ホテル『グラスゴー』の朝は早い。正義と勇人がホテルのフロントに制服を取りに行くと、もうクリーニングが終わっていた。
「勇者さま、おはようございます!! こちらがお預かりした服になります!!」
フロントには昨日カフェテラスで見かけたウエイターの男の子が立っている。男の子は朗らかな声で挨拶すると、正義と勇人に制服を渡した。
魔法でも使ったのか、制服に付いた汗や泥が綺麗に落ちている。ピシッとアイロンがかけられたワイシャツからは、洗濯糊の爽やかな残り香がした。
お礼を言って受け取ると、男の子が「あの……」と、話しかけてきた。
「あの……僕はジャン……ジャン・バレッタっていいます。勇者さまにお願いがあるのですが……。ここに、サインを頂けませんか!!」
ジャンはそう言ってカウンターの上に万年筆とノートを置いた。ジャンは昨日の正義と勇人を恐れる態度から一変している。一体何が有ったのだろうか。
「サ、サインですか?」
正義は戸惑いながら聞き返した。どうやら、制服の受取証にサインをする訳ではないらしい。
「はい、勇者さまのサインが欲しくて……。僕、本を書いてるんです。だから、いつかは勇者さまのことを書き記したくて……。その時に、勇者さまと出会えた証として、サインを掲載したいんです!!」
「わ、わかりました」
ジャンの熱意に押されて正義は万年筆を持った。
ペン先をノートに走らせると、ジャンが感動の面持ちでノートを覗き込む。
「あの……町中で噂になってます。勇者さまはメヴェ・サルデを救うために、危険を顧みず浸水した坑道に入って行った……って。僕、それを聞いて感動しちゃって……そのことも、本に書きますね!!」
『勇者 前田正義』
『勇者 須藤勇人』
正義と勇人が名前を書くと、ジャンは満面の笑みでノートを抱え込んだ。
「ありがとうございます!!」
「「どういたしまして」」
喜ぶジャンに別れを告げて、正義と勇人は部屋へと戻った。
× × ×
三階の部屋に戻って制服に着替えると、正義はドレッサーに向かって髪型を直した。洗面所から持ってきた瓶に入った整髪料に悪戦苦闘していると、窓から外を見ていた勇人が話しかけてくる。
「噂になってるんだな……市庁舎にたくさん人が向かってる……」
「え……マジか……」
正義は立って勇人の隣に並ぶ。
部屋の窓は広場に面しており、市庁舎へと向かう多くの人たちが確認できた。きっと、メヴェ・サルデの人たちは勇者が浸水から救ってくれると期待して、詰めかけているのだろう……。今、メヴェ・サルデの復興は正義たち勇者一行にかかっている。
「勇人、どうなるかわからないけど……やってやろうぜ!!」
「ああ!!」
正義と勇人はグータッチを交わして市庁舎へ向かった。
× × ×
「「えっっ!!??」」
市庁舎の議事堂へと通された正義と勇人は、思わぬ光景に息を呑んだ。
議長席近くの入口から中を覗いてみると、傍聴席には人が詰めかけ、立ち見の人までいる。熱気を帯びた会場は人々のざわめきで、あふれ返っていた。
「こ、ここで揚水機関の打ち合わせをするんですか!?」
暗幕の影から中を覗いていた正義は、慌てて後ろのサリューを見た。
「はい。昨日のうちに、メヴェ・サルデ近郊の町にも早馬を飛ばしました。ビフレスト山脈での魔導石採掘を主力産業としている町はどこも浸水の被害に喘いでいます。他の町の町長や領主、技術者たちにも集まってもらいました」
サリューは会場に集まった人たちを確認しながら言った。
「昨日、揚水機関のお話をうかがった時に、大規模な事業になるとお見受けしました。心苦しいですが……財政的な面を考えますと、メヴェ・サルデだけではどうにもなりません。今のメヴェ・サルデは、借財してなんとか持ちこたえている有様ですから……」
