まれた。
「こら、待て!」
「あっ、先輩、どうも!」
「どうもじゃない……聞いたぞ春音、自主退学だと? 副部長になったのにか?」
真理子の問いかけに春音はばつが悪そうな顔をする。
恐らく真理子は勘付いているのだ……理由が有ると。
この人は、こういう時の勘が実に鋭い。
もはや動物的直感、第六感の域だと時に感じる。
「どういう理由だ、言ってみろ、そもそも入学したのも親に言われてなのだろう? 軋轢が生まれると分かっていながら何故退学する?」
「あー……それはですね……そう、結婚ですよ」
「な、なに……!?」
「学生結婚なんです、というわけで! 自主退学することにしました!」
学生結婚、そう言われた真理子は面食らう。
春音としてはとりあえず、口から出任せの言い訳として口走ったのだが……。
言ってしまったからにはもう「嘘です! 全部嘘です!」などとは主張できない。
この嘘をつき通すしかないだろう。
「そんなわけで……アレですよ、結婚に関する打ち合わせがありますので、それじゃ!」
「お、おう……」
手を振り、自転車で走り出す春音。
その背中を真理子はじっと見守る。
……春音と特別仲の良い男子など一人しか思い浮かばない。
学校内の相手だというのなら、そういうことなのだろう。
こうして……よもや誤解だとは知らぬまま、既成事実だけが生まれていくのだった。
……そんな退学劇から時は流れて……。
春音は、退学以来ずっと稲葉組で剣術指南を行っていた。
稲葉組長による方針で、保護するのは良いが何かしら組に貢献することになっていたためだ。
まあ、春音としてもほとぼりが冷めるまで外に出られない身のため運動不足にならないよう剣道を教えるのは悪くない。
組員達も若のお気に入りということで、春音の指導には従順だ。
……というより、一人も春音に勝てないので嫌でも従順にならざるを得ないのだが。
「よし……今日も全戦全勝ね!」
「あたた……流石は田村さんだ、まだ敵わないな……」
面を外し、頭をさする厚志。
その顔を春音はじっと見つめる。
……どこか少し不満げだ。
「ねえあっくん、今日ってここで暮らし始めて何年か分かる?」
「えーと……何年でしたっけ」
「ちょうど2年! そろそろあだ名を考えてくれてもいいんじゃないの?」
顔を近づけられ、厚志は両手を挙げながら目を逸らす。
何だかんだ気恥ずかしく、まだあだ名を付けていないのだ。
……ずっと一緒に暮らしているのだからいい加減にあだ名で呼べ、ということなのだろう。
「若、そろそろ腹をくくった方が良いんじゃないですか?」
「うるさいよ! もう!」
「ううん、こればかりは皆の言うとおり腹をくくりなさいって、ほら……負けたんだし罰ゲーム!」
組員達の茶々に怒鳴るも、春音は更に近付いてくる。
……もう腹をくくるしかないのだろう、こんな大勢の前で迫られては……。
そう覚悟した厚志は、意を決して前々から考えていたあだ名を口にした。
「る……るねちゃん、春音のるねで……」
「何故そこを取った!? ええい情けない、わしの若い頃は……」
「やかましいよ!」
厚志のネーミングセンスに、とうとう組長まで茶々を入れ始める。
組長はかつて女殺し、人間スクリュードライバーと呼ばれた男。
それ故に、もっと上手いやり方があるだろうと日々やきもきしているようだ。
だが……春音は笑みを浮かべ、厚志に勢い良く抱きつく。
「ありがとうあっくん! 凄く斬新で良いと思う、他の人とは違うセンスなのが、貴方が考えてくれた私だけのあだ名って感じで……凄く嬉しい!」
「そ、そう言って貰えるとこっちも嬉しいです……田む……いや、るねちゃん」
「……最近の若いのはよく分からん」
抱きついて笑う春音に、頬を掻きながら目を逸らす厚志。
……そんな二人の様子が、組長にはよく分からないようだ。
若い子に大人はついて行けない、ということなのかもしれない。
