最期の最後に贈る うた

毒親の母さんは私に「殺して欲しい」と言った。私は母さんを殺せるか?
植田伊織
植田伊織

最終話

公開日時: 2022年9月20日(火) 17:00
文字数:2,307

 客人の訪問を告げる軽快なチャイムの音が、ワンルームのアパートに響いた。鍵を開けると、有名なファーストフード店のロゴが大きく印刷された、大きなビニール袋を両手に抱えた弟が、無表情で私を見下ろしていた。


「随分買ったね」

「成長期ですしね。食った分だけ動けば問題ないっしょ」


 何か辛い事があった時、甘い物と睡眠に逃げがちな私と違って、智弘はやけ食いをしたとしてもトレーニングを欠かさない。体を動かすことで心身のバランスが調節出来るのだ。私なんぞは、例え運動をして気分転換をしても、この厄介な性格から脱しられないというのに、遺伝というものはよくわからない。

 

 他にも、母の呪縛から逃れられない私と違って、弟にとっての母の言葉は”神様”のお告げではないようだった。

 私が母の言葉に右往左往してる間に、智弘は早々に、家族に見切りをつけ、自分の居場所は自力で確保した。勉強だって全てを放り投げている訳じゃない。己の逆境をよく見極め、強かに将来を見据える力のある弟が、羨ましい。


 だからと言って、私の方が苦労したとは言えない。

 長女である自分の方が、母の洗脳に染まりやすいといえばそうかも知れないし、見方によっては、私が母の相手をしていたからこそ、智弘は自由に行動出来たとも言える。

 智弘より自分の方が可哀想だと嘆くのは簡単だけれど、私が弟の盾の役割を買ってでた行動こそが、私と母の病理の象徴なのだ。

 母との依存関係と、自己犠牲による陶酔によって己を満たすしかない、歪な自己肯定法。

 それを美談と心に収めるなら、それも良い。全てが悪とは言い切れない。


 問題なのは、私がどう捉えるかだ。


 母さんが妹と家族を捨てずに、父と結婚しても実家のそばに住み続けたように。寿命で祖母と令子おばさんが亡くなるその日まで、面倒を見続けたように。

 自分で人生を切り拓けず、母の一番の味方としての己を選んだのは、他でもない、私だ。


 私は、その選択を悔いている。


 今日からは自身の足で立ち、誰の顔色を伺うでもなく、心のままに人生を歩んで行きたいと強く思った。


 大量のハンバーガーをテーブルの上に所狭しと並べる智弘の姿を見て、一見冷静を装っているが、弟には弟にしかわからない痛みがあるのだろうか、とふと思った。

 すると――


『明けない夜は無い、止まない雨もない。だから辛い事だって必ず終わりが来る』


 智弘が囁くように歌った。私にはそれが、彼の祈りであるようにきこえ、頬を叩かれたような気持ちで、弟の双眼を見張った。

 弟は私の視線に気づくと照れ臭そうに笑って、


「俺は今日が、姉ちゃんにとっての夜明けだと良いなって思ってる」


 ハンバーガーの包みを手渡しながら、静かに言った。

 弟の慈しみを湛えた双眸から目を離せぬまま、ゆっくりとハンバーガーの包み紙を開いてゆく。包み紙に付着していたテリヤキソースで、指が汚れた。

 にじむ視界を誤魔化すように、ソースのついた指を舐め取って、反対の手でハンバーガーを掴む。気づけば、手が小刻みに震えている。嗚咽を噛み殺すために、口の中に突っ込んだままの指に歯を立てようとして、智弘に止められた。仕方がないので、大味のファーストフードに噛みつきながら、私は大粒の涙を流れるがままにしておいた。


 今日が姉ちゃんにとっての夜明けでありますように。

 姉ちゃんの辛い事に終わりが来た、祝福すべき日になりますように。

 雨が止んで、外に出た姉ちゃんが深呼吸して、好きな所へ歩いてゆけますように。


 智弘の言葉は、優しく、そしてそっけない。私が創り出した、”わたし”のように、明確な言葉で説明してはくれない。

 それでも、智弘の目を見ていると、その声音を聞いていると、彼が私を大切な家族の一員として、心配しているのが痛いほど伝わってきた。


 智弘は、傷ついた私を手取り足取り立ち上がらせようと苦心したりはしないだろう。私が、母に対して行ったようには。

 しかし、私が満身創痍のままふらふらと歩き出した時、頼めば喜んで、肩を貸してくれるだろうと思った。

 お互いが自分の足で立った上で、初めて、相手に手を差し伸べる――そんな当たり前の経験を、私はこの年になってやっと、弟から学ぼうとしているのかも知れない。


 獣の鳴き声のような己の嗚咽を聞きながら、私は、脳内に流れる直視したく無かったさまざまな出来事について、映画のエンドロールを鑑賞するように、眺めた。そして、それら全てを認めようと思った。まだ辛くてうまく出来ないものもあるけれど、いつかその先に歩いて行けるように、認めたいという意志だけは、手放すものかと心に誓った。


 母は、無償の愛を私に与えてはくれなかった。そこにどんな事情があれ、母は私に、「何をしてもそこに居ていい」とは言ってくれなかった。

 そんな母の無償の愛を、私は今でも渇望している。


 父も、私を助けてはくれなかった。荒れた家庭環境が原因で精神的に追い込まれた娘を助けるよりも、自分の野心と快楽を優先した。

 そんな大嫌いな父からの愛をも、私は欲しているのだ。


 親戚からは、見てみぬふりをされた。

 誰かに助けてもらいたかったのに。


 そんな劣悪な家庭環境にいたのに、弟は自ら自分の人生を切り開いている。呼吸するだけで精一杯の私とは違う彼に、私は強烈な嫉妬を抱いている。


 認めよう。



 倫子さんの意味深な行動がきっかけで、やっと手に入れたと錯覚して握りしめたのは、無償の愛ではなく、ただの乾いた砂だった。

 手の平いっぱいに握った乾きを少しずつ、道端に落としていって。いつか手の平が空になった時、私は何を掴もうとするのだろう。


『明けない夜は無い、止まない雨もない。だから辛い事だって必ず終わりが来る』


 暁が見たいと、私は心から思った。



<了>

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