パラ、パラ、パラ……。
『勇者の宿』の会議室で、沙希はビンスからもらったレッドバロンの収支予算書を見ていた。机には収支予算書の他にも人別帳や地図、生活必需品の底値表から観光パンフレットまで、ありとあらゆる資料が積み重なっていた。
「ん~」
沙希は伸びをして椅子に寄りかかると、パンフレットを手に取った。パンフレットには大きくバロンプリンが描かれている。バロンプリンの売上は相変わらず好調だが、早く次の手を打たなければ先行きが暗い。
──正義、うまくやったかな……。
沙希は蒸気機関の設計図を持ってメヴェ・サルデに向かった正義を思った。正義たちが出発してからもう2日が経つ。順調なら、明日にも帰ってくるはずだ。
──気にしててもしょうがないか……。
沙希が作業に戻ろうとすると、会議室のドアがコンコンとノックされた。
「開いてますよ~」
沙希が呼びかけると、佳織が入って来る。
「沙希ちゃん、忙しいのにごめんね」
「ううん、大丈夫だよ。かっちゃん、どうしたの?」
「あのね……沙希ちゃんに見て欲しい絵があるんだ」
「絵?? かっちゃんの新作?? 遠慮しないで、いつでも持って来てよ」
笑顔で言う沙希を見て、佳織は少し困った顔になった。
「ちがうの。沙希ちゃんに見てもらいたいのは壁画なんだ……」
「壁画!? どうして??」
「……説明するより、見てもらった方が早いと思う……ちょっと来てくれないかな……」
「別にいいけど……」
「良かった!! じゃあ、行こう!!」
佳織は首を傾げる沙希の手を引いて会議室を出た。
× × ×
『勇者の宿』を出ると、佳織は沙希を連れてレッドバロンの東側へと向かう。
レッドバロンの地図をなんとなく暗記していた沙希は、東側には『勇者ホール』があることを思い出した。佳織が見て欲しい壁画とは、『勇者ホール』の舞台セットかもしれない。
「そう言えば、敬の姿をあまり見ないけど、何してるの?? 勇者ホールに居るの??」
「うん!! 敬君なら『ロミオとジュリエットとタカシ』の再演依頼が来て忙しくしてるよ!! 今度の上演には偉いプロデューサーさんが来るかもしれないんだって!! わたしも勇者ホールで『ロジェッタ』のポスターを描いてるんだよ!!」
佳織は嬉しそうに答えた。どうやら、『ロミオとジュリエットとタカシ』は『ロジェッタ』と略すらしい……。
沙希は佳織がポスターに『勇者 敬』を描く姿を想像して微笑んだ。きっと、『レタス侍』を描くより、楽しくてやりがいがあるだろう。
──かっちゃんが見せたい壁画って、舞台セットのことかな……?
沙希がそんなことを考えていると、佳織は横道にそれて勇者ホールとは別の方角へと進んだ。そこは小さな運河沿いの小路《こみち》だった。運河を挟んで家屋の白い壁面が隣接している。
建ち並んだ家の窓には、色とりどりの花が植えられた植木鉢が並んでいる。そして時には、鈴を付けた黒い飼い猫が窓際で昼寝を楽しんでいた。
「かっちゃん、どこへ行くの??」
てっきり、勇者ホールへ行くものだと思っていた沙希は佳織に尋ねた。
「沙希ちゃん、もうすぐ着くよ」
佳織が言ってから少し歩くと小さな広場に出た。
こじんまりとした広場の奥には、かつて有った城壁の一部が、取り壊されずにそのまま残されている。そして、その前には直方体の黒い物体が置かれてある。何かの記念なのか、表面には隙間なく名前が彫られてあった。
「これは慰霊碑で、ここに刻まれているのは魔族との戦いで亡くなった戦没者の名前なんだって……」
「そうなんだ……」
「それに、ここは『英雄広場』って呼ばれてて、30年前に召喚された勇者が仲間たちと出会った神聖な場所なんだって……沙希ちゃん、見て……」
佳織は慰霊碑の後ろにある城壁を指さした。
沙希が視線を向けると、城壁の上部一面に巨大な絵が描かれている。
「えっ!!??」
壁画を見上げた沙希は驚いて目を丸くした。
重々しい甲冑を着込んだ短髪の戦士、派手なマントレットローブを羽織ったツインテールの女の子、大きな槌を担ぐずんぐりとした男、弓を持つ尖った耳の美しい女性……壁画には様々な人物が描かれており、その中にはトンガリ帽子を被ったガンバルフも居る。おかしなことに、ガンバルフは今と見かけが全く変わらない。
そして……。
人物たちの中心では、地面に突き立てた剣に両手を添えた女の子が、満面の笑みでこちらを見ている。女の子は沙希や佳織と同年代で、篠津高校の制服を着ていた。
