若い頃は、自分何でもできる……そんな気持ちを抱いていた。
戸西朧……彼女はそう述懐する。
曰く、戸西家は狼型魔物の家系においてもそれなりの名家らしい。
そこに生まれた朧には、幼い頃より一つの能力が備わっていた。
鎮静の魔眼と呼ばれる能力で、簡単に言えば目を合わせた相手を落ち着かせられる催眠術だ。
大したことのない能力、そう言われることもあったが……。
しかし朧には野心があった、誇り高き狼たる者……上を目指さないわけにはいかない。
故に、この能力を活かして名を上げてやるという野心が。
そしていずれは魔王の側近になるくらい大物になって、皆を守れる力を持つ存在になってみせると。
その為に、彼女は学業の傍らに一つの仕事を始めることにした。
「なんだてめえ、この野郎!」
「やんのかこら!」
「はいはい……そこまで! 喧嘩はやめましょうね!」
鎮静の魔眼を活かした仕事……喧嘩仲裁屋だ。
これでいっぱい名を上げて、いつかは大物になってやると意気込む朧。
まさしくこれは輝かしい野心……青雲の志、他者に迷惑をかけることもない平和そのものな野望だろう。
勿論、もし魔眼が上手く効かなかったときに備えて体を鍛えるのも忘れちゃいない。
まさしく文武両道、天が二物を与えた女……それこそが彼女だ。
「ありがとうございます、戸西さん!」
「いえいえ、それじゃ私はこれで!」
しかし、何かを持つ者は何も持たざる者に妬まれるもの……。
その事を彼女は知らなかった。
大したことが無い能力と言われる彼女の力すら、夢も力もない者には羨望の対象だったのだ。
勿論、自分に何もないから他者を妬み他者から奪う人生など馬鹿馬鹿しいことこの上ないし、それくらいなら何かを得ようと努力した方が万倍良いのだが。
本当に何も持っていない人間というのは、かわいそうなことにそれすら分からないのだ。
「じゃあ、今日も行ってきます!」
「行ってらっしゃい、気を付けるんだよ」
嫉妬を集めているとも知らず、朧は家を後にする。
戸西家のある都市、アルメナーラはモストロでも最南端の都市。
南部に有る友好国、漁業大国シレーナにも隣接している。
若き日の朧は、鎮静の魔眼を利用して得た通行証で二国を行き来するのが日課だった。
「凄いなあ、通行証だ……その魔眼便利だね」
「えへへ……でしょう? 落ち着かせることができれば、交渉も上手く進むからね」
幼馴染みである友人、恐竜種の魔物である能登銀河と世間話をしながら、朧はのんびりと国境へ向かっていく。
シレーナ国はモストロと同じ魔物の住む国で、プルミエ国と繋がる東の海よりも更に美しいとされる南の海……その近くで生きることを望んだ海水棲系の魔物が独立してできた国だ。
彼らは魔王による直接の庇護を受けられない代わりに独立自治権を得て、漁業を主産業とし周辺各国と交易しながら過ごしている。
「そういえば、水棲系なのに普通に魚介類を食べるんだね」
「うーん、まあ狼も哺乳類だけど哺乳類食べるしね」
「そっか、じゃあ確かに魚って括りだけじゃ範囲が広すぎるのかあ……良いなあ、実際に行ってみたいなあ」
「実際に行ってみるとね、とても綺麗で自由な雰囲気が良いよ、いつか一緒に行こうね!」
自由な雰囲気、シレーナ国を見て感じたままを語る朧。
しかし……国という名前こそついているが、実際の所はモストロ国内の独立自治領という立ち位置の方が近いのかもしれない。
俗に言う治外法権というやつだ。
一見すると自由な気風だが、ひとたび問題を起こせば独立自治権を剥奪される可能性すら持っている立場の不安定な地域でもある。
それ故、モストロの民はシレーナにおいてはかなり大事にされるのだ。
つまりそれは、迂闊に手出しできない関係で仲裁役として活動するのにも非常に有利な場所ということになる。
「それじゃ、行ってくるね!」
「うん、行ってらっしゃい!」
能登と別れ、朧はシレーナへ向かっていく。
そんな彼女を能登はじっと見つめていた。
彼女は生まれてからずっと一緒の幼馴染みだ。
それ故に、朧の野心もずっと見てきた。
それなりとはいえ名家に生まれ邁進し続ける彼女の姿は、一般家庭で普通に生きる能登にとって眩しくて仕方がない……。
何の先天的能力も持たず、ただ見守るだけの自分とは違う……そう感じてしまうのだ。
正直、どこまでも遠くに行ってしまいそうで不安を感じてしまう……。
だがそんな気持ちを堪え、能登は彼女を応援していた。
そんな矢先に、あんな事が起きるとは知らずに……。
……果たして、目の前に目障りな存在が居るとして、それに効率よくダメージを与えるにはどうすれば良いのだろう?
