火災において怖いもの、それは火自体もそうだが煙もだ。
そう考えながら、有栖は川の水で濡らしたハンカチを口元に当てた。
ハンカチを売らずにおいて良かった……今以上にそう思う瞬間はもう無いかもしれない。
まさしく、人生一度きりの体験だろう。
(……崖下の側に道がある以上、そっちに誰かが住んでいるかもしれないって事だ、急いで確認しに行かないと、見捨てたら寝覚めがわりい……そんなのごめんだ)
山道を駆け下り、下へと向かっていく……。
段々と気温と煙が増えてきた……汗が体にへばりついて気持ち悪い。
それだけで焦燥感が加速するのは気のせいではないだろう。
真白は上手くやっているだろうか、後から来た二人にも上手く説明しただろうか。
そう一瞬考えるが、それを上手くやる最高の副官こそが真白だと考え直し、不安を消す。
今はこの先にいる人間の事を考えるのが先決だ。
「火事だ! 山火事になるぞ! 水で消せない火が燃え始めた! 速く逃げるんだ! 急いで!」
有栖の叫びと熱気に反応して、動物が木々から逃げ出す。
そんな動物たちの後ろに村が見えてきた。
そこでは……魔術師と思しき人物が、魔法を唱えている。
恐らく水を起こそうというのだろう。
シャハルが言っていた、国内の各山地に水を操る魔術師を配置する政策で配属されたと思しき人物だ。
「雨よ……降り注げ!」
「っ……! ダメだ! 火が広がる!」
叫ぶがもう遅い、降り出した雨は油火災を一気に広げ、火が勢いを増していく。
村人達は呆然と火を眺めているが……そんな彼らの間に有栖は入った。
そして、ハンカチで口を押さえながら再度叫ぶ。
村人達の視線が有栖を向いた……。
「逃げるんだ! 水じゃ消えない火なんだよ、兎に角山から外へ逃げるんだ!」
叫びに反応し、一目散に下山を始める村人達。
そんな中、一人の女性が有栖に縋り付いた。
……どこか、二人目の母を優しくしたような見た目の女性だ。
嫌な記憶が脳裏をよぎるが、今はそんな場合ではない。
「何してるんだ、アンタも速く逃げろよ! 死にてえのか!?」
「待って下さい! 娘が、娘がまだ……魔術師様の魔法を補助するために下に行ったままなんです!」
「……! 娘……?」
「はい、私の大事なミラがまだ下に……!」
ミラ、その名前に有栖はハッとなる。
死んだ妹の名前……美羅と同じなのだ。
このままではミラという少女は死ぬだろう。
ミラが死ぬ、美羅が死ぬ、みらがしぬ、みらが。
このまま何もしなければ死ぬ、また死ぬ、また見殺しにする、また殺すのか、また見殺しにするのか。
頭の中に声が聞こえる……。
溢れる焦燥感と共に、有栖は拳を握りしめた。
「アタイが助けに行く! アンタは先に逃げてな!」
言い切り、迷いなく駆け出す有栖。
その背中に女性が一度手を伸ばすが、自分が行っても足手まといになるだけだと考え……踵を返すと山を下りだした。
そんな彼女とは逆に、有栖は火が広がる溝の方へと向かっていく……。
その目に迷いはなかった。
「あー、もう、有栖ちゃんは無茶ばっかするなあ!」
一方、山の上層では苛立ち混じりに真白が叫んでいる。
上層に住んでいる者の避難はある程度済んだ。
もしかすると、更なる奥にもっと人がいるのかもしれないが……そこまで気にして自分が戻れなくなっては元も子もない。
そう考え、真白はバイクと共に山を下りようとする。
そんな彼女の前にシャハルとオノスが駆け上がってきた。
「はあ、はあ……やっと上がってこれた……」
「下りてくる連中とぶつかりまくったな……くそっ、もうこんな燃えてやがる!」
「おっと、ようやく来たんだね! でも下りるよ! 早く!」
下りる、せっかく上ってきたのに即そう言われた二人は驚いた顔をする。
だが真白はお構いなしに、手をしっしと振って促した。
だが二人は戸惑った様子で周囲を見ている。
有栖がいないことが気になるのだ。
「下りるって、アリスはどうしたんだよ!」
「あっち! 崖の下の方に人を助けに行った!」
「行ったってそんな……! 私達も行かなくて良いんですか!?」
「足引っ張るだけでしょ! こういう時に一番怖いのは二次災害だし……良いから行くよ! ほら早く!」
