陣太鼓が轟く円形闘技場へ入ると、そこはまるでコンサート会場のように人々が集まり、期待と興奮の熱気で溢れかえっている。
昼間の厳かな雰囲気とは打って変わった姿に、茜は目を丸くした。
──え……!?
茜の戸惑いは大きくなった。
すると、突然。
「皆の者、よく集まってくれた!! 感謝する!!」
高らかな女性の声が闘技場いっぱいに響く。
よく通る声に、人々は一斉に声のする方を仰ぎ見た。そこには夜目にもわかる赤髪を靡かせてサーシャ・アディールが立っている。
サーシャはガルタイ族の英雄であるレギリオ・バンデラの石像の前に立ち、闘技場に集まった観光客やガルタイ族の戦士たちを睥睨していた。
目鼻立ちのハッキリした顔と、引き締まった巨躯は、サーシャ自身が神々しい彫像だと錯覚させる。
人々はサーシャの存在感に圧倒されて言葉を失い、闘技場は水を打ったようにシンと静まり返った。
耳目が集まり、人々が自分の言葉を待っているのを確認すると、サーシャは小さく頷いて鋼色の拡声器を口元に当てた。
「明日!! 誇り高きガルタイ族のテレサが勇者と『熱波苦悶開脚走』を行う!!」
「「「ウ、ウオオー!!!!」」
サーシャが宣言すると、闘技場は異様な盛り上がりを見せた。
サーシャは満足そうに笑みをこぼして続ける。
「今宵は前夜祭ぞ!! 皆の者、飲み代は全てこのサーシャ・アディールが持つゆえ、酒と食事と音楽を心ゆくまで楽しむが良い!!」
サーシャは近侍する配下から杯を受け取り、高く掲げた。
「ガルタイ族の英雄と、召喚されし勇者の健闘を祈る!! 乾杯!!」
サーシャのかけ声と共に再び陣太鼓が轟き、金属楽器を吹き奏でる音が鳴り響いた。
「「「乾杯!!」」」
人々は歓呼して配られた杯を飲み干した。
「マ、マジかよ……」
茜は『熱波苦悶開脚走』がお祭り騒ぎになっているのを目の当たりにして、若干気後れした。いや、正確にはドン引きした。今日でこれだけの騒ぎになるのなら、明日はどうなってしまうのだろうか……。
悪い予感を覚えながらも、茜は気を取り直して辺りを見回す。今は京子を探すことが先決だ。茜は円形闘技場を見下ろす客席に繋がる階段を見つけ、そこを上った。
円形闘技場上部の客席は所々崩れており、上に行けば行くほどその損壊は激しくなっている。茜は闘技場全体を見渡せる場所を探した。
少し進むと……。
人気の無い貴賓席と思《おぼ》しき一角で、茜は京子の姿を見つけた。京子はその長身痩躯を壁に預けて、歓声に沸く闘技場を見下ろしていた。
月明かりに浮かぶ京子の顔は物憂げで、普段の面影が無い。
「よう、京子。こんな所でどうしたんだよ」
茜が声をかけると、京子は意外そうな顔でこちらを見た。その顔は「どうしてここがわかったの?」と言っている。
「京子、オメーは昔から大会前にはいつも客席からトラック見下ろして考え事してるだろ? だから、一人になるならここかなぁ~って、思ったんだよ。どうだ? スゲーだろ?」
茜はニヒヒと笑って京子に並んだ。
明るく話しかける茜を、京子は昏い眼差しで見下ろした。その唇が僅かに動く。
「……」
京子の言葉が聞き取れなかった茜は「?」という顔をして再度、京子の顔を覗き込んだ。
その瞬間。
京子の端麗な顔が嫌悪で歪んだ。
「お前、ウザい」
耳元に届いた言葉の意味が理解できず、茜は一瞬だけ固まった。しかし、すぐにそのこめかみに血管が浮かび上がる。
「あ? 京子、テメー今、なんつった?」
静かだが確かな怒気を発して茜は京子を睨んだ。
茜は怒りを隠そうともせず、京子に迫る。しかし、京子は茜の怒気を受け流すように視線を闘技場へと向けた。その仕草に意図を感じて、茜の身体はピタリと止まった。