本人を直接襲撃すること?
しかしそれでは日頃の言行が証拠となり自分が怪しまれるかもしれない。
だから……関係のない身近な人物が狙われたのだ。
自分のせいで、関係ない者が傷ついてしまった……そんな苦しみを抱かせるために。
「……むぐっ!?」
それはある昼下がりのこと、いつものように朧を見送った後。
突如、能登は口を塞がれて誘拐されかけた。
誘拐されかけた、といっても本当に未遂止まりだ。
朧の向上心に嫉妬する一部の矮小な大人に、喧嘩を仲裁されたことで公平に裁かれて損をした者が協力しての犯行……。
だが、仲裁の逆恨みを抱く者が思いのほか若く、周囲を確認せずに誘拐を試みたのだ、それによりあっさりと彼らはお縄につくこととなった。
それはいいのだが……そこまではよかったのだが。
それでも彼らの目論見は、半分上手くいく形となってしまったのだ。
何故かというと、彼らの動機が広まったこと……これが大きい。
広まれば、当然朧の耳にも話が入る。
「……その、ごめん……」
「いいよ、悪いのはあの人たちだし、何も気にしてないって」
「でも……その足……」
能登は……実を言うと誘拐のゴタゴタに際して足を折っていた。
複数の大人がもつれ、その下敷きになった彼女の足は骨が折れるどころか粉砕してしまい、治癒術を以てしても回復にはかなりの時間と金額がかかるようになってしまったのだ。
一般家庭である彼女の家には、正直そこまでできる金はない。
当初、朧はごく普通に心配しているだけだったが……原因の一端が自分に有ると知れば当然罪悪感を抱いてしまう。
そんな彼女に対して、能登は少し呆れながら尻を叩いた。
「あいった!」
「もう……名を上げるんでしょ? だったらしゃきっとしなさい! 私にもっと色々見せてよ、ねっ?」
「うん……」
すっかり意気消沈した様子の朧に、能登は「重傷だなあ」と息を吐く。
こんな状態となってしまった彼女に、もう一度燃えるような気持ちを抱かせるには相応のきっかけが必要なのだろう。
だが正直、そのきっかけを作れるのは自分ではない……能登はそうも感じていた。
今後の出会いに期待、それしかないだろう。
そう考える能登の傍らで、朧は少し恐怖を感じていた。
名を上げる……そう考え向上心を抱いてきたことがこんな結果を生むなんて思わなかったのだ。
名を上げようと思った結果周囲に迷惑がかかるならば、控えめに……程々の向上心で生きる、それが一番良いのかもしれない。
だがそれでも能登は向上心を抱けと発破をかけるし、足への罪悪感からここで投げ出すことを良しとしない自分もいる。
色々な気持ちの板挟みになりながら、朧は今中途半端に燻ろうとしていた。
後に中間管理職となる女……そんな彼女の中に、半端な向上心とこのまま留まりたい恐れ、面倒ごとを恐れる恐怖心と同胞や近しい存在への蛮行を許さない怒り……そういった様々な気持ちが渦巻くことになったきっかけ。
そして、実は本来それなりに多いはずの給金を「中間管理職は給金が少ない」と嘯きながら能登への支援に使い、金欠に喘ぐ事となった原因。
それらの要素が、この事件に詰まっていた。
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