自分の幸せを諦めるなんて勿体ない。
田村春音の発した言葉は、アレからずっと稲葉厚志の中で渦巻き続けていた。
だが……どれだけ勿体なくとも、やはり周りに迷惑をかけるのは……。
そう考える度に、厚志は自分の中に有る漠然とした欠陥が、大きく、具体的な形になっていくように感じていた。
「あ……どうも、田村さん、白鳩さん、鹿野山さん」
「ん、あっくんおはよ」
「はよ……アンタも朝からキリッとしてるわね」
「ふ……白鳩、お前が夜型すぎるだけだ、また遅くまでマンガでも読んでたんだろう?」
「……部屋掃除中の読書って止まらないじゃない」
そんな朝だが、時間はいつも通りに進んでいく。
市営地下鉄名城線、名古屋大学駅を降りてすぐ……剣道部三人娘と遭遇したところで、そのいつも通り加減は最大になった。
オカ研の二人はバスと自転車なので不在だが……和気あいあいと会話しながら学校へ向かう時間は、悩みも忘れさせてくれる良いものだ。
「はは、カズくんもよくそう言ってますよ、この間家へ掃除の手伝いに行ったときなんてキレたトモくんが無理矢理ひっ叩いて掃除に戻らせてました」
「ふーん、カズくんってバイクショップ経営志望でしょ? なのに片付けできないなんて難儀だねえ……」
オカ研の残り二人、カズくんこと和哉はバイクショップ経営のため経済学部に通っている。
トモくんこと知己は工学部で豊橋市にある実家の町工場に役立てようと機械工学技術を勉強中の身だ。
和哉の自宅も知己の下宿先も共に熱田区に有り、厚志の家とも距離が近いことから、互いによく遊びに行くらしい。
「そういえばあっくんって男子は皆あだ名で呼ぶわよね」
「ええ、家柄で距離を取られることも多いので、積極的にフレンドリーさを示してたといいますか……まあそんな感じです」
「じゃああたし達もあだ名で呼んだら? 田村もそう言いたいんでしょ?」
あだ名で呼んだら?
白鳩にそう言われて、厚志は考え込む。
真理子はあだ名を嫌がるタイプなので、女子は男子にあだ名で呼ばれたくないのだと解釈していたのだ。
しかし、春音や白鳩は特に構わないらしい。
「私は断固拒否する」
「あー、主将は女子同士でもこうだから気にしないで」
真理子は子供の頃からあだ名で呼ばれることを断固として拒否している。
別に特別なスタンス云々とかそういうものではない、単純に嫌なのだ。
恥ずかしいとかでもなく、普通に名前で呼べば良いだろうと煩わしく感じる。
ただそれだけ……らしい。
(なんて言って……本当は小中で変なあだ名付けられたとかだったりして)
「何か言ったか、田村?」
「い、いえ何も!」
神がかり的なカンの良さを発揮する真理子に、春音は焦って首を左右に振る。
何はともあれ……真理子以外の二人はあだ名も特に気にしないようだ。
ならば何かあだ名を付けるのも良いだろう。
「じゃあ……少し考えておきますね」
「うん、とびきり斬新なのお願いね!」
とびきり斬新、どうやら春音は似合うあだ名かどうかよりも斬新さの方が大事らしい。
厚志はそう察して苦笑しながら、じゃあどんなあだ名を付けようか……と考えるのだった。
……しかし、斬新なの……と言われるとどうも迷ってしまう。
斬新とは、何を以てして斬新なのか?
あまりに斬新すぎてもそれはそれで失礼なものにならないか?
