父はすっかり気を許しているが、筒本という女が有栖は気に入らなかった。
香水臭くて、化粧が厚くて……いかにも遊んでいそうな女。
だが父曰くとても親切な人で良くしてくれるらしい。
そういう事情もあって、有栖は半信半疑といった様子で彼女を見ていたが……対照的に、彼女が連れていた女の子、美羅とは仲が良かった。
「おねーちゃん、あそぼ!」
「ああ、いいよ、一緒に行こうか」
二つ下の幼稚園児である美羅は、有栖に実によく懐いてくれたのだ。
有栖も純粋に自分に懐く者を無碍にするほど警戒心が強いわけではない。
下心を一切感じない子供というのは本当に可愛らしいものだ。
そう考えながら有栖は彼女を愛でていた。
もしかしたら、父の再婚を止められない無力への逃避も有ったのかもしれないが……。
何はともあれ遊び仲間は真白だけではなく美羅も含めた三人になり、彼らは楽しく遊び歩いた。
その時間はとても幸せで、ようやく悲しい時間が過ぎ去ったような気がしていた。
しかし……そんなに都合のいい話、有るわけがなかったのだ。
再婚から一週間、父が妙にやつれだしたのを有栖はよく覚えている。
「お父さん、頬腫れてるよ、どうしたの?」
「……ああ、その……なんでもないんだ」
有栖の問いかけに、父は一瞬筒本を見た後目を逸らした。
その視線を見て、有栖は全てを察した……筒本が何か悪いことをしている、と。
だが父は何かしらの理由で言えないらしい、それも察した彼女はある日筒本をこっそり追跡した。
そして……彼女は見たのだ、とある男と筒本が密会している姿を。
「おい、あの男からどれだけ巻き上げた?」
「ふふ、アンタの名前と組の名前を出せばもう殆ど素寒貧よ、アイツホントちょろいもん」
「へへ、人の女に手を出したから当然の末路だよなあ、他人の不幸は蜜の味って奴だ、笑えてくるぜ」
二人の会話は有栖にとって衝撃的だった。
思わず殴りかかろうとするほどに。
だが……その瞬間、有栖は口を塞がれて連れて行かれる。
そのまま路地裏に入り……そこで拘束が解かれるが、口を塞いでいたのは真白だった。
「何するんだよ!」
「静かに、あの二人……悪名高い筒本夫妻だよ、ああもう……もっと知るのが早ければ……」
「知ってるの……?」
「お父さんがあの女と歩いてるの見て、私も調べたんだよね……顔に覚えがあったから、そしたら組のブラックリストにドンピシャリ、悪質な美人局……ええっと、ようはカップルの片方が異性に迫って、後からよくもうちの女に手を出したな、って金をせびる詐欺の常習犯だよ」
真白はそう言うと、静かに息を吐いた。
どうやら彼らは別の組に所属している人間らしく迂闊に手を出せないという。
また、恐喝事件で警察に駆け込めばそれもまた組を上げての報復に繋がりかねないため、父は有栖の身を案じてそれができないらしい。
有栖は血の気が引くのを感じた。
自分の存在が父を縛っている、自分が事態に対処できなくしている。
そう感じて自責の念に捕らわれたのだ。
「有栖ちゃん、悪いのは悪いことをする奴だよ、人の弱みにつけ込むサイッテーのけだもの、生きてる価値のないゴミクズ……いや、ゴミですら自ら他人に迷惑なんてかけないしゴミ未満か、とにかくそういう連中が悪い」
「……その悪い連中に、私達は手をこまねくしかないの……?」
「……今はそうだね、なんとか突破口を探してみるから、今はまだ……」
真白の言葉に、有栖は肩を落とす。
そこから有栖の辛い日々がまた始まった。
憎しみを堪えながら憎い女の作った料理を食べる日々。
それは本当に辛く苦しかった。
味なんて何も感じなくなるくらいのストレス……。
そんな中、美羅の存在は家における唯一の救いだった。
彼女の純粋さに触れている間だけは、何も苛立たずに済む……。
そう考えていた……。
そんなある日のことだ。
雪が降ったとある日……有栖はとうとう爆発した。
有栖の家にはガレージがあり、そこにバイクが置いてある。
その一台……母の形見であるアスペンケードに筒本が触れた。
どうやら、売れば幾らになるかと考えているらしい。
確かにこういった骨董品は、レトロフリークの人間なら大枚はたいて購入することだろう。
だが……そんな彼女の手に突如痛みが走った。
「っ……!」
「汚い手でお母さんのバイクに触れるな、この淫売!」
「てめぇ……!」
「知ってるんだ、お前が金目当てでお父さんに近付いて脅してることくらい! そんなお前の汚らわしい手でお母さんのバイクに触れることは私が許さない!」
レンチを構えて凄む有栖。
だが子供と大人では射程が違う。
有栖は筒本にビンタで攻撃され、反撃にはなった二発目は届かなかった。
