遡ること少し前……。
有栖は炎の中をさまよっていた。
最初はなんとか前に走っていたのだが、少ししたら煙によって方向も分からなくなってきたのだ。
消火器も携行サイズのものではまさしく焼け石に水……。
そんな状況で、有栖は叫ぶ。
「ミラ、どこだ! アンタの母さんに代わって助けに来た! 返事をしろ!」
「だ、だれ……?」
か細い声がかすかに返ってくる……。
有栖はその方向へ下を確認しながら走った。
煙の中を走るのは一筋縄ではいかない……何せ足下や前の確認すら難しいのだ。
なんとかハンカチで口を塞いでいるが、少しずつ息が苦しくなってくる。
不完全燃焼により発生する一酸化炭素は、吸い込むことで血液中のヘモグロビンと結合して酸素の運搬に支障をきたすのだ。
頭が痛い、激しい目眩がする……。
そんな状態で有栖はなおも走ろうとするが……足下がもつれ、倒れ込んでしまった。
その時、彼女の手が柔らかい何かに触れる。
怪我の功名か、どうやら少女ミラを見つけられたらしい……。
彼女の口にハンカチを当て、なんとか起き上がろうとする。
だが……その瞬間、有栖は激しい虚脱感に襲われた。
どうやら血中の一酸化炭素濃度が深刻なレベルに達し始めたらしい。
声も出せないまま、意識が段々朦朧としていく……。
そんな中、有栖は母のこと……三人目の母の言葉を思い出していた。
「有栖、また喧嘩をしてきたのか?」
「……おばさん」
まだ両親が再婚する前、鹿野山のおばさんと幼馴染みの娘である有栖だった頃……。
羅美吊兎叛徒として活動した帰り、よく彼女は有栖を心配してくれた。
父の娘だからなのか、生来の気質なのかは分からないが……。
いつだって彼女は優しかったものだ。
「まったく……そういうのは大人の仕事だ、子供は警察に任せていなさいと何度も言ったが」
「るっせえ……その大人が頼りになんねえんだろ、だからアタイらがやってんじゃねえか」
「正義感は大いに結構、だがそれで自分達が法に反していちゃ世話がないだろう?」
腕を組んで息を吐く鹿野山、その傍らに一人の男がやって来る。
黒服を着た如何にも……といった見た目の社員だ。
御丁寧にも目にはサングラスを付けている。
「社長、宍戸重工の情報が揃いました、やはり暴力団との裏取引が記録にあります、薬物の横流しを行っていると……」
「ご苦労」
「えっ、宍戸って……」
「今回の件、宍戸重工の娘が吾妻工業の娘を脅しているのが原因なのは知っているさ、今回も宍戸の部下が脅しに来たのを倒したんだろう? だがそれじゃ根本的解決にならない、そういう時……大人はこうするんだよ、宍戸重工が裏取引をしているという情報をマル暴に垂れ流せ」
「はっ!」
マル暴、愛知県警刑事部組織犯罪対策課……暴力組織に対して対応を行う組織だ。
そこに対して暴力団との裏取引を明かされた以上、待ち受ける末路は言うまでもないだろう。
有栖が喧嘩をしても解決できなかった脅しの問題……。
鹿野山は裏情報を掴んでリークすることであっさりと解決して見せた。
有栖は思わず「そんなのありかよ」と呟くが……鹿野山はどこ吹く風だ。
「何も自分が罪を犯す必要なんて無いんだ、牙は内に隠し、正義感はクレバーに満たし、影から人を幸せにする……それが大人のやり方でね」
「……」
「古里の為にも、有栖にも牙を隠すやり方を学んで欲しいんだ、どうだろう……私のもとで学んでみないか?」
問いかけながら、鹿野山は有栖に手を差し伸べる。
鹿野山と父が結婚する数週間前。
羅美吊兎叛徒を後継に託して令嬢になる実に一ヶ月ほど前の話だった。
(……走馬灯、か……ちくしょう、わりいな母さん……アタイは、アンタの願うようには……なれなかった……最後まで馬鹿で、無鉄砲で……それで……)
朦朧とする意識の中目を閉じようとする有栖。
だがその手の先に何かを感じる。
鼓動だ、手がミラという少女の胸に触れていたのだ。
まだ彼女の体は生きようとしている。
それを感じ、有栖は閉じようとしていた目を力尽くでこじ開けた。
(……美羅が、生きようとしている……まだ、諦めてない……ならアタイだけ諦めてたまるか……!)
必死で立ち上がり、ミラを抱えると立ち上がる。
目の前に炎が迫るが、それでも消火器を噴射しながら有栖は歯を食いしばった。
負けて溜まるか、負けて溜まるか、負けて溜まるか!
