オノスが少し前を向いて生きようと誓って、数年。
しかし自分が前を向いたところで吹き付ける風の種類が変わるわけではない。
風への向き合い方が変わろうとも、その風が突風であれば人一人などか弱い枝も同然だ。
所詮なんの後ろ盾もない一人ぼっちのオノスが前向きになったところで現状は何も変化しない。
孤独は腹を満たさない、ただ心中の虚無を満たすだけ。
痛みは成果を与えない、ただ体への負担を増やすだけだ。
「パーニス……また会いたいな」
再開の日を夢見、それだけを心の支えに生きている。
だがその日はいつなのだろう、明日か明後日か。
まだ見えぬ明日は全く分からない、完全なる未知というのは希望であり絶望。
明日という日の不明瞭さを希望に変えるには、今のオノスは弱っていた。
そもそも不明瞭なのは明日だけではない。
パーニスの心中……ようは自分のことをちゃんと覚えてくれているのかすら謎だ。
本当に明日には希望があるのか、明後日には風がやむのか?
何一つ見えない明日にオノスは息を吐く。
それでも下水道を出て地上へ向かうが……。
そんな中、ふとオノスは外の異常に気付いた。
何やら焦げ臭いのだ、あの日……家が焼かれた日感じた嫌な臭い……それと同じ。
「……?」
「俺じゃない! 俺じゃないんだ!」
騒ぐ声も聞こえる。
その方を見ると……そこには焼けたパン屋と、その前で騒ぐ男がいた。
どうやら放火事件が起き、男が捕まったようだ。
関係ない話だが巻き込まれても困る。
オノスは彼らに背を向け、今日は諦めて下水道に戻ろうとした。
だが……。
「お前じゃなきゃ誰がやったんだ!」
「そ、それは……アイツだ! あのペクス人の浮浪者だ!」
「えっ……?」
男の言葉に、オノスへと視線が集中する。
ここで自分に振られるなど、予想外だったのだ。
当然これは濡れ衣でしかない。
だがざわめきが生まれる……。
オノスがパン屋の店主に金貨を奪われたことは、実のところみんな知っている。
パン屋の店主はまるで武勇伝のようにそれを語るクズだったからだ。
そしてオノスがパン屋をよく見ていたのも知っている。
パーニスにパンを貰って以来、オノスはパンの温もりが忘れられずによくパン屋を見ていたのだ。
だがその心中はオノスしか知らない。
つまり……今オノスは動機と疑いだけ有るが無実の証拠はないような状態だ。
「ち、ちが……」
「コイツがあのクズに何をされたか知ってるだろ! ずっと見てたのも、放火の下準備だ!」
「そ、そんな……」
「そいつをブタ箱に放り込め! じゃなきゃ、俺達は全員恨まれてるから殺されるぞ!」
男の煽動により、周囲の人間がにじり寄る。
ただただ怖かった……恐怖に震えながらオノスは息を呑む。
そこからは無我夢中で、オノスは反射的に町民の一人……先ほどの濡れ衣を着せてきた男にタックルを行う。
それが仇となった。
「あっ……」
「ぐげっ……!」
ぶつかられた男は、転倒して頭を勢い良く打った。
その際……当たり所が悪かったのだろう。
男は目を見開いて昏倒し、頭部から血が溢れ出す。
下水路がある事から分かるとおり、この街は石造り。
そんな場所で転倒し、後頭部を強打したのだ……となればただでは済むまい。
「あ、ああ……!」
「追え、追いかけろ!」
震える声を上げて逃げ出すオノス。
その背を町民は追う。
今はただ逃げるしかない。
こんな状況で潔白の証明など不可能だ。
だが……逃げ出すにしても、家族の形見である家紋の入った白い布だけは持っていきたい。
あれは自分以外に唯一のトレンマ家がこの世に有った証しなのだ。
なくしては、トレンマ家の痕跡が完全に消えてしまう……それだけは嫌だった。
「あった……!」
オノスは水路の寝床で布を手に取り、そのまま追ってきた者達を掻い潜って走るが……。
水路を出て川沿いに出たところで、誰かが布を掴む。
逃げようとしている以上そうするのが当然だが……そうなれば、オノスは勿論嫌がる。