サリューは悔しそうに俯いた。その表情を見て、正義はメヴェ・サルデの窮状を思い出した。メヴェ・サルデは明日の糧に困り、正義たち勇者一行を襲ったのだ。
「借財って……どこから借りたんですか?」
サリューの隣に並ぶ勇人が尋ねた。
メヴェ・サルデは商業都市ザハの商人ギルドに支援を断られている。いったい誰がメヴェ・サルデを助けたのだろうか。
「それは……」
サリューは声をひそめた。
「勇者さまはご存知ないようですので申し上げますが……ザハの観光協会にお借り致しました」
「「観光協会??」」
正義と勇人の声がそろう。
「はい……」
サリューの説明によると……。
正義たちが現実世界へ戻った後、メヴェ・サルデの現状を哀れんだビンスが、兄であるバンスにメヴェ・サルデへの支援を頼みこんだという。
バンスはザハで一番の高級ホテル『ザハ・デ・ビーチ』のオーナーであり、ザハの観光協会会長を務めていた。
『勇者の宿』に『勇者ホール』……ビンスの失敗を知っているバンスは最初こそ難色を示した。しかし、ビンスの根気強い説得と、「勇者さまがなんとかする」という言葉を担保に、ついに援助を引き受けた。
「バンスさんたち観光協会にご支援頂いたおかげで当面の間は凌げます……ですが、とても揚水機関を作る事業までは予算を組めません。ですから、近隣の都市に声をかけたのです……」
話し終えると、サリューは再び暗幕の後ろから会場を確認した。
「サリューさん、それじゃあメヴェ・サルデが破綻すると……ザハの観光協会も……」
「……」
正義は最後まで言わなかったが、サリューは黙って頷いた。
新たな事実に、正義は気が遠くなる思いだった。揚水機関が失敗すれば、ザハの観光協会まで共倒れだ。レッドバロン、メヴェ・サルデ、ザハ……勇者としての責任がどんどん拡大してゆく。
──このことを沙希は知っているのか? いや、知るわけ無いか……。
正義は胃がキリキリと痛くなってくるのを感じた。
腹部を押さえる正義を見て、勇人が苦笑いを浮かべる。
「ビンスさん、人を巻き込む天才だな……」
勇人はため息混じりに呟いて、サリューを見た。
「サリューさん、今日は揚水機関の技術打ち合わせじゃなくて、揚水機関の発表会なんですね……しかも、伸るか反るかで……」
「はい、そうなります……突然で本当に申し訳ございません……」
勇人の質問に答えると、サリューは深々と頭を下げた。
つまり、サリューは「揚水機関のプレゼンをしてください」と無理難題を言っているのだ。そんなことを言われても、付け焼き刃的な揚水機関の説明で、町長や領主が納得して予算を出してくれるとは思えない。
不安が加速する正義の肩に勇人が手を置いた。
「なあ、正義……」
勇人は落ち着いた声で正義に語りかける。
「ボールは投げられた……1、2、3でフルスイングしかねーだろ!!」
勇人は白い歯をこぼし、爽やかに笑ってみせる。その笑顔に、正義の表情からは不安や焦りが消えてゆく。
「それを言うなら、『賽は投げられた』だろ……」
「そうなのか? 意味が通じればいいよ。さあ行こうぜ、防衛大臣」
勇人に励まされた正義は、茜や京子が勇人を好きな理由が少しだけわかった。勇人の笑顔は不安で翳る心に光を差してくれる。少しときめいた。
「「サリューさん、事情はわかりました。こうなったらやってやりましょう!!」」
「よろしくお願いします、勇者さま!!」
正義が力強く言うと、サリューも喜色ばんで頷き返す。
「頼むぞ勇者アボー!!」
「うるせーよ」
正義と勇人は笑い合って開場を待った。
ここまで来たらどうしようもない。
なるようになれ。と、二人は開き直っていた。
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