絶対に死なない、絶対に生きて真白のもとへ帰るんだと誓いを立てながら……。
『そう、それでいい』
「……?」
ふと、誰かの声が聞こえた気がした。
気のせいだろうか、また走馬灯か……それか幻聴だろうか。
だが、どこか自分が強くなれる気がする。
そんな優しくて強い……そして懐かしい声だ。
その声を聞きながら、消火器を持つ手に力を込める……。
すると、消火器が輝きだし……山を光が覆った。
どこまでも広がる光が山を覆い、火を消していく……。
火から酸素を奪い鎮火していくのだ。
その光景を見ながら有栖は目を細め、息を力強く吸う。
どうやら血中の一酸化炭素もまた奪われ、消えていったらしい。
これがなんなのかは分からない、最後まで諦めなかったことによる奇跡なのか、はたまたこの世界ゆえの自然現象なのか、もしくは誰かが力を貸したのか……。
それは分からないが、もう心配は無さそうだ……。
あれだけ燃えた以上、ガソリンももう蒸発しきっていることだろう。
ミラを連れて行くとしよう、親のところまで……それから真白の元へ帰るんだ。
そう考えながら、有栖はゆっくり歩き出す。
その顔はどこかすっきりとした達成感……今腕の中で鼓動を鳴らす小さき命を救ったのだという実感に満ちていた。
「窮奇様、あの力は……」
「そうだねえ、あれこそが奪う力、与え動かす力とは逆の力だよ」
その頃、モストロ城では……。
魔術により記録された映像を眺めながら、窮奇が楽しそうに笑っている。
その顔つきは、自分の確信は間違っていなかったのだと言わんばかりだ。
「そんなに嬉しいんですか?」
「そりゃあもう、何もかもが確信通りだからね」
「はあ……」
不思議がる部下を尻目に、窮奇はのんびりと伸びをする。
ネコ科らしく柔らかでしなやかな体を伸ばし、大あくびまでして……。
そして、口を閉じると不敵な笑みを浮かべた。
「ねえ……君もそう思うでしょう? 勇者、古里勇美よ……」
古き友の名を呼び、深くなる笑み。
彼女の呼んだ名は誰にも聞こえず、闇の中へと消えていった。
果たして、この名前を聞いていたら誰か反応したのだろうか?
それは誰にも分からない……。
「……有栖ちゃん!」
「ただいま戻りましたわ、まし……うわっ!」
「バーーッカ! そうやって無茶して、バーカ! バカ! バカ! だけどお疲れ様! この、乙馬鹿!」
「お、お前な……いや、心配かけましたわね、真白……」
抱きついてくる真白を受け止めると頭を撫で、有栖は笑う。
そんな彼女の元へ、先ほど村で出会ったミラの母がやってきた。
……やはり見れば見るほど、二人目の母親にそっくりな人だ。
「ああ、ミラ……! ありがとうございます、本当にありがとうございます!」
「い、いや……アタイはその、いや、私は当然のことをしただけですわ……」
サムズアップをしながら、ミラを渡す有栖。
その目の前で母親はミラのすすまみれになった顔を拭く。
……そしてすすの下から出てきた顔は……。
「……!」
「あれ、あの子……嘘」
「似てる……」
無事で良かった、そう何度も言いながら抱きしめる母親。
一方で彼女の安堵とは裏腹に、穏やかな寝息を立てるミラとも裏腹に……。
有栖と真白は心中穏やかではなかった。
ミラは名前だけでなく……その見た目も死んだ妹、美羅に瓜二つだったのだ。
すすに汚れた顔では気付かなかったが、目鼻立ちから何から何まで妹の面影がある。
「なんなんだ、この世界は……アタイ達に似た奴だけじゃない……妹やその母にそっくりな奴もいる……? なんなんだよ、それ……」
有栖の呟きに、真白は答えられない。
この問いかけに明確な答えを有している人間など果たしているのだろうか?
そう考え、呆然とする二人……。
そんな彼女達のもとへとシャハルとオノスが走ってきた。
「アリスさん! ご無事で良かったです!」
「んっとだよ! このやろー、心配かけやがって! このこの!」
「った! ちょっと、肩パンやめてくださる!? 痛いですわ、いてえ、いてえっつってんだろが!」
空気をぶち壊す二人の行動に、有栖は内心で歓喜する。
何はともあれ……今は無事再会できたことを喜ぼう。
難しいことを考えるのはまた後だ、そうだ、それでいいはず。
そう考えながら、有栖はオノスに一発カウンターを喰らわせるのだった。
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