微かな……ほんの微かな、シャツを引っ張る力に、正義は剣を振りかざしたまま振り向いた。そこにはいつの間に馬車から降りたのか、シャツの端をつまむ沙希の姿があった。そして、沙希の後ろには茜と京子も立っている。
「放せよ」
正義は冷たく、突き放すように言った。しかし、沙希は手を放さず、首だけを振っている。
──なんだよ?
──どうして欲しいんだ?
──やめて欲しいのか?
──なんで黙ってる?
──何かしゃべろよ!!!!
怒鳴る寸前で正義は気づいた。
沙希は声が出ないのだ。
シャツを放さないのが沙希にとって今、精一杯の言葉なんだ。
「ヤメテ」と全力で叫んでいるんだ。
そう思い至ると、正義は振りかざした剣が急に重たく感じた。行き場の無い怒りと焦燥で思考が昏くなり、剣を振り下ろす先が解らなくなる。
「なんなんだよ!!」
大声を上げると、正義は横を向いて思い切り剣を振り下ろす。空を切った剣先が勢い余って地面へと突き刺さった。
「ふむ……」
正義の行動を見たガンバルフは白い髭を撫でながら呟いた。
「勇者よ……今を過ぎ去れば、その剣を再び振り上げることは出来んぞ? 勇者として一度裁定を下した者を、後日再び裁くことは出来ぬ。良いのか?」
「……」
視線を送るガンバルフに正義は沈黙で答えた。
「良いのだな??」
念を押すと、ガンバルフは沙希や勇人、茜、京子の顔も交互に見つめた。誰も何も言わなかった。
「さて……」
ガンバルフはサリューの眼前に立ち、その顔を見下ろした。
「ダリル・ドラモンド伯爵の息子、サリュー・ドラモンド子爵よ。勇者たちはその寛大な心で許しを与えた。そなたは対価として何を捧げるのじゃ?」
「……捧げる?? ……俺たちにはもう何もありゃしないぜ」
サリューはその精悍な顔に冷笑を浮かべた。しかし、ガンバルフはサリューの冷笑など気にせずに続ける。
「そうか……では、勇者たちの寛大な心に甘えるだけと言うのじゃな? メヴェ・サルデは末代までの恥辱を背負うことになるぞ……町の名誉を全て捨て去ってしまっても、構わぬのじゃな? まあ……それも良かろう……」
ガンバルフはどこか他人事のように言ってその場を立ち去ろうとした。すると、サリューが慌ててガンバルフを呼び止める。
「ま、待て!!」
「……何じゃ?」
「も、もし……勇者たちが俺たちの蛮行を許してくれると言うのなら……もう何も残っちゃいないが……赤心を捧げようじゃないか!! メヴェ・サルデは今後、勇者たちに対して絶対と永遠の忠誠を誓う!!」
「……何を以って証明するのじゃ?」
「我が父母と女神フィリスの名にかけて誓う!!」
「ならば、このガンバルフが証人となろう」
正義はガンバルフとサリューのやり取りをどこか冷めた目で見ていた。今さらどんな誓約を交わそうが、襲われた事実は無くならないし、犠牲者も帰ってこないのだ。
「あのう……」
恐る恐るビンスが正義に話しかけてきた。
「勇者さま、都合の良い申し出とは存じますが……我々、レッドバロンと共にメヴェ・サルデもお救い頂けませんか? サリュー子爵さまも、メヴェ・サルデの鉱夫たちも、本来は気の優しい連中なんです。魔導石の産出さえ上手くいっていれば、彼らもこんな暴挙に出なかったはずなのです……」
ビンスの言葉を聞いて、ガンバルフも同調する。
「メヴェ・サルデの次期領主が跪いたのじゃ。メヴェ・サルデはお主たち勇者の領地だと言っても過言ではなかろう。勇者よ、メヴェ・サルデも救ってやったらどうじゃ?」
この二人はまた無責任なことを言う……。と、正義は思った。
ついさっき迄、命を狙われたのだ。救って下さいと言われて、はいそうですか、となるわけが無い。レッドバロンだってこれからどうなるか、わからないのに……。
「なあ、正義。引き受けようぜ」
突然、後ろから正義とは正反対の考えが聞こえてきた。正義は振り向いて勇人を睨んだ。
「正義が怒ってるのはわかる。でも……頼む……」
勇人は街道に転がる、メヴェ・サルデの鉱夫たちの遺体を見ながら言った。
「俺に考えがあるんだ。頼む……」
勇人は言葉少なだが、その目は懇願していた。
