「あー、肩が凝る……巨乳の辛みって奴だね、こいつは」
初めての領主生活が幕を開けてしばらく後のこと。
真白は椅子に腰をかけたまま、気の抜けた声を上げて天井を見上げていた。
デスクワークというのも花の女子高生としては中々無い体験と言うべきだろうか。
一応高校で教科書を読んだり板書をしたりするのとやっていること自体はそこまで変わらないと思うのだが、なにぶん量が違う。
宿題のように一夜だけで終わりますよというものではないのだ。
それになんだかんだで時間の決まっている授業と違い、休憩タイミングも自分で決めなくてはならない。
それの何が悪いかというとやめようと思ったときに「休憩しよう、このタスクが終わったら」「あ、こっちも……それもかな……」とついつい切りの良いところまでやろうとしすぎるのだ。
真白はやり残しが半端に残るのが少々……いや大分むずがゆく思うタチのため、つい仕事のやめどきを見失ってしまう。
その結果、気付けばすっかり疲れ果て……そして肩が凝ってしまったのだ。
「ふー、疲れる……ほんと大変なんだな、働くって……早くも親の苦労が分かってきた気がする……私を育てるためにほんと頑張ってくれてたんだ……」
先代領主が遺したという大きな傷痕……恐らく牙で傷つけた痕の残る椅子にしがみつき、真白は大きく息を吐く。
猪獣人だったという先代の領主は同じ女性ながらも真白と比較して結構な体格差があるため、調度品は全体的に真白の体格より大きい。
身長210、体重125……筋肉の塊である猪獣人のサイズというのは人間と比較して大分違うのだ。
……最初は、そんな先代が遺した大きめのデスクを書類が隙間無く埋めていたのだから、領主不在というのは恐ろしい。
今は大分余裕も出てきたが、我ながら頑張ったものだと思う。
「しかし……そんだけ体格があるんなら胸だって私より大きかったと思うけど、肩こりはどうしてたんだろう? 筋肉があれば平気なのかな、こういうのって」
疑問に思いながら、真白は立ち上がって本棚に向かう。
執務室の本棚は中央の窓から見て右と左の壁に配置されている。
そのうち、右は執務用で左は先代領主が時間を潰す際に呼んでいたという娯楽用の本が入った棚だ。
この中に肩こり対策でも載っていないか、そう考えながら真白は本を数冊取り出して軽くめくる。
どれも他愛のない寓話やらジョーク本……ついでに明らかにその手のエッチな……まあ俗に言う春画の雑誌類やらだが……中に一つ真白の目を引く物があった。
それは、プラード領周辺観光案内と書かれた本だ……それだけなら普通の本なのだが、表紙がなんと温泉宿。
どうやら、プラード領の近郊にはかなりの大規模として有名な温泉地があるらしい。
なるほど、大方先代領主はこの温泉地で肩の凝りをほぐしていたのだろう。
温泉地には凄腕のマッサージ師も存在すると書かれている。
執務が一段落したら行ってみたいな……そう思うと同時に、真白はふと昔のことを思い出すのだった。
……まだティエラ世界に転移するより前の話。
それどころか、有栖と出会うより前の話だ。
これもまた無限宇宙の狭間を通った際思い出した光景だが、真白はどうも幼稚園に入る前に両親に連れられて猿投山の温泉地へ向かっていたらしい。
両親に手を引かれているとはいえ、子供心に脱衣所から風呂場への通路は怖かった。
だが、そこを通り過ぎて辿り着いたお風呂場は打って変わって、幼い頃の真白は夢のテーマパークのように感じたのだ。
その記憶が心の奥底に根付いているからこそ、真白はお風呂が好きになったのだろう。
途中からは両親と距離を置きたいという反発心が混じるようにこそなったものの、それでもこの気持ちは本物だった。
だからこそ、中学からは電車を、高校からはバイクを駆使して、何の活動もない日はあちらこちらの風呂屋へ走ったものだ。
守山、名東、山王、長久手、平針、熱田、港、中村、中川……。
時にはほぼ名古屋と言える長久手どころか、豊田や知多半島のような遠くまで向かったりもした。
時には豊田の山中へ一時間一本しかないようなローカルバスで向かったことも有り、行っていない風呂屋の方が少ないくらいだろう。
そんな真白だからこそ、この領地近くに温泉地が存在するという事実に心躍った。
窮奇はこのためにプラード領を選んでくれたのでは、などと考えてしまうくらいだ。
無論、窮奇には風呂好きの話などしていないはずなので有り得ないのだが。
まあそれはそれ、これはこれというやつである。
「えーと、おっ……ペンで波線が引かれてる部分があるぞ、大事な説明には何処の世界でも波線やマーカーを引くもんなんだな……どれどれ」
波線が引かれていたのは温泉地解説の最後……オマケコーナーだ。
ムフフ、ちょっぴり大人の温泉街。
温泉街の最奥には隠れた店として特殊風俗店が存在する。
この温泉街でしか楽しめない特殊風俗店……それは、獣人・魔物のスペシャルなメニューをマンツーマンで会話しながら食べるというお店だ。
では、スペシャルなメニューとはなんなのか?
それは簡単に言うと……卵生種族の産みたて無精卵、食用乳を出す種族の出したてミルクといったものだ。
それを産みの親とマンツーマンで話しながら、入浴のお供に食すというお店……それがこの温泉街特有の風俗店である。
真白はそのマニアックすぎる内容に絶句しながら本を閉じて棚へしまった。
……そういえば資料にも記されていたはずだ。
先代領主は女性関係のトラブルが絶えず、かなり浮き名をはせていた事で生前有名だったと……。
……同じ温泉好きなのかと思い、親近感を抱いた自分が馬鹿だった。
真白は絶句したままそう考え、静かに息を吐く。
(そもそも……特殊風俗店だっていうけど……その性癖はいささか特殊すぎない? 特殊にもほどがない? なんで食うの? なんで? 清楚な顔して卵は大きいんだねえ……総排泄口はもっと大きいのカナ? とか言うの?)
果たして、この性癖はいったいどのような言葉で言い表せばいいのだろうか?
真白の世界ではよくスーパーマーケットの産地直送ブースでは「私が産みました」と生産者の顔として鶏の写真が飾られていることがあるが。
例えるなら、その鶏とマンツーマンで向き合いながら目の前で卵料理を食べる性癖?
それでどんな顔を見ろと?
嘆く顔なのか、喜ぶ顔なのか、照れる顔なのか……。
ダメだ、特殊すぎてやはりどういう性癖なのかよく理解できない。
何はともあれ……頭痛肩こり腰痛に、よく効くお店というものではないようだ。
「はー……すっかりグロッキーになっちゃった、でも……仕事が片付いたらお風呂に入りに行くのも良いかもしれないな……」
真白はそこまで考え、机の上をじっと見やる。
……山のような紙の束、これはこれで見ているとグロッキーになりそうなブツだ。
少なくとも、まだまだ異世界の温泉街を行脚するには遠いらしい……。
真白は息を吐きながらデスクへ再度向かう。
そして礼服の腕をまくると、再び書類仕事を開始するのだった。
……いつか温泉街へ向かいたい。
そして……更にその向こう、有栖が意識を取り戻す日が来たら……。
有栖へと温泉の思い出を沢山語って聞かせてあげよう、笑い話も怒り話も絶句話も、全部全部まとめて……。
真白はそう誓いを立てながら、未だ目覚めない愛しい人へ思いをはせるのだった……。
もはやダム湖でもなければ水浴びすら出来ない有栖とは共に温泉へ入ることはもう出来ないこと、その事を思い出して少しだけ残念に思いながら……。
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