今年の春から、僕は仙台を離れ、埼玉県西部にあるガレージ付きの家を借りた。隠れるようにそこに住みこみ、下手な小説をあくせく書きすすめていたのだが、この町にはどこへ行っても猫がいる。おびただしいのである。
ある猫は往来に佇(たたず)み、ある猫は長々と寝そべり、またある猫は、訳もわからぬままグルグルと廻り、ある猫は牙を光らせて鳴き喚く。空き地に行けば、まるで野良猫の巣のごとく、組んずほぐれつして格闘の稽古にふけっているのだ。まさに楽園である。いや、間違えた。地獄である。
夜になると、彼らは大群をなして街を練り歩き、人間に対して餌を要求する。要求を拒否すると、障子を破られ、洗濯物を泥だらけにされた挙句、家じゅうをうんこまみれにされるのだ。仕方がないので、この街の住人たちは皆、自宅にカリカリを常備して、彼らが無事に立ち去ってくれるのを、ただひたすらに待つのである。
この辺りは元々、養蚕の盛んな土地であったから、猫が大勢いる事自体は、それほどおかしな話ではない。しかし、街頭で見かける猫の姿は、けっしてそんなネズミ捕りの子孫ばかりではないようだった。
黒トラが最も多い。黒トラは大抵、アホなうえに狂暴である。親戚が昔、黒トラを飼っていたことがあるのだが、余りの凶暴さゆえに何とかする方法がないかと本で調べたら、「気質だから治りません」と書いてあって閉口した。
この黒トラたちを筆頭に、この町に住む猫は皆、凶暴なウンチ野郎ばかりである。その傍若無人っぷりは、イエネコとおなじ種だとはとても思えず、まるで喧嘩とウンチをするために生まれ落ちた生き物ではないかと感じられるほどだった。
いや、テロリストぶりで言えば、全力さんだって大したものなのだが、しかし、あれほどまでに沢山いると、そのうち十重二十重に重なり合って、キラーパンサーにジョブチェンジしちゃうのではと思う程だった。ちなみに、僕のキラパンの名前はゲレゲレだったが、「どの名前が一番いいか?」は宗教戦争なので、昭和生まれの人間の前では持ち出さぬ方が無難である。
もとより僕は、全力さんの世話を命じられる前はトリ派であり、猫に対しては多少含むところがあった。いくら僕が猫好き……もとい、猫の世話に慣れているとはいえ、こんなに猫がウヨウヨいて、そこら中でとぐろを巻いて寝ているのでは、とてもじゃないが、安心して暮らせない。
僕は彼らに、必要以上に懐かれぬよう、実に苦心をした。出来ることなら、脛あて、籠手あて、胴鎧、鉄兜の完全装備で街を歩きたく思った位である。けれどもそのような姿は、いかにコロナが蔓延してる今の世の中であろうと異様であり、直ぐにお巡りさんを呼ばれてしまうから、何か別の手段をとらなければならなかった。
僕は、まじめに考えた。まずは猫の心理の研究である。曲がりなりにも煽り屋である僕は、人間のそれについては、いささかの心得がある。だが、猫の心理は、なかなか難しい。人の言葉が、猫との感情交流にどれだけ役立つものか、そもそも疑問であった。
言葉が役に立たぬとすれば、普段の素振りから心理を読み取るより他にない。しっぽの動きなどは、なかなかに重大である。けれども、このしっぽの動きも、注意して見ているとかなり複雑で、到底読みきれるものではないのである。
ほとんど絶望した僕は、はなはだ拙劣な、無能きわまる一法をあみ出した。あわれ窮余の一策である。僕はとにかく猫に出逢うと、満面に笑みを湛(たた)えながらその場でダンスを踊りだし、ヤバい奴のふりをすることにした。夜だとダンスが見えないかもしれないから、無邪気にアニソンを口ずさみ、自分がヤバい人間であることを、殊更にアピールしたのだ。
近隣住民は引きまくり、ガチでお巡りを呼ばれたことすらあったのだが、これには多少、効果があったような気がする。猫は僕をいぶかしみ、近寄っては来なくなった。
