最期の最後に贈る うた

毒親の母さんは私に「殺して欲しい」と言った。私は母さんを殺せるか?
植田伊織
植田伊織

二話

公開日時: 2022年9月9日(金) 17:00
文字数:1,603

「令子さんは何をするにもゆっくりしていて――言葉は悪いけれど――鈍臭いというか、要領の悪い所があったわね。口を開けば実年齢よりずっと幼い言動をして、お姉さんの洋子さんはよく、イラついていたっけ」


 見上げれば今にも雨が降ってきそうな曇天の下、納骨式を終えて、足早に墓地から立ち去ろうという時に、遠い親戚の倫子おばさんが懐かしむように言った。


「ほら、洋子さんは少しせっかちな所があったでしょう? おっとりとした令子さんと、よく姉妹喧嘩をしていたなぁって、急に思い出しちゃって」

 倫子さんのおっとりとした物言いは、まるで、お茶会で思い出話に花を咲かせるかのようだった。

 その場にそぐわぬ倫子さんの言動に、私は、一瞬あっけにとられた。しかしそのおかげだろうか、胸に巣食っていた暗雲から僅かな光がこぼれ落ち、瞼をそっと撫でられたような心地になった。



 警察へ虚偽の通報をして厳重注意された事や――弟の智弘が、「姉は錯乱しているんです」と強く主張してくれたおかげでその程度で済んだ事には感謝している――母という強力な後ろ盾を失い、一斉に愛人達が去っていった偽画家の父が、思ったよりずっとマトモに喪主としての務めをこなしていた事が、倫子さんと話をしていると、なんだか遠い国の出来事のように感じられて、少し胸が軽くなる。

「柏木家の女は代々せっかちだと言われているのに、私と令子叔母さんだけは例外で。二人でよく、母さんに怒られましたっけ」

 その言葉に嘘は無い。ただ、言わない事があるだけだ。

 精神を病んだ母が私に当たり散らしていたのを、親族は皆知っている。躾と言うには生ぬるい、母の精神的な攻撃を「怒られた」と表現しただけ。


 墓前で恨言は言いたくない。



 倫子さんは、そんな母を嗜めてくれた、数少ない親戚である。

 しかし、母の攻撃対象が倫子さんに向かってしまってからは、すっかり疎遠になっていた。


 倫子さんはおっとりとした笑顔のまま、私の目を見つめている。

 疲れ果て、口を開くのもやっとだった私は彼女の真っ直ぐな双眸を受け止め切れず、引き攣った作り笑いを貼り付けたまま、足元に視線を落とした。

 ぽつりと音がして、小さな円の中の石畳の色が変わる。周囲より少しだけ色濃くなった円の数が少しずつ増えてゆき、本格的に雨が降りだした。


「煩雑な手続きが全部終わったら、電話して。玲奈ちゃんに、知っておいて欲しい事がある」

 そう言うと、倫子さんはリボンの着いたフォーマルバッグから、小さな紙片を取り出して、優雅な仕草で差し出した。

 雨に濡れないように受け取って素早く目を走らせると、倫子さんの名前と携帯電話の番号が書かれていた。自宅のパソコンで印刷したのか、余白に印刷されている薔薇の画質が僅かに荒い。

 返答に困りつつ手作りの名刺から目をあげれば、彼女は「じゃあね」と言って軽やかに身を翻し、振り返る事なく、自家用車に乗り込んだ。


 私は自分のフォーマルバッグの内ポケットに、倫子さんの手作り名刺を入れて、足早に本堂へ向かった。私が倫子さんと話をしている間、父と弟が先にそちらへ向かうのが見えたのだ。


 父とはまだ、必要最低限の会話しかしていない。

 母さんを蔑ろにしてさんざん傷つけ、好き勝手振る舞う父を、許すことは到底出来なかった。しかし、相手が喪主である以上、家族としての体面をとり繕わなければならない。

 こうやって家族のフリをしていると、時折父は、私達を労ったり、気遣ったりする。それが演技であるならば、心置きなく父を憎めたはずなのだけれど、そうではないと判ってしまうからこそ、苦しかった。

 母の仇とも言える父を憎む自分と、ふとした瞬間に見せる父の親らしい行いに、絆されそうになる自分とが、心の中で分離して、バラバラになってしまいそうだった。


  湿ったアスファルトのにおいが立ち込める中、私は小走りにその場を去った。倫子おばさんの香水の残り香がまだ、鼻腔をくすぐっているような気がした。


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