厚志達オカルト研究会トリオと仲良くなり、6人でよく遊ぶようになってから数か月。
春音はある日、大学の廊下を一人で歩いていた。
時間は既に放課後……いや、それどころか部活も終わった夕暮れ時の時間帯で生徒の姿はまばら。
「はー、まさかケータイを忘れるとは」
どうやら、忘れ物を取りに来ていた為こんな時間に残っているらしい。
当然と言っては何なのだが……何コマ目に忘れたかすら忘れており、講義や部活で巡った場所を探し回っていたらすっかりこの時間だ。
……気付いたのが地下鉄で自宅のある星ヶ丘まで帰った後というのも大きいかもしれない。
三越で買い食いをしている最中に気付いたのは我ながら抜けている……。
(方向感覚とかはしっかりしてるんだけどな……まあ、そういうところに抜けた面が出なかっただけよし、としておこうかな)
そんな事を考えながら、春音はあくびをして息を吐く。
その時……ふと、近くの研究室から声が聞こえてきた。
ここは確か……法学部の研究室の筈だ。
法学部と言えば厚志、もしかすると彼がいるのだろうか……。
そんなささやかな期待をしつつ、春音はドアを少し開いて中を覗く。
そこには期待通り、厚志がいた。
だが……中にいる厚志と教授は深刻そうな顔で相談をしている。
「稲葉、考え直すつもりはないのか?」
「ええ……仕方の無いことだと受け入れようと思います」
「だがな……お前は法学部の主席だ、お前なら最短コースでの司法試験突破も夢じゃないんだぞ?」
最短コースでの司法試験突破……そう聞いて春音は息を呑む。
法学部受験という狭き門を超え、その先で勉強を重ねても課題はそこで終わりではない。
そこから司法試験を突破し、望む法曹関係の仕事に就くためには更なる苦難の道が待つ……。
(……法曹関係っていうと、裁判とかしてるイメージだよね……へえ、あっくんはそういう仕事にも就けるってお墨付きなんだ……)
世間的に法曹関係と言えば、弁護士、検事、裁判官の法曹三者が思い浮かぶだろう。
だが、法学部で勉強をしたからとて必ずやその仕事に就けるわけではない、だからこそ司法浪人なんて言葉もあるのだ。
そんな世界に狭き門を開いて入っていけるとお墨付きをもらえる……。
それはどれだけ恵まれた才覚なのだろうか?
きっと……春音には想像もつかないほど素晴らしい力なのだろう。
「自分が他の人に無いものを持っている、そう言っていただけるのは……素直に嬉しく思います」
「それでも……決意は固いか、そういう目をしているな、お前は」
「はい、僕は……確かに弁護士を目指したいです、本当は父に言われて組のために法を学ぶのではなく、法の知識で誰かを救うことがしたいです」
いつだって思ってきた。
自分の力で誰かを救い、その事を感謝されるというのはどんなに幸せな生き方なのだろうと。
誰かに感謝をされながら、それをささやかな喜びにして生きていくのだ。
もちろん、弁護士というのはいつだって感謝される生き方ではない。
殺人容疑で弁護された人間を奇跡的に無罪にしたとしよう、その判決に納得のいかなかった被害者遺族から憎まれることだってあり得るのだ。
もちろん刑事事件の有罪確率は99パーセントにも及ぶため、無罪が取れないこともある。
手を尽くして減刑を図っても、依頼人から納得されず恨まれることだって一度や二度ではないはずだ。
それでも……それでも、自分の胸にある正義や信念を抱いて生きていけるのであれば、それはどんなに幸福なことか……。
しかし、厚志にはそんなささやかな願いを叶える権利すら与えられていない。
それも本人には一切の責任がない……生まれという理不尽な理由によって。
「……僕が堅気になろうとすれば、父はきっと僕の向かう先へ嫌がらせをすることでしょう、育ててやった恩を仇で返すのかなどと口にしながら……あの人は、時代遅れの狭量な老人ですから……僕はそれで他者に迷惑がかかるのが嫌なんです」
厚志の吐露は無念さを感じさせるものだ。
きっと、本心では組のことも滅びてしまえと思っていることだろう。
それでも……父がトップに居る限り、彼は組に尽くすしかない。
その筆舌に尽くしがたい屈辱たるや……。
そんな気持ちを堪えてでも周りの迷惑を考えるというのだから……この男はお人好しだ。
そして、お人好しだからこそ危うくもある、このまま大人になればいずれその優しさで自らを死なせるのではないかと。
「……稲葉、お前には隣で支えてくれる人が必要なのかもしれないな」
「支え……ですか」
「そうだ、お前は危なっかしいからな、誰かに尻を叩いて貰うくらいが丁度良いだろう」
支え、そう言われて真っ先に思い浮かぶのは結婚だ。
しかし……厚志には少し悩ましいと感じる理由がある。
なので、少し苦笑気味に頬を掻くと困ったように笑った。
「僕は……いつか父が死に、稲葉組のトップに立って組織解体を行うまでは、結婚は避けたいと思っています、極道者のまま結婚すれば、相手も危険な目に遭いますから」
組織解体、それは厚志の密かな野望だ。
そもそも極道が存在するから自分のように不幸な身の上を持つ者がいる。
ならば、稲葉組を解体して消滅させてしまえば良い。
そうすれば……少なくとも自分のように家族が極道者だから、と不幸になる者は減る。
シンプルな考えだが、悪い考えではないだろう。
組の人間がもし極道にしか居場所がないような人間であれば、もちろん別の組への移籍は斡旋するつもりだ。
そこまで欠かさずして、初めて幸福を求める権利が出る。
自分の生まれとは、きっとそういうものだろう……厚志はずっとそう考えて生きてきた。
しかし……。
「えっ、勿体ない! なんであっくんが自分の幸せを諦めないといけないのよ!?」
「ん?」
「あっ、やっば!」
夢を果たすまで結婚しない。
そう聞いた春音がつい声を上げる。
だが……そういえば今の自分は盗み聞きをしていたのだ。
それを忘れて声を上げたなら、当然視線が集中してしまう。
「あ、田村さん」
「こら田村! 盗み聞きしてたな!?」
「ひー、すんませーん!」
実を言うと、法学部の教授は剣道有段者であり剣道部の顧問もしている。
そのため春音は彼に対して頭が上がらないのだ。
怒られまいと、脱兎の如く退散していく春音。
一方……厚志は春音が発した言葉を反芻していた。
勿体ない、どうして厚志が自分の幸せを諦めなくてはいけないのだ、と……。
今まで、似たようなことを言われる機会は数度有った。
だが……今まで貰ったどんな言葉よりも、春音の言葉は強く刺さる。
……何一つとして含みのない、素直で単純な言葉だからなのだろうか?
よく真理子や白鳩が「田村は無自覚に人を惹きつけるところが有る」などと言っているが……。
なるほど、それはもしかすると、素直さ純真さ故のカリスマ性、と言うことなのかもしれない。
そう考えながら、厚志は顧問に捕まり廊下で「うひいー、反省文は勘弁してくださいよー! ここは買いたてのミニクロワッサンで一つ……あ、ダメなら御座候を……」と泣きながら正座をさせられている春音を見つめる。
なんだか……彼女を見ていると、胸の中の何かが暖かくなってくるような、そんな気がした。
この頃は飽くまで、純真で優しい女の子への友情と親近感くらいの感情だったのだろう。
だが……知っての通り、二人は後に夫婦となっていく。
果たして何が二人をここから更に近付けたのだろうか?
まあ、それはまた次回……。
次の外伝にてお話しするとしよう。
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