勇人の必死な眼差しにため息を吐きながら、正義は沙希を見た。すると、沙希も無言で頷いている。
「……わかったよ」
大剣を女戦士に返すと、正義は馬車へと戻って行った。
× × ×
小さな戦いでも戦後処理は行われる……。
正義が馬車の窓から外を眺めていると、ビンス、ガンバルフ、チーム茜、そしてサリュー子爵とメヴェ・サルデの鉱夫たちが何事かを話し合っている。どうやら、レッドバロン側はメヴェ・サルデ側に埋葬代と路銀を渡すことになったらしい。
埋葬代と路銀を渡すビンスを見ていると、正義は陰鬱な気持ちになった。
「……わたしが渡して下さいって頼んだんだ……」
正義の不満を察して、隣に座る沙希が言った。
「……そうかよ」
正義は短く答えた。好きにすれば良い、俺はもう知らない。という気持ちが今は強い。
「さっきはゴメンね。余計なことして、出しゃばって……わたしたちを守って戦ってくれたのは正義たちなのに……」
「余計なこととは思わないよ。それより……」
正義は先程の言葉を失った沙希を心配した。そんな正義の心配に気づいたのか、沙希は明るく微笑んでみせる。
「初めて戦いを間近で見たから、気が動転しちゃって……。でも、もう大丈夫だよ!!」
気丈に振る舞う沙希の姿が、正義には無理しているように映る。自然と、正義の顔は暗くなり、沙希も眉を寄せて視線を落とす。
「……ねえ正義……正義はもうこっちの世界に来たくなくなった?」
「……わからない」
そう答えて、正義は車窓からサリューたちを見た。
サリューたち一行はビンスにお礼を言って遺体を集めていた。遺体を集める者の中には泣いている者もいる。その涙は正義たちの寛容に対する涙ではなく、死者に対するものだ。そして、その無念の涙が報復の呼び水になる場合もある。
──いらない情けをかけたがばっかりに、後で酷い目に合う……今日の寛容が明日の悲劇になることだってあるのに……。
未来への禍根は断つべきだと正義は考えていた。
しかし……。
沙希のおかげで人を殺さずに済んだ。
怒りに身を任せる一歩手前で踏み止まることができた。
そして、そのことに少しホッとしている自分も居る……。
正義は複雑な心境のまま、出発を待った。
× × ×
「それにしても、みんな遅いわね……」
ついに千葉が体育館の時計を見上げた。時刻は2時を20分程過ぎている。
「え、え、えっと、き、きっと……お天気なので、先にお外で食べてるとか……」
慌てた佳織はシドロモドロになって答えた。
「外で? 二人を放って置いたまま? 西園寺さんがそんな無責任なことする?」
「……しない……です」
千葉に疑問の眼差しを向けられると、佳織は俯いてしまった。
その時。
「ももちゃん先生!! もう空腹で限界です。先にお昼を食べてもいいですか!?」
敬はそう言うと、体育館の隅に置かれた自分のスクールバッグから三つのカップ麺を取り出した。北海道民のソウルフードで学生の友達、『やきめし弁当』だった。
「先生の分も有りますよ!! お湯、ください!!」
「い、いいけど……白鳥君、いつもそんなに持ち歩いてるの??」
「当然じゃないですか!! 基本ですよ!!」
千葉は、「仕方がないわね」という顔つきになった。
「わかったわ。お湯は職員室にあるから、黒田さんも一緒に食べましょう」
千葉はそう言って休憩を促し、三人は一緒になって体育館を出た。
渡り廊下を越えて職員室の手前まで来た時、急に敬が立ち止まった。
「ア゛ッ!? 僕としたことが、スマホを忘れました……取ってきます!!」
敬はわざとらしい仕草で、おでこに手を当てる。
「早く取ってきなさい。先生と黒田さんで先に全部食べちゃうよ」
「はい、わかりました!! 僕の分、取っておいて下さいね!!」
呆れる千葉と、心配そうな佳織をしり目に敬は駆け出した。ダッシュで体育館に戻ると、壁時計は2時半を告げている。
「本当に、僕が勇者で良かったよ。みんなには感謝して貰いたいな……」
敬は体育準備室へ駆け込むと、深呼吸をしてロッカーの扉を開けた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!