「あのね……『ロジェッタ』のポスターを描くための資料が欲しいって言ったら、ここに案内されたの。この壁画、30年前に召喚された勇者と、その仲間たちなんだって……」
「じゃあ……わたしたちの前に召喚された勇者って……」
「うん。篠高の生徒だったみたい……」
佳織はそう言って再び壁画を見上げた。
「勇者の名前、若槻優香さんって言うらしいよ。沙希ちゃん、知ってる?」
「ワカツキユカ? ……ううん、知らない」
沙希も壁画を見上げながら答えた。
「そうだよね……30年も前の話なんだから、知らなくて当然だよね。沙希ちゃんなら知ってるかと思ったんだ……」
そう言って、佳織は何かを心配する顔つきになった。
「わたしたちは正義君が帰り道を見つけてくれたから帰れたけど……若槻さんはちゃんと篠津町に帰れたかな……」
「どういう意味?? かっちゃんは若槻さんがまだこっちの世界に居るって言いたいの??」
「う、うん。ほら、ガンバルフさんは現実世界への戻り方を知らないって言ってたでしょ。それって、前に召喚された勇者が現実世界に戻れなかったって意味じゃないかな……」
沙希はなるほどと思った。
ガンバルフは魔法使いとしての矜持を大切にしており、知らないものを知っているとは言わない。若槻優香にも「現実世界への戻り方なぞ知らん!!」と無責任に言い放ったかもしれない……いや、きっと言った。そう考えると、若槻優香が篠津町に帰れなかった公算は高くなる。
「戻ってビンスさんに若槻優香さんのことを聞いてみようよ」
「うん。そうだね」
沙希と佳織は頷き合ってその場を後にした。
『英雄広場』を出る時、沙希はもう一度だけ振り返って壁画を見た。そこでは、同じ制服を着た女の子が、相変わらず笑顔でこちらを見つめている。
──ワカツキ……ユカ……あれ?
ふと、沙希は記憶に違和感を覚えて眉を顰めた。若槻優香の名前をどこかで聞いた気がする。だが、どこで聞いたのか全く思い出せない。
「沙希ちゃん、どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
佳織の声が届くと、沙希は歩き始めた。
× × ×
勇者の宿に戻ると、沙希と佳織はさっそくビンスの部屋を訪ねた。
沙希たちがレッドバロンに来てからというもの、ビンスは執務室を市庁舎から勇者の宿へと移している。それは「勇者さまのご依頼にすぐ対応するのが町長の務め!!」だかららしい……。
「これはこれは、勇者さま。ささ、どうぞお入りください!!」
ビンスは快く二人を迎え入れた。
「どうされましたか、勇者さま?」
沙希と佳織が椅子に座ると、ビンスは冷たいお茶が入ったコップを差し出しながら言った。
「あの……若槻優香さんについてお聞きしたいのですが……」
「前の勇者さまについてですね。構いませんよ、なんなりとお尋ねください」
沙希が切り出すと、ビンスは笑顔で頷く。
「若槻さんが今どうしているか……ビンスさんは知っていますか?」
「ええ、もちろん。優香さまなら、このバルザック王国の女王として君臨なさってます」
「「じょ、女王!?」」
沙希と佳織は声をそろえて驚いた。
「はい。優香さまは魔族との争いが終結後、バルザック王国の女王となられたのです。女王となった後も、優香さまはレッドバロンを時折、訪ねてくださいました……それはもう、立派な近衛兵を引き連れて……その頃はレッドバロンもまだ活気がありました……」
例によって、昔を思い出したビンスは目を細めて虚空を見つめる。
「ちょ、ちょっと待ってください!! じゃあ、若槻さんは自分の世界に一度も帰ってないんですか!?」
沙希は思わず身を乗り出した。
「え、ええ……わたしの知る範囲では、一度も勇者さまの世界に戻られてないはずです。魔族との争いが終結しても、優香さまが帰る方法は見つかりませんでした。ガンバルフ先生も戻す方法は知らなかったですし……」
召喚した勇者が帰れなかったのに、わたしたちを召喚したの!? と沙希はビンスを問い質したい気持ちになったが、ぐっと堪えた。その横で、佳織が恐る恐る手を上げる。
「あ、あの……。若槻優香さんに何が有ったか……詳しく教えてくれませんか?」
「畏まりました、勇者さま……」
ビンスはお茶を飲んで口を湿らせると、二人を見た。
「それは……30年前……」
思わせぶりに語り始めたビンスの目は、再び細くなっていた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!