こうして、半力さんは置いてゆかれることに決まったのだが、そう決意した瞬間に、とんでもない事が起こった。半力さんが、皮膚病にやられてしまったのである。無論、直ぐに病院へ連れて行ったのだが、これがまた酷いのである。惨状、眼をそむけるものがあった。
半力さんは、体毛を剃りあげられ、何だかよく分からない薬をベタベタと塗られ、体中を包帯でグルグル巻きにされた。こうして、頭としっぽだけがムクムクしてる、包帯まみれの変な生き物が爆誕したのである。勿論、患部を舐めてしまわぬように、エリザベスカラーのオプション付きだ。
「提督ぅー。流石にこれじゃ、誰も可愛がる人はいないかも。飢え死にしちゃうかもしれません」
玄関のプリンツがそういった。
「マジでか」
僕は、ぎょっとした。
「一体、どうしたらいいんだ」
流石に、このまま見捨てる訳にはいかない。僕は、皮膚病が治るのを必死に待った。「七月の末頃には、治るんじゃない?」という病院の先生の言葉であったのだが、その七月もそろそろおしまいになりかけている。契約は今更変えられないから、末日になれば、僕はここを出ていかなければならない。
家財の処分もあらかた終え、後は出発するだけだったのだが、どうにもならなかった。注射も打ってもらったのだが、一向に良くならないのである。見れば見るほど、酸鼻の極であった。
半力さんも、今は己の醜い姿を恥じている様子で、とにかく暗闇の場所を好むようになった。たまに涼しい玄関の敷石の上で寝そべっていることがあっても、僕を見つけると、直ぐに縁の下にもぐりこんでしまう。それでも半力さんは、僕が外出する時には、足音を忍ばせて付いてきた。
ただでさえ、シドの物真似が辛くなってきてるのに、こんな珍妙な生き物と一緒に歩きたくはない。僕はその都度、「分かってるよな?」と言う感じで、黙って半力さんを見つめた。これには大変効き目があった。半力さんは己の醜い姿にハッと思い当る様子で、首を垂れ、シオシオとどこかへ姿を隠す。
「もう放っておくしかないんじゃない? きっと、不治の病なんだよ」
「いやいや、そんな事もあるまい。もう少しすれば、きっと治るさ。最近は少し痩せて来たし、病気さえ治れば、きっと可愛がってくれる人も見つかるに違いない」
「そうかなぁ……」
今日もまた、脳内のプリンツとこんな会話を交わす。我慢するより他はないと思った。いくらなんでも、保健所に連れて行く訳にはいかない。かといって、病気の黒トラなんて連れて帰ったら、赤瀬川さんからドヤされるに決まっている。
僕は、日々が過ぎ去るのをひたすら待った。半力さんの皮膚病は全く良くならず、僕までなんだか、体中が痒くなってきた。深夜にバタバタ身悶えしている物音に、何度ゾッとさせられたかわからない。そうこうしてるうちに、結構期待していた新人賞の落選通知が来たりもして、僕の憤懣は絶頂に達した。
「すべては、コイツの病気のために上手く行かぬのだ。何もかも、悪いことは皆、コイツのせいだ」
僕はしきりに半力さんを呪咀し、ある夜、僕の寝巻に猫の蚤が付いているのを発見するに及んで、これまで堪えに堪えてきた怒りが爆発した。そして僕は、重大の決意をした。ひと思いに殺してやろうと思ったのである。
皮膚病には快方の見込みがない。猛暑で食欲が湧かぬのか、体重もみるみる減っていた。コイツだってきっと、その方が楽なはずだ。保健所の力は借りず、自分でやる。それが、拾った僕の責任だと思った。
勿論いつもの僕だったら、こんな乱暴な決意は絶対にしない。だが、猛暑のせいで少し気が変になっていたし、久しぶりに最終選考まで進んだ自信作が、選者から滅茶苦茶にこき下ろされた挙句、落選に至ったのが悔しくてならず、自暴自棄に陥っていたのだ。おまけに不眠も手伝って、発狂状態であったのだから、たまらない。
猫の蚤を発見した翌日、僕は直ちに大量のちゅーるを買い込み、薬屋に寄ってある種の薬品を買い求めた。毒薬である。人ならば腹を壊すくらいの話で済むが、猫ならば、十分に致死量であるはずだ。
準備はできた。僕とプリンツは少なからず興奮していた。僕たちはその夜、鳩首して今後の事を相談しあった。くどいようだが、このプリンツと言うのは、玄関の(以下略)
翌朝、四時に僕は起きた。人目の気になった僕は、早朝に半力さんを薬殺しようと、目覚し時計を掛けておいたのである。夜はもうしらじらと明け始めていた。これまでの酷暑が嘘のように、その日の朝は肌寒いほどだった。
「最後まで見ていないで、すぐ帰って来るといいわ。提督」
玄関のプリンツが僕にそう告げる。
「心得ている。半力さん、おいで」
半力さんはノロノロと縁の下から出てきた。
僕は、さっさと歩きだした。今日は意地悪く半力さんを見つめたりはしなかったので、彼も自身の醜さを忘れ、いそいそと僕についてきた。街はまだひっそりと眠っている。僕は半力さんと初めて出会った、あの公園へと急いだ。
途中、恐ろしく巨大な黒トラが一匹、半力さんを威嚇してきた。彼は例によって上品ぶった態度を示し、さっさとその面前を通過した。だが、その黒トラは卑劣であった。卑怯にも半力さんの背後から、風のごとく襲いかかってきたのである。半力さんは咄嗟にクルリと身を返したが、少し躊躇し、僕の顔色を伺った。
「やれ!」
僕は大声で、半力さんに命令した。
「あの黒トラは卑怯者だ! 思う存分にやれ!」
許しが出た半力さんは、プルプルと二、三度おしりを震わせた後、弾丸のように黒トラの懐に飛びこんでいった。たちまち二匹は、一つの手毬みたいな姿になり、半力さんの患部を囲う包帯が、どんどん剥がれていった。僕は、二匹の死闘を手に汗して眺めていた。
ほどなく黒トラは、悲鳴をあげて逃げ出した。半力さんよりも遥かに大きい図体をしていたのに、まったく駄目であった。皮膚病までうつされたかもわからない。馬鹿な奴だ。
僕はほっとした。二匹の戦いを見ながら、僕も共に死ぬるような気さえしていたからである。ナンシーと約束したシドのように、「もしお前が死ぬ時は、僕も一緒に死んでやる」と異様に力んでいたのである。
半力さんは、逃げてゆく黒トラを追いかけたが、直ぐに立ちどまって、僕の顔色をちらと伺った。そして、特に得意げな様子も見せずに、僕のほうへと引き返してくる。
「よくやったぞ、半力さん」
僕は久しぶりに、半力さんの頭を撫でてやった。彼はとてもうれしそうな顔をした。僕らは再び歩きだし、小さな橋をカタカタ渡った。ここは僕が、半力さんが初めて出会った場所である。彼は昔、この公園に捨てられた。だからまた、この場所へ帰ってきたのだ。お前のふるさとで死ぬがよい。
僕は立ちどまり、レザージャケットからエサ皿を取り出すと、大量のちゅーるをその中にそそいだ。
「半力さん、食え」
僕は半力さんを見たくなかった。ぼんやりとそこに立ったまま、
「半力さん、食え」
と、もう一回言った。足もとで、ぺちゃぺちゃ食べている音がする。一分もたたずに死ぬはずだ。
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