そんな疑問に取り憑かれたまま、時は緩やかに過ぎていった。
「そういうところも含めて……あっくんらしいと思うよ」
「らしい……ですか?」
「うん、誰かのために〜って考えて悩んでくれるところ、だって大概の人は自分が楽したいってとっとと適当に決めちゃうでしょ?」
ある日、本山のフライドチキン店で夕食をしていた時。
思い切ってあだ名に悩んでいることを話した厚志に、真理子は「厚志らしい」と言って笑った。
誰かのためにと頭を悩ませ、決して自分のためにと逃げたりしない……その姿こそが厚志らしいと真理子は考えているのだ。
「僕らしい……ですか」
「うん、あ……嫌だった?」
「いえ……全然嫌じゃないですよ、ただ……」
ただ、そこまで言って厚志はチキンカツサンドを頬張る。
真理子はいつもマヨネーズ抜きだそうで、その真似をしてみたが……うん、確かにこれも美味しい。
混じりっけ無しの和風味噌だれがより強調されて、パンズにもキャベツにも衣にもよく染みこんでいる。
たまには自分らしくないことをしてみるのも良いものだ。
心なしか、二階席の窓から見えるいつもの道路も少し違って見える。
そこまで考えて……厚志はじっと春音を見つめた。
「ん? やだ、もしかしてチキンのかけらでもついてる?」
「いえ……そうじゃないんです、なんというか……僕と全然違う田村さんなら、僕の話を笑わずに聞いてくれるかなって」
厚志はそこまで言い、静かに息を吐く。
迷惑ではないだろうか、重荷になってしまわないだろうか。
そんな事をただただ考えてしまうのだ。
「大丈夫大丈夫、どんと話してご覧なさい! 私、包容力ってのは有るつもりだから!」
「ははは……じゃあお言葉に甘えて、以前田村さんに言われた勿体ないって話を思い出してたんです、ここのところ」
「ああ……皆の幸せのために自分の幸せを諦めるなんて勿体ないって話? まあ事実として勿体ないんだもん、あっくんがなんで諦めないといけないのよ」
自分のために勿体ないと言い、怒ってくれる春音……。
彼女を見ながら、厚志は優しい笑顔を浮かべる。
きっと、春音の優しさを感じているからついついこんな笑みが溢れ出すのだろう。
「僕は……どうも自分を大切に思えないんですよ」
「ん? そうなの?」
「ええ、どうしても我が身のために何かをする、という気持ちになれなくて、小さい頃から父親にいずれ組のためと育てられたからか、それとも元よりの性質なのか……」
厚志の言葉を聞き、春音はうんうんと頷く。
きっと彼の言葉を自分の中で反芻しているのだろう。
少しの間そうして考え込んだ後……春音はポテトを一本頬張った。
「つまり……あっくんは自分のことを愛することが出来ないのね」
「愛することが……そうですね、確かにそうなのかもしれない」
「きっとそれは、元々の性質も有るのかもしれないけど……でも、一番はやっぱり生い立ちを周りに揶揄されてきたから……なのかもね」
「そうですね、それに……組の大人は僕に優しいですが、結局見ているのは後ろにいる父でしたから」
厚志のことを、周りの人間はいつだってヤクザの息子と揶揄してきた。
今の友達のようにこちらからフレンドリーに、傷つけなどしない人間だと示していけば態度が軟化する者もいたが……。
それでも、見方が変わらない人間はいた、そういう人間は決まって……聞こえよがしに悪態をつく。
怖い、近寄ってはいけない、何を考えているか分からない。
そんな言葉がどれだけ厚志の心を傷つけ、自尊心を折ってきたことだろうか?
厚志の中に有る己を愛せない、己に価値を抱かない部分は決して彼一人が築き上げたものではないのだ。
「だから……自分を愛せない代わりに、あなたの愛は人に向かうようになっていったのかもね、でも……出来ればやっぱり、自分を大事にして欲しいかな、じゃないと……あなたの愛してる人が哀しむと思うから」
「僕が傷付いたり死んだりしたら、ですか……ですが、僕の代わりなんていくらでもいますよ、そういう人に出会えれば哀しみもいずれは癒えて……むぐっ」
言葉の途中で口に何かが詰め込まれる。
フライドチキン、1ピースだ。
詰め込んだ当人の春音は顔を赤くしながら目をそらし……息を吐く。
「ほんとに、哀しみを乗り越えられるなんて思う? オカ研の皆も、主将と先輩も、そして私も……あっくんのこと、好きだよ? きっとさ……好きな友達が死んだりすれば、その苦しみはずっと忘れられないと思うな」
春音はそこまで言うと、食べ終えたトレーを抱えて席を立つ。
赤い顔のまま……照れ臭そうに「また明日ね!」と言って……。
その後ろ姿を見ながら、厚志はチキンと……自分の中の気持ちを咀嚼する。
だが、胸の中に有るしこりはチキンの骨のように咀嚼しきれなかった。
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