スマホのアラームではなく、一階の居間で野球中継が始まった音で正義は目を覚ました。慌ててスマホを見ると、時刻は19時20分になっている。
──ヤバイ、沙希との待ち合わせに遅れる!!
このままだと、沙希と約束した19時30分に間に合わない。
「どうした少年、寝坊か?」
居間に飛び込んできた正義を見て、アイスバーを咥えた真実が言った。
「そうだよ!!」
「待ち合わせの相手って沙希ちゃん?」
「だから、そうだって!!」
「……仕方ない。送ってやるから、軽トラの荷台に自転車を積みな!!」
「え!? 送ってくれるの??」
「弟の恋愛事情に興味は無いが、女の子を寝坊で待たせるという事態が気に食わん。40秒で支度しな!! グズは嫌いだよ!!」
どこかのアニメで見たような言い方は別として、この時ばかりは正義も真実に感謝した。
正義が自転車の積み込みを完了すると、真実は『西園寺ストア』へ向けて軽トラを発進させた。
× × ×
『西園寺ストア』の前には自転車を押す西園寺沙希の姿があった。沙希はデニムのサロペットに七分袖のTシャツ、そして英語が印字されたメッシュキャップを被っている。軽トラは沙希の前で止まった。
沙希は運転席の真実に気づくと、笑顔になった。
「真美さん、こんばんは」
「こんばんは、沙希ちゃん。不出来な弟を持つと苦労するよ……ホラ、あんた早く自転車を降ろしな!!」
「わかってるよ!!」
真実に急かされて正義は荷台から愛機を降ろした。
「お礼に、あんたのアイス貰っておくからな」
サイドミラーで荷台から飛び降りる正義を確認した真実が言った。
「なんだよ……だったら、勇人の家まで送ってくれよ」
「調子に乗んな。それより、しっかり沙希ちゃんのボディーガードやんな!!」
「わ、わかってるって……」
「じゃあ、沙希ちゃんまたね♪ ボディーガード君、いつでも連絡を待ってるよ。頑張りな」
真実はニヤリと笑って軽トラを発進させた。
「いいお姉ちゃんだね」
走り去る真実に手を振りながら沙希が笑う。
「まあ……たまにはいい姉ちゃんだよ」
正義は少し照れくさそうに言うと、沙希と一緒になって勇人の家へと向かった。
× × ×
北海道の真夏の日の入り時刻はだいたい19時くらいだ。正義と沙希が出発した時には三日月が顔を出していた。
『西園寺ストア』のある篠津町の町中を抜けると行き交う人や車は皆無になった。街路灯のオレンジ色の光だけが一定の間隔でアスファルトの路面を照らしている。幾何学的に続く光の道は、どこか異世界への入り口を思わせた。
遠くからはカエルの鳴き声が聞こえてくる。そして、時折吹く夏の夜風が道路沿いに並ぶ木々をざわつかせていた。
自転車をこぐ正義を通り過ぎてゆく色、音、夜。そのどれもが鮮明な記憶として心に刻まれてゆく。
特別な夏だ……。と、正義は思った。
沙希と一緒になって自転車で出かけたことは今までに何度かある。その時には感じなかった緊張感と高揚感を正義は感じていた。それはきっと、沙希を好きだと自覚したからだ。
好きな女の子と一緒に自転車で走る。たったそれだけで、正義には見慣れた風景が色鮮やかに変化して見えた。
──毎年夏はやってくる。特別かどうかは……自分次第なんだ。
前を進む沙希の背中を見つめながらそんなことを考えていると、沙希は自転車の速度を緩め、やがて自転車を降りた。
正義と沙希は町はずれを流れる篠津川まで来ていた。篠津川に架かる篠津大橋を越えれば、すぐに勇人の家が有る。
「どうした?」
沙希に追いつくと、正義も自転車を下りた。
「見て……」
「?」
沙希は夜空を見上げている。
正義も一緒になって天を仰ぐと、そこには満天の星空が広がっていた。
「わたし、ここから見る星空が一番好きなんだ……」
「……そっか。確かに綺麗だよな……」
星の瞬きは今にも降り出しそうで、手が届きそうだ。レッドバロンで見た二つの月が輝く夜空も美しかったが、正義には篠津町の星空の方が美しく見えた。
斜張橋である篠津大橋は、その中心部に建てられた鉄塔と、そこから伸びるワイヤーがライトアップされている。橋はまるで、星空に浮かび上がるスターシップの甲板だった。
二人は篠津大橋の歩道を並んで自転車を押した。
「正義、知ってた? 昔は『篠津町農業祭り』の時に篠津川で花火大会があったんだって」
「そうなんだ!? 知らなかった……」
「お父さんとお母さん、学生時代に篠津大橋から一緒に見たんだって」
「へぇ~」
「わたしたちの知ってる『篠津町農業祭り』には花火大会が無くて……それが当たり前で……。でも、それってちょっと悔しいじゃない?」
「そうか?」
「花火大会だけじゃないよ……みんなが、綺麗だな。楽しいな。って思う環境が、いつの間にか無くなってるって悲しいよ……」
「……そうかも知れないな」
「町の予算とか、大人の事情が有るのはわかってる……でも……わたし、レッドバロン復活に少しでも役立てれば、わたしたちの町にも何か貢献できる気がするんだ。今はまだ……『篠津町農業祭り』のお手伝いくらいしかできないけどね……」
「農業祭りの準備に、レッドバロン、メヴェ・サルデ……今年の夏は盛り沢山だな……あ、補習と進路希望調査もあるのか……メンドクセー」
大げさに顔をしかめる正義を見て沙希はクスクスと笑う。つられて正義も顔をほころばせた。
正義の笑顔を見つめていた沙希はポツリと口を開いた。
「安心した……わたしの知ってる正義だ」
「?」
正義は沙希の言葉の意味がわからなかった。
「どういう意味だよ……」
「野盗と戦った時の正義……知らない人みたいで怖かった……」
伏し目がちに言うと、沙希は歩みを止めた。
「怖い?」
正義も歩みを止めて沙希に視線を送る。
二人は篠津大橋の中央まで来ていた。巨大な鉄柱が二人を見下ろしている。
「……でも、もう怖くないよ!!」
沙希はにこやかに笑うと、片手でキャップを目深に被り直した。その仕草が、正義には本心を隠す仕草に見えた。
どうしてだろうか……。沙希を可愛いと思えば思う程、その存在が遠くに感じてしまう。
今になって正義は茜や京子の気持ちが理解できた。もし、告白でもして、沙希の自分に対する態度が一変してしまったら……とても耐えられる自信が無い。
──いや、いっそのこと、気持ちを告白して楽になってしまおうか……。
正義の葛藤をよそに、自転車に乗った沙希は先へと進む。
「ボディーガードさん、早く!!」
「わかったよ!!」
正義は自転車に跨ると、沙希の後ろ姿を追いかけた。
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