何はともあれ……こうして、厚志は春音をあだ名で呼ぶことになった。
何だかんだあだ名というのは偉大だ、こんな物一つで距離が変わるのだから侮れない。
二人はこれを機に、交際未満の同棲状態から正式に交際し……結婚にも至るのだから。
「……るねちゃん、本当に良いの?」
「良いの良いの、もう殆ど組員みたいなもんなんだから」
結婚の際も、厚志はずっと春音が組の一員となる事を不安に思っていた。
……こういう所が、真白にも引き継がれた愛する者への一途さ、優しさなのだろう。
とはいえ、結婚式当日には二人もすっかり笑顔で、組内で開かれた身内のみの式ながら、盛大な祝福を受けて結ばれたという。
「……ねえ、あっくん、私ね……」
「ん……?」
「すっごい幸せ……」
ウエディングドレス姿で厚志に抱きつく春音。
その涙を厚志が拭い、二人はキスをする。
……その姿が、突如揺らぎだした……。
「……ん……? 夢を、見ていたのか……? だから、飛び飛びで、最後もどんどん曖昧に……いや、ただの夢じゃない……これは現実に起きていたこと……?」
先ほどまで見ていた稲葉夫妻の結婚式はもうどこにも無い。
その景色を見ていたはずの女……真白は、ベッドから起き上がると窓の外を見つめた。
時は連合歴3年、3月14日……真白の誕生日だ。
窓の外では、降り積もる雪の中で晴が無邪気に遊んでいる。
どうやら……夜眠っている間に、春音と厚志の過去を夢に見ていたらしい。
だが……夢とはいえ、これが荒唐無稽な非現実だとは思えなかった。
現実に起きた出来事……そんな気がする。
「世界を移動する時……私は、確かに二人の過去を見た……私が生まれた日の出来事を……それと同じだ……でも、何故今それを見たんだ?」
あの日、二人の過去を垣間見たのは世界と世界の狭間にいたからだと思っていた。
だが……実際は違ったのだろうか?
……ステファニーは真白の目を、特殊な目だと言っていた。
それに起因する可能性も有る……。
「……稲葉真白、お前は一体何者なんだ……? ただ抗体の地と力を強く継ぎ、与え動かす力を持っているだけではないのか……? 何故その目は二人の過去を見た……?」
窓に映る自分を見つめ、真白は独りごちる。
だが……そんなのは決まっているだろう、そう考えて首を振った。
稲葉真白は稲葉厚志と稲葉春音の娘だ、かつてはそれを呪ったこともあったが……働く苦労、親であることの大変さを知り今は二人を愛している。
そして同時に……稲葉真白は、勇者稲葉真白でもある、人々のために尽くし己の傷は鑑みない究極の奉仕者だ。
「父さん、母さん……二人から受け継いだ性質、愛する者への献身性、己の痛みを鑑みぬ生き方……それを用い、私は人々のため、そして有栖のために生きるよ、今日も明日も……」
愛する者の為ならば、自分の全てを投げ出してでも行動できる。
その性質の半分は、ヤクザの娘として周りから後ろ指を指された事による自己肯定感の低さから来ているのかもしれない。
だが……もう半分は、両親から受け継いだ性質であり親子の証しとも言える在り方だ。
かつての真白はそれを拒んだかもしれない、それどころか両親がそういった性質を有することを信じなかったことだろう。
だが……今は違う、彼らの血を引いていることは真白にとって誇りの一つだ。
自分の生活や学費などのため、嫌われてでも頑張ってくれた両親なのだから。
真白は彼らの血を継ぐ誇りを胸に、部屋のドアへ向かっていく。
さあ……窓の外に見える世界へ向かおう。
世界中が私を待っているわけではなくとも、必要としてくれる者達のため。
その者達に、己が傷つくことも恐れず愛を以て尽くすために。
勇者の道行きは、こうして今日もまた始まろうとしていた。
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