バイクを出す真白に、シャハルとオノスがひいひい言いながらついていく。
その声を聞きながら真白は崖下をチラリと見た。
有栖はいつも無茶をする、そうしなければ納得できないから、そうすることが彼女の通したい筋だからだ。
それを通して彼女は今まで生き残ってきた。
なら今回だってきっと大丈夫なはずだ。
(だって有栖ちゃんは無敵だもん、私のヒーローなんだから……信じてるよ、戻ってくるって)
避難民を抜かして颯爽と下りていくバイク。
街道に躍り出た真白はそこから下り、山を見上げる。
火がどんどん広がっていく山……それを凝視する真白の頬から汗が垂れ落ちる。
一人一人と下りてくるが……しかし、その中に有栖の姿はない。
シャハルとオノスも下りてきて心配げに山を見つめる。
しかし……有栖はまだ来ないようだ。
そんな中、真白の肩を誰かが叩く。
顔を明るくして振り向くが……そこにいたのは有栖ではなかった。
「どうも……」
「……なんだ、朧ちゃんか……」
がっくりした様子で息を吐く真白。
そんな彼女に朧はムッとする。
しかしここで強く出ては任務に支障が出るので、シャハルとオノスに気付かれないように真白を後ろに下がらせた。
そしてこっそりと耳打ちをする……。
「あの、緊急事態で呼ばれましたけど、有栖さんはどこに?」
「え……? 有栖ちゃんから聞いたけど、窮奇は常に有栖ちゃんを見守ってるんじゃないの?」
「え、あー、それはその……」
有栖の問いかけに、朧はハッキリとしない様子でまごつく。
そして「どうしよう」と小さく呟いた。
その様子を見ながら、真白は一つの推察が思い浮かぶ……。
「もしかしてだけど……あなた達は、有栖ちゃんを見ているんじゃないの?」
「うえっ、それはその……」
「窮奇は私と窮奇が似ていると言った、それは実を言うとただの類似じゃなくてもっと大きな繋がりが有って……それで私達の居場所を把握している、だから今回は私の傍に出てきたって事じゃない?」
「……うう……中間管理職をあんまいじめないでくださいよ……ただでさえ名前明かしちゃって怒られてるんですから……」
「怒りたいのはこっちだよ、勝手にガイドビーコン扱いされて……!」
「うへえ、そういう所もそっくりなんですね……」
笑顔のまま怒りを露わにする真白に、朧はうんざりした様子で息を吐く。
どうやら窮奇もまた笑顔でキレ散らかすタイプの人間らしい。
そんな窮奇からの指示はどうだ……と真白は聞こうとする。
だがその時、突如山が光に包まれた。
いや……ただの光ではない、これは光を纏った粉だ。
粉が火を消していく……それを見ながら真白の中に浮かんだ言葉、それは粉消火器だった。
そういえば真白は粉消火器を持っていたはず。
ではこれは真白の仕業なのだろうか?
だがただの消火器にここまでできるとは思えない……。
そう考えていると、傍らで朧が何やら呟いた。
「……アレは、奪う力……」
「奪う力……?」
「我らが王、窮奇様の与え動かす力と対になる力です」
窮奇の力は与え動かす力、その対になる力が奪う力だという。
恐らく、名前からすると火に送られる酸素を奪って鎮火したのかもしれない。
何故その力がいまここで発揮されたのか……それを考えると、窮奇と対で有るという勇者のことを思い出してきた。
そして、有栖はその勇者と有栖がそっくりだということも思い出す。
「もしかして……これって有栖ちゃんがやったの?」
問いかけるが、朧からの返事はない。
苛立ちながらそちらを見るが……そこには誰もいなかった。
思わず苛ついて舌打ちをするが……しかし少しだけ安堵も芽生える。
何せ、有栖の緊急事態にやってきた彼女が去ったということは有栖の危機も去ったということにほかならない。
真白はそう確信すると山へ駆け寄り……有栖の帰還を静かに待つ。
帰ってきたら、思い切り小突いてやろう。
小突いて、無茶を叱って……それでチャラだ。
そう考えながら真白は静かに腕を広げるのだった。
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