稲葉真白は退屈していた。
自分を取り巻く全てに、この世のありとあらゆる存在に。
稲葉真白はヤクザの一人娘、組長の孫娘で若頭の娘。
それ故に大事にされてきたが、それ故に誰もが彼女をそうとしか扱わない。
自分は組長の孫だから大事にされる、自分は組長の孫だから嫌われる。
良いことをしても悪いことをしても、その評価に真白個人の価値は存在しない。
一般家庭であれば天才児と呼ばれていたであろう頭脳を発揮しても、それを正当に評価されることはただ一度も無かった。
一般児童では保育士に尻を叩かれるようなイタズラをしても、それで怒られることもまた然り。
全ては親のおかげで自分の努力は認められない、全ては親のせいで自分のイタズラ心は闇に消えていく。
それに気付いたとき……真白の世界は幼稚園児にして急速に色あせた。
どんな評価を受けてもそれは親のおかげ、もしくは親のせい。
ならば自分はなんなのか?
それが全く分からなくなってしまったのだ。
そんな日々の中、真白は虚無感を抱き生きていた。
「やーい、無表情女!」
「お前の父ちゃんやーくざー!」
「なんか言ってみろよ!」
幼稚園では、どうしても送迎バスの関係上家柄が周りに知られてしまう。
その関係で周囲にはいじめられていたが、虚無ならば無敵。
虚無感を抱くことは防衛策であり苦ではなかった。
虚無でいれば良いも悪いもない、何も辛く無い。
虚無でいることは救い、虚無でいることは力。
聡い真白はそう考えて生きていた。
何も望まなければ何も得ないが、何も失うこともない。
何も手に持たない人生はきっと楽だ。
だが……彼女は得てしまった。
「こら、やめなさい!」
「なんだお前! 転園してきたばかりのよそ者のくせに、逆らうつもりか!」
「よそ者とか関係ないでしょ、いけないことはしちゃいけないんだよ!」
よそ者、そう言われた少女は突如真白を庇った。
どうせ彼女も親の関係者なのだろう。
真白はそう考えて無関心を貫いていた。
だが……。
「コイツの親はヤクザなんだぞ!」
「そうなの? だから何?」
「は……? コイツは悪いことで得た金で生きてるんだぞ、お父さんだってそう言ってた!」
「それはこの子の罪じゃないでしょ!」
「……」
初めての経験だった、彼女は親の罪を子と切り離して考え、真白には何の罪もないと言いきったのだ。
あまりに新鮮でそしてときめく言葉……。
真白は気付けば、彼女に心惹かれかけていた。
半信半疑、未知への不安……そんな気持ちの中で。
「ほら、一緒にあっちであそぼ」
「でも……」
「こら、あなた達何してるの!」
いじめの現場へと遅れて保育士がやって来る。
彼らは子供達を睨み……そして、真白を見てハッとなった。
そして真白に手を伸ばす少女を引っ張ろうとする。
「こ、こら……! その子とは遊んじゃ駄目なのよ!」
保育士の言葉に、真白は目を細めた。
ああまたこれだ、どうせ大人の言うことには逆らえない。
だからまた一人になる、でもどうでもいいや。
そう考えて真白は目を逸らす。
だが……。
「なんで?」
「なんでって、その子の家は……」
「家がどうとか関係ない、私この子と遊びたいの! 悪い大人の言うことは聞かない! ほら行こう!」
「う、うん……」
少女に連れられ、真白は歩いて行く。
もう保育士も止めることはできない。
少女はとても強い女の子だった、虚無に逃げる真白よりもずっと。
それを理解して、真白は彼女に興味を抱く。
何故彼女はここまで強いんだろうか。
「あなた……すごいね、普通は大人に言われたら、それで退くのに」
「おとーさんとおかーさんがよく言ってるんだ、間違ってるならおとーさんやおかーさんの意見でも否定していいって、だから悪い大人には従わないの!」
「そっか……そういう考えができるんだ、凄い……」
件の悪い大人に育てられ生きている自分にはできない生き方。
それを成している彼女はとても眩しく思える。
だから……真白は彼女に強く惹かれた。
強く強くときめきを感じ、不思議な気持ちに心を躍らせ……。
「あの……あなた、おなまえは?」
「私は……古里有栖!」
古里有栖、その名前を胸に刻み込んだ。
これが後に羅美吊兎叛徒の双翼と呼ばれる二人の出会い。
そして……真白という女が壊れたきっかけの一つだった。
……数ヶ月後。
人生初めての友情は真白をすっかり明るくした。
見違えるほど笑うようになった彼女は、女子の友人も増え……有栖と過ごしながら、他の子供ともそれなりに話すようになっていく。
だが当然、いじめっ子にはそれが楽しくない。
……彼らは何故こうなったのか考えた。
真白を変えたのは確実に有栖だ。
だからだろう、ある日のことだ……。
「ったあ……!」
「どうしたの!?」
教室に響く叫び声、見れば有栖が頭から血を流して泣いている。
慌てて保育士が駆けつけて事情を問いかけると、有栖は一人の園児を指さした。
依然真白をいじめた男子のリーダー格だ。
彼はどうやら自分に刃向かったうえに女子の中でリーダー格として頭角を現していく有栖が気に入らなくて突き飛ばしてしまったらしい。
真白は怒りのあまり何も出来なかった、ただわなわなと震えているだけだ。
こんな理不尽な理由で人を傷つけて良いのか、そう感じずにいられない。
きっと保育士もそう考えているはずだ、そう思ったのだが……。
「分かったわ、じゃあちゃんとごめんなさいしましょうね、有栖ちゃんもそれで……」
彼女の口から出たのは、事なかれ主義としか言いようがない言葉だった。
有栖もキョトンとし、何が何だか分からない様子だ。
この女は本当にそれでいいと、それが許されると思っているのだろうか?
