『熱波苦悶開脚走』は残り3キロを切った。
レースが佳境に入ると、それまでテレサの後塵を拝していた京子がグンッと速度を上げた。さっきまでとはまるで別人のように加速してテレサに追いすがる。
そんな京子の姿に、砂船からは観戦客の歓声や悲鳴が同時に上がった。
「オイオイオイ!! テレサさまが速度を落としたのか!?」
「いや、違う!! 勇者さまが加速したんだ!!」
「ほ、本当だ!? ここに来て早くなってやがる!!」
悲喜の感情に色めいたのは『砂漠の幽霊船』も同じだった。
一時は100メートル近く離され、どうなることかと見守っていたレオや『チーム茜』の皆は歓喜の叫びを上げた。
「ウオオー!! さすが、勇者さまだ!! 信じてた!! 俺は信じてたぞ!!」
「砂漠の英雄相手に一歩も引いておらん!! あ、真後ろに付けた!!」
「行け!! 抜け!! 抜き去ってしまえ!!」
チーム茜の面々は『砂漠の幽霊船』がガルタイ族の操船する船だと言うことを忘れて浮かれた。
ガルタイ族の船員たちは苦々しい顔をした後、すぐに負けじと声を張り上げる。
「まだ勇者の前を走ってますぞ!! 気をしっかり!!」
「テレサさま頑張れ!! 勇者なんかに負けるな!!」
「『無慈悲な終焉の地』の闘技場が見えてきました!! もう一息です!!」
しかし……。
『砂漠の幽霊船』からの応援はテレサに届かない。いや、正確にはテレサに応援を気にとめる余裕などなかったのだ。ガルタイ族の声援よりも、テレサは真後ろに迫る京子の息遣いの方が気になった。
あれだけ有ったリードがいつの間にか失われ、遥か後方だった勇者が、今、まさに自分を追い抜こうとしている。
──な、な、なんで!?
どんなに考えてみても、テレサの思考は追い付かない。
リードを保つためにテレサは再び加速を試みる。
しかし……
これまでの道のりで加減速を繰り返してきたテレサは、あまりにも体力を消耗していた。テレサの呼吸は乱れて規則性を失い、脚はまるで他人の脚のように言うことを聞かない。
テレサは何度も後ろを振り返った。
京子は着実に距離を詰めて来る。
──な、何が起きているの!!??
テレサの混乱。それは、テレサが『ラストスパート』という概念を知らなかったことに由来した。
体力を温存し、最後で力走して、体力がゼロになるのと同時にゴールする。現代の高校生なら誰でも知っている『ラストスパート』は、実はかなり難しい。それに、『ラストスパート』は身体への負担も大きく、初心者には危険だと言われている。
京子は『熱波苦悶開脚走』の勝負所をラスト3キロと見定めてラストスパートを仕掛けたのだ。
京子は温存した体力を解放して加速する。
テレサに対抗する余力は残されていなかった。
──なんで、なんで、なんで!!??
テレサの混乱は増すばかりだった。
次の瞬間。
フッ。と、風が頬を撫でた気がした。
テレサが隣を見ると、いつの間にか追い付いた京子がこちらを見ている。
──!?