「茜……」
京子は静かに口を開いた。
「明日、もしわたしが負けたらどうするの?」
「……負けたら?」
京子の言葉を反芻した茜はサーシャとの約束を口にした。
「……そうなったらウチがガルタイ族に入るだけだ。京子、オメーには関係無いから安心しろよ」
冷めやらぬ怒りも手伝い、茜は吐き捨てるように言った。
茜の乱雑な口調に、京子は顔を顰めて声を荒げた。
「だから!! それがおかしいって言ってるの!!」
感情的になった京子は、逆に茜へと迫る。
「茜がどう考えたか知らないけど……人を賭けたマラソンなんて……おかしいよ」
「……」
「もし、わたしたちの世界に帰れなくなったらどうするの!? みんなになんて説明する?? ガルタイ族になったんで帰れませんって、アンタ言えるの??」
「そ、それは……」
言い淀む茜の姿が、京子の怒りに拍車をかける。
「どうせ、そこまで考えてないでしょ?? 茜、無鉄砲なバカだもんね。……みんなはともかく、家族にはなんて説明するの?? アンタの大好きなお祖母ちゃんが悲しむとか……考えないの!?」
茜は初めて京子の本音を知った。
京子は茜自身のことを心配していたのだ。いや、茜だけではない。茜が大切にしている存在にまで想いを馳せてくれている。
茜が『郵便システム』の構築を目指すのも、祖母の姿と重なって見えたレッドバロンの老人たちを想ってのことだった。祖母の話まで持ち出されると、茜は返す言葉が見つからなかった。
「ああ……もう……」
京子は目を瞑って首を振った。そして、顔を上げると真っすぐに茜を見据える。その瞳には、やるせなさから来る涙を湛えていた。
「わたしに背負わせんな!!!!」
叫ぶように言って京子は続ける。
「もちろん、明日は走るよ。でも、それは『郵便システム』なんかの為じゃない。もちろん、茜、アンタの為でもない!! 沙希やかっちゃん、みんなの為だ!! アンタが大切にしているお祖母ちゃんや家族の為だ!!」
「そ、そこまで深刻にならなくたって……いいだろ……」
茜はやっとの思いで言葉を紡ぎ出した。
伏し目がちに言う茜を見て、「まだ事態の深刻さがわからないの?」と京子の苛立ちと怒りは強くなる。京子は奥歯をギリッと噛んだ。
「明日は勝つ為に精一杯走る。でも、レースが終わったら……」
京子はその目に諦めの感情を浮かべながら小さく息を吸った。
「アンタと絶交する」
感情の籠らない声が届くと、茜は微かに瞳を見開いた。「絶交」という言葉に思考が追いつかなくて、頭の中がぐるぐると混乱する。
「じゃあね……」
声を失う茜を残し、京子はその場を立ち去った。
後には……。
月明かりの陰影に隠れた茜だけが取り残された。
× × ×
ドン!! ドン!! ドン!!
ボンヤリと佇む茜は、聞こえて来る陣太鼓に、泳ぐ視線を闘技場へと向けた。闘技場では丁度、仮設された舞台の上でテレサが剣舞を披露するところだった。
大陸随一の剣士が剣を片手に舞う姿は流麗で、人々はその一挙手一投足に喝采を送っている。
──あのテレサと京子は明日、戦うのか……ウチを賭けて……。
茜は両手をギュッと強く握りしめた。
自分の決断が京子を苦しめていた……。そう考えると、善かれと思って下した決断が、ただの独り善がりだったと思えて仕方が無い。
結果として……幼馴染を一人、失った。
「チックショ……」
茜が呟いた小さな悪態は、宙を彷徨って夜陰に消える。
円形闘技場では、相変わらず人々の歓声がこだましていた。
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