そう考えながら真白は口をパクパクさせる。
そして、怒りのあまり机を叩いた。
「どうして! 有栖ちゃんに怪我をさせたんだから、ちゃんとしたとこに言うべきでしょ! ねえ!」
「!? ま、真白ちゃん落ち着いて、ねっ?」
「落ち着けるわけない! なんで、ねえ! なんで!?」
真白の問いかけに保育士は「落ち着いて」と繰り返すばかりだ。
真白は結局その場から退席させられ、いじめっ子の罪はなあなあになり……。
これで終わりかと思われた。
だが……それでも真白は納得できなかった。
これが彼女が壊れた理由の二つ目だ。
「……おい」
「ハッ!」
「私と同じクラスの竹中という小僧を攫え、そして分からせてやれ……その身を以てしてな」
生まれて初めて、自らの意思で権力を使用した瞬間。
それは怒りのままに同じクラスの男子へ制裁を加えるためだった。
勿論、その命令に部下はただ戸惑っている。
「で、ですがお嬢……相手は子供……」
「従えないのか? ならば祖父様に告げ、その首が飛ぶぞ……反社会組織の人間がカタギになって何ができる? 今までお前は何をしてきた、偽善者め……ガキには何も出来ない? 善人ぶる程度ならいつものように他者を傷つけ我が身を守ればいいだろう?」
「う、ぐ……わ、分かりました……」
後に分かったところによると、命じられた部下はちょうど幼稚園児の子供がいたらしい。
だが反社会組織の人間がカタギに戻れば罪歴が足を引っ張り、家族に大きな迷惑をかけると分かっているため何も言えず……。
彼はいじめっ子を攫い、数名の部下と共にリンチしたのだ。
真白はズタボロになったいじめっ子を無言で写真に撮影する。
そして彼が自宅の前に解放された後、彼の写真をプリントし……。
翌日。
勤務態度をアピールすべく朝一番で出勤した保育士は自分の机を見て愕然とした。
そこには、リンチされてズタボロになった子供の写真と共に新聞や雑誌の切り貼りで書かれた文章が置かれていたのだ。
『天は罪を見逃さず、裁きはここに下された、天網恢々疎にして漏らさず、お前もまた見られている』
その文章を震えながら読む保育士。
その後ろでがらり、と音がした。
誰かが職員室に入ってきたのだ。
「おはようございます、先生……早いんですね、良いんですか? こんな誰もいない時間に来て、もしかしたら死んじゃうかも……」
笑顔のまま問いかける真白。
そんな彼女に保育士は震え上がる。
だが真白は笑顔を崩さなかった。
冷たく、能面のような張り付いた笑顔を……。
「ぎゃああああああああ!!!!」
響き渡る叫び声、その声に何事かと近所の人間が駆けつけるが……。
しかし、保育士が一人震えているだけで周りには誰もいなかった。
夢なのか、そう思う中真白が幼稚園バスで通園してくる。
その時彼女が保育士へチラッと見せた笑顔、それは紛れもなく……。
翌日。
朝の集会において、いじめっ子が転園したことと保育士の依願退職が告げられた。
多くの園児は突然の別れを惜しみ、泣いたり呆気にとられたりしている。
そんな中、一人笑顔の園児がいたという……。
その園児は、急にいなくなったいじめっ子に「いなくなったら怒れないじゃないか」と涙を流す有栖を後ろから抱きしめ、こう言った。
「大丈夫、もう怒る必要もないんだよ」
と……静かに優しく……。
どこまでも嬉しそうな声で囁いた。
その時の彼女……真白の顔は、場違いなくらいにこやかだったという。
……この時、彼女の中には静かな充足感が渦巻いていた。
(……本当は殺しても良かったんだよね、だって有栖ちゃんを傷つけたクズ共だし……有栖ちゃん以外が何人死んでも心なんて痛まないもの、でも……殺しちゃえば奴らはもう苦しまないもんね、罪人はいっぱい苦しめなきゃ……じゃなきゃ顔を楽しむこともできない、あははっ)
友情という正義のために力を振るう喜び、そうして力を振るわれ苦悶の表情を浮かべる者を見る快感……そして……恋に狂う恍惚。
稲葉真白という女は、古里有栖との出会いに端を発する一連の出来事を経て……確実に壊れてしまったのだ。
だが彼女はきっと、そう言われても笑顔でいるのだろう。
そしてこう言うのだ「有栖ちゃんの為なら私はどれだけ壊れても良いよ」と。
彼女は壊れている、彼女は狂っている、だがしかし……彼女はとても幸せだった。
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