「やめろ、離せ!」
声を荒らげて、普段人前では見せなかった素の口調で叫ぶオノス。
そのまま彼女は、何とか力を尽くして布を離させようと引っ張る。
だが……ずっと布団代わりにしていた布は、二人の引っ張る力に耐えきれず悲鳴を上げ……。
そして、無残に千切れた。
「あっ……!」
声を上げながら、バランスを崩して川へ落ちるオノス。
泳ぎの経験など殆ど無い彼女は必死でもがくが、手を伸ばす者はいない。
みな恐れているのだ、放火犯が言っていたオノスが復讐する可能性というものを。
だから見捨てた、自己保身のために……このまま溺れ死んで欲しいと。
そんな彼らを恨めしそうに見ながら、オノスは川に流されていく。
目に、口に、鼻に、様々な場所に水が入り込み必死でもがき苦しみ続ける。
そんな中でも、家紋の切れ端は何とか握り続けていた。
流れの速い川を無我夢中でもがき続け……どれだけ経っただろうか。
最早これまでと思った時、オノスの手は何か硬いものにひっかかった。
「はあ、はあ……!」
どうやら橋脚に捕まったらしい。
頭をふるって水を飛ばし、なんとか目を開く。
そして川岸まで必死で泳ぐと、そのままよろめき大量の水を嘔吐した。
「うえっ……おぷっ、はあ、はあ……!!!」
川の水で顔を洗い、少し歩く。
吐瀉物の臭いを感じないくらい歩くと、オノスはそこで横になり空を見上げた。
暮らしていた街の辺りは曇っていたが……今は大分明るい。
日差しが冷えた体を温めてくれる、そう感じながらオノスは布の切れ端を見つめる。
布は大分切れてしまった、白一色でもう家紋など全く残っていない……。
布団代わりにできるくらい大きかったはずなのに、最早マフラーのようなサイズだ。
悔しかった、トレンマ家の存在した痕跡はもう自分しかないという事実が。
どうせ布の残りはもう処分されたに決まっている。
川を上って行く体力も今は無い……。
そもそも戻れば今度こそ、リンチを受けて死ぬのだろう。
大きな袋に詰められ、袋だたきにされ……。
それだけは嫌だ。
そんな死に方は絶対に認めない。
だが……もう虐げられながら生きるのも嫌だった。
こんな生き方、認めない。
こんな甲斐のない人生など認めてなるものか。
「……父は、どれだけ苦しくとも犯罪だけはしてはいけないと言った、被差別民族から貴族まで上り詰めた我が家の誇りを捨てていけないと、善を抱き悪と同類になってはいけないと……だが、その教えを守った結果が何だ? この有様だ……オレは、オレはもう耐えきれない……捨ててやる、中身のない教えなど、精神論など……父よ……オレは大人になったんだ……!」
まるで血を吐くような言葉と共にオノスは寝転がったまま地面を殴る。
そして……疲れた体を癒やすように目を閉じ、静かに寝息を立て始めた。
今は少しでも幸せな夢を見て、体を癒やそう……。
それからのことは、その後考える。
だがもう罪を犯すことを恐れたりなどしない。
何が誇りだ、何が善だ、それで腹が満ちるものか。
こんなにも怨念に満ちた意思の中で安らぐ夢など見られるのかは分からない。
だが……少なくとも、寝ないことには動くことすらできなかった。
(確かこの辺りには、密輸組織がいたはずだ……それに掛け合うのも良いかもしれないな……その為には何か、良いものを盗まないと……良いものを……)
まどろみの中、これからどうするかをゆっくりと考える。
こうして……浮浪者オノスは、盗人オノスに生まれ変わった。
この変化が良いことなのか、悪いことなのかは分からない。
虐げられ続ける人生が良いとは決して言わないが、虐げる側にまわるのはいいのだろうか?
……それを決めるのは今後なのだろう。
今後どうなるか、今後何をするか、全てはそれ次第……。
その先に生が待つのか、死が待つのかもまた……。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!