しかしそれでも有栖は筒本を睨み続ける。
「いつか殺してやる、いつか、いつか、いつかいつかいつかいつかいつか!!!!!!」
「ひっ……!」
目を血走らせて叫ぶ有栖に、筒本は思わず恐れおののいた。
この子娘は何をするか分からない、そんな凄みを感じる。
もしかしたらこの家も潮時なのでは……そう考えながら筒本は逃げだし……。
有栖は苛立ちをぶつけるように、ガレージの床へレンチを投げつけた。
父に知られていない、秘密の戦い……。
しかし、それを知る者が一人居た。
誰にも気付かれないガレージの小さな影……。
その主は、ただただショックを受けていた。
……翌日。
「雪もやんだか……お父さん、学校行ってくるね」
「ああ、行ってらっしゃい」
「……あれ、美羅は?」
「もう彼女が幼稚園に連れて行ったよ」
翌朝、思えばその瞬間から異変は起きていた。
いつもは美羅を幼稚園に送ったりなどしないのに、筒本は彼女を連れて行ったという。
その事に違和感を覚えながらも「クズも少しは人らしいことをするのかな」と家を出る有栖。
そんな中、彼女はふと玄関に小さな雪だるまがある事に気付いた。
子供くらいのサイズをした小ぶりなものだ。
美羅が作ったのだろうか、そう考えながら有栖は学校へ向かった。
……この時に気付いていれば何か変わったのだろうか、それは分からない。
何はともあれ有栖はいつも通りに授業を楽しみ、帰宅した。
その日の帰り道は珍しく真白も一緒だ。
いつもは家の方向が違うから別々なのだが……有栖の頬に傷があるのが気になって、どうしても送りたいらしい。
そんな真白を「過保護だなあ」と笑いながら有栖は家に帰り……。
そして玄関口で別れようとしたところ、真白が「あっ」と口を開いた。
そして……ゆっくりと雪だるまを指さす。
昼の日差しを浴びて溶け出した雪だるま……。
それをよく見た瞬間の記憶を有栖は忘れられない。
一生癒えないであろうトラウマだ。
「……嘘」
呟きながら、有栖は雪だるまの端っこを見る。
そこからは、小さな手が飛び出ていた。
恐る恐る雪だるまを解体すると、血色の悪いからだが出てきて……すぐに、その小さな全貌が明らかになっていく。
ただの雪だるまだと思っていたもの、それは……雪だるまに詰められた小さな妹、美羅だった。
「……嘘だ、嘘だ、なんで!? 美羅! なあ美羅! 嘘だろう! なあ!」
「……有栖ちゃん! 寝かせてあげなよ……」
「……だって、だって真白、昨日まで笑ってたんだぞ!? こんな唐突に、そんな……嘘だ!」
「現実だよ、死は現実なんだよ」
諭しながら真白は美羅の目を閉じさせる。
その時……道路にへたり込む音が聞こえた。
見ると、そこでは筒本が呆然としている。
「こんなつもりじゃなかった……わ、私は美羅のために犯罪をしてまで稼いだのに、偉そうに私を怒るから、カッとなって殴ったら……転んで、頭を打って……こんなつもりじゃなかった!」
美羅のため、そんなのは言い訳だ。
本当に美羅のためなら指摘されて逆ギレなどしなかったはず、殴ったりなどしなかったはず。
こんなはずじゃなかった、そんなのはただの想像力不足だ。
大人の力で子供を殴ればどうなるかなんてすぐ分かって然るべきだ、そんなのは有栖だって分かる。
それができないのは単純に精神の欠陥だろう。
人を殺して死体遺棄までして、それで出てくるのがくだらない言い訳。
頭が痛くなるほどの憤りを言葉にできず、有栖はただ震える。
そんな中……真白は冷静に携帯を取りだした。
「……ああ、警察さん、今の声届いてましたよね? すいませんいきなりで、今家に殺人犯がいるのですぐ来て下さい、住所は……」
どうやら、筒本を見た瞬間警察に電話をかけたらしい。
それに気付いた筒本は顔を青くして走り出す。
その背中に向け、有栖は叫んだ。
「逃げるな、逃げるな卑怯者! 逃げるなああああああ!!!!」
「すいません、殺人犯が2丁目方向に逃げました! 今特徴をお話しします、見た目は……」
有栖の叫びもむなしく、筒本はどんどん見えなくなっていく……。
降り出した雪が視界を遮ってしまったのだ。
そんな中、有栖は唇を噛みしめるしかできず……。
同時に真白は呟いた。
「大丈夫……これで終わりになんてしないから」
不適に呟き、真白は腕を組む。
その心中には自分の大事な人が愛する存在を奪い、自分の大事な人を傷つけた女への明らかな敵意が満ちていた。
真白の強い殺意を感じ、有栖は慄くが……真白はただ「大丈夫」と微笑むのだった。
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