京子の顔を見たテレサは、再び驚きで双眸を丸くした。
折り返し地点で見た鬼気迫る表情とは打って変わり、京子は爽やかな笑顔をこちらに向けている。その顔は「テレサ、一緒に走るのは楽しいね」とでも言っているかのようだ。
テレサは戸惑った。
京子の笑顔を見ていると、戦意が挫かれそうになってしまう。
──ま、負ける訳には……ガルタイ族の名誉が……。
テレサは視線を前方へと戻し、自らを奮い立たせた。歯を食いしばって腕を振り、石道を蹴る。その時、その囁きは確かにテレサの耳へと届いた。
「テレサ、お互い頑張ろうね」
驚くテレサをしり目に、声の主は前へ、前へと進んでゆく。
ついに京子がテレサを抜き去ったのだ。
『熱波苦悶開脚走』が始まって一時間以上が経っていた。
× × ×
「ぬ、抜いた!? ついに抜いたぞ!! 勇者さま、凄い!!」
「やったぞ!! 砂漠の英雄を抜き去った!!」
「京子勇者さま!! 勝利は目前です!! 頑張れ!!」
京子がテレサを抜き去ると、『砂漠の幽霊船』の船上ではひと際大きく歓声が上がった。とは言っても、それはレオたち『チーム茜』だけで、クルドやガルタイ族の面々は渋い顔でレースを見守っている。
レオは「ふふん!!」と、得意気な顔でクルドを見た後、意気揚々として隣の茜に声をかけた。
「茜勇者さま、やりました!! 京子勇者さまがテレサに勝ちますぞ!!」
「……」
喜び勇むレオとは対照的に、茜の表情はどこか暗い。
京子勇者さまがテレサを抜いたのに、どうして茜勇者さまは嬉しそうじゃないのだろうか? と、レオは茜の沈黙に首を傾げた。
茜は精悍な顔立ちに疑問を浮かべるレオをチラリと見て、口を開いた。
「……まだ……わかんねーよ……」
ボソリと言うと、茜は険しい顔つきで京子に視線を戻す。
茜の目には、京子が全身のリミッターを外して走っているように見えた。
──京子のヤツ……ちょっと速過ぎるんじゃねーか?
茜は京子が『頑張り過ぎる』ことを心配していた。
競技者としての京子を茜は信頼している。だからこそ、『熱波苦悶開脚走』を受けて立った。
しかし……。
『熱波苦悶開脚走』は過酷なマラソンだ。身体にかかる負担も相当なものだろう。今更ながらだが、茜は不用意に勝負を引き受けたことを後悔していた。
──何事もなければいいけど……。
視線の先では京子がテレサをぐんぐんと引き離している。
「何を憂うのですか、茜勇者さま。勝利は目前!! 一緒に京子勇者さまを応援しましょう!!」
「あ、ああ……そうだよな……」
レオの言う通り、このまま行けば京子の勝利は盤石だ。茜は心に渦巻く不安を振り払って声を上げようとした。
その瞬間だった。
悲劇は、『無慈悲な終焉の地』の闘技場へと迫る下り坂で起きた。
× × ×
──もう大丈夫だ!! 勝った!!
テレサを遠く引き離した京子は勝利を確信して心の中で叫んだ。
間もなく『熱波苦悶開脚走』に勝利できるという喜び。茜を救い、『郵便システム』も構築できるという満足感。
様々な多幸感で京子の心は満たされている。それはまるで、ランナーズハイにでもなったかのようだった。いや、すでになっていたのかもしれない。
京子は勝利をより強固なものとするべく、更なる加速を求めた。その負荷に、京子の身体はついに悲鳴を上げた。
バチン!!
京子は左足のふくらはぎから太ももにかけて、電流が走ったかのような衝撃を覚えた。と、同時に激痛が左足を襲う。左足の感覚が痛みで麻痺し、足が地面についたのかどうかもわからない。
京子は足がもつれて態勢を崩した。
──ヤ、ヤバッ!!
京子は下り坂を走る勢いそのまま、派手に転倒した。頭部を庇おうと咄嗟に手を前に出すが、坂道で態勢を崩したせいで、おかしな形で地面に手を着いた。
グキン!!
今度は京子の右肩に衝撃音が走る。
──ッッッ!!
石道に倒れ込んだ京子は痛みと共に、右肩に強烈な違和感を覚えた。左手を支えにして必死に上半身を起こしてみるが、右手はブランとしたままで、動かそうものなら激痛が走る。
京子の左足を肉離れが襲い、右肩は脱臼していた。
「う、うぅ……」
普通ならば痛みに叫び、助けを求める所だ。しかし、京子の意識は身体ではなく、後方から迫るテレサに向けられた。
──は、早く立ち上がって……走らなきゃ……。
気丈にも京子は立ち上がり、前を目指して前傾姿勢になった。
痛みで麻痺した左足は満足に動かない。そして、右手はブランと垂れ下がったままだ。肩の違和感や痛みも増すばかりで、全身からは血の気が引いて行く。
残酷なことに、こんな状況になっても京子の衰えない戦意は身体を前へ、前へと突き動かした。
京子はピョコピョコと脚を引きずりながら、痛々しい姿で石道を進んだ。
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