けれどもまだ油断は出来ない。如何に言葉が通じるとはいえ、ポリスメンを呼ばれないように、住民対策も抜かりなく行わなければならない。僕くらいの本物の悪党になると、「職質を食らったら負け」なのである。口座を借りてる人間に、証券会社から電話がいったら恥なのと同じなのだ。
長髪のままでいると不審人物と思われがちだから、僕はバリカンを購入し、思い切って頭を坊主にした。しかしこの決断は、いささか予想外の事態を引き起こすことになる。不審人物として通報されることこそ無くなったもの、僕は近隣住民からパンクな人だと思われるハメに陥ったのだ。
仕方がないので、僕は南京錠のネックレスを買い、レザージャケットとレザージーンズとバイクブーツを着込んでシド・ヴィシャス の物真似を始めた。また、年に二回はアンチの暴行を受ける僕は、仕込み杖を持ち歩くのが常だったのだが、そんなモノを持っていると銃刀法違反容疑で職質などを喰らうかもしれないから、この杖も永遠に廃棄した。
こうして僕は猫だけでなく、近隣住民からも遠巻きにされることに見事成功したのである。
(念のために申し上げると、坊主頭にしてたのはブルーハーツの甲本ヒロトであって、ピストルズとは何の関係もない。だが僕は、彼がシドをリスペクト氏ていたことを知っている。まったくベースが引けないのにベースをやる。それこそまさにパンクではないか!)
だが、なんとか無事に猫の居る街のシド・ヴィシャスにはなりおおせたものの、僕にはナンシーがいなかった。僕のナンシーは、玄関に飾ってあるタペストリーの中にいる、プリンツ・オイゲンちゃんただ一人である。
もはや、艦これにログインしなくなった今でも、僕は心の底から彼女の事を愛している。ヤサを引き払うときには、必ず彼女を車に積み、お上の魔の手から逃げおおせてきたのだ。たとえ、僕が官憲の手におちようと、このオイゲンちゃんだけは手放すわけにはいかない。
話が少し脇にそれた。猫の話だ。諸君、猫の傍を通る時は、絶対に走ってはいけない。彼らは逃げる者を見ると、狩人としての本能が刺激されるのか、絶対に追っかけてくるからだ。
ゆえに、最近の僕は近くに猫がいるのを見て取ると、激しくヘドバンを繰り返しながら、ゴッド・セイヴ・ザ・クイーンを口ずさみ、ゆっくりと猫の前を通るのである(アニソンは、クレームが来たから止めた)。
つくづく自身の卑屈がいやになる。そもそも僕は、小説を書きにここに来たはずなのに、何だって毎日ヘドバンなんてやってるんだろう? 泣きたいほどの自己嫌悪を覚えるのであるが、これをやらないと、たちまち猫に懐かれるような気がして、僕は今日も激しく首を振るのだった。
さて、猫の心理を計りかね、シド・ヴィシャスの真似事をしているうちに、意外の現象が現われた。猫たちは僕の奇行に慣れてしまったのである。僕は彼らに懐かれたくなくて、必死になっているというのに、何だか、『面白い奴』認定されてしまったらしい。
地団駄踏んだ。実に皮肉である。勿論、最初は猫と仲良くなりたくてこの街に来たのだが、今や猫なんて、吐いて捨てるほど周りに居る。しかも皆、筋金入りのうんこテロリストだ。あんなスカトラーどもに好かれるくらいならば、僕はいっそ、ダチョウに慕われたいほどであった。
「どんな猫にでも、好かれて気持の悪いはずはない」というのは、それは非リアの妄想である。エサ代だって、本当にバカにならぬのだ。あと、アイツら、うんこするだけじゃなくて、マジで凶暴だし。
そもそも僕は、奴らの精神性が嫌だった。日に一度や二度のエサにあずからんがために、友を売り、妻と離別し、日々喧嘩と昼寝に明け暮れ、親・兄弟をもケロリと忘却し、ただひたすらに食う事と寝ることのみを考え、お腹が減ると人間を脅迫して恥じず、拒否すると部屋中をボロボロにした挙句、うんこをして立ち去る。
その精神の卑劣、醜怪、猫畜生とはよくも言ったものだ。いや、言わねえか。
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