涙色の夢路(ゆめ) ~この想いは、永久(とこしえ)に~【上】

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第10話 ~行き場のない想い~

公開日時: 2022年3月12日(土) 21:50
更新日時: 2022年3月12日(土) 21:52
文字数:3,033

 部屋に月明かりが差し込んでいる。

 あたしはあれから自分の布団に戻り、寝てしまっていた。


 変な時間に起きちゃったな……。


「――さんを助けたかったのですが……、治療の施しようがないですね」

「……何を言いゆうがですか?」

 40代から50代くらいの男性と龍馬さんの声だ。


 隣を見るけれど、陽之助さんの姿はない。

 あたしは布団から出て、部屋の襖を開けた。


 龍馬さんが、ツカツカと男性の元へ歩み寄っている。

 何があったのかはわからないけれど、その瞳は怒りに満ちていた。


「龍馬……さん……」


 今まで見たこともない龍馬さんの様子に、あたしは驚いた。これ程までに怒っている龍馬さんを見るのは、初めてだ。

 肩くらいまでの黒髪をオールバックにしている中年男性は、平然として龍馬さんを見上げている。


 男性の目の前まで来ると、龍馬さんは怒鳴った。

「洪庵先生は医者ですろう!? 患者の病を治すことが仕事ですろう!? どういて、萌華の病1つ治せんがですか!?」


 え……!? あたしの話……!?


「――何を言われるのですか?」

 洪庵先生と呼ばれた中年男性が、先程の龍馬さんと同じ言葉を返す。恐らくこの人が、高杉さんの言っていた緒方洪庵先生だろう。


 陽之助さんも龍馬さん達と同じ場に居て、とてもしんどそうな顔をしていた。


「確かに、医者は患者の病を治すことが仕事です」

「ほいたら!」

「ですが、」

 龍馬さんの言葉を遮るように、洪庵先生が透かさず口を開く。


「どんな病でも治せるというワケではないのです。医者は神ではないということを、お忘れなきよう」

 医者は神ではない――その通りだ。


 龍馬さんも、暫く何も言えないでいた。


「けんど……治療法が無いき言うて、諦めるがですか!? これは『治るか治らんか』やない!! 『治すか治さんか』の問題ですろう!!」


治らぬものは治らぬのです。医療にも、限界があります。

 今までも、重き病に蝕まれた患者様が『治したい』と望まれていて、周囲の方々が『きっと治る』と信じて励ましておられ、私達医者が『何とか治して差し上げたい』と願って尽力したことは、何度もありました。ですが――治ったのは、ほんの一握りの患者様です」


 洪庵先生があたしに気付き、龍馬さんから視線をらす。

 すると龍馬さんや陽之助さんも、あたしに視線を注いで来た。

「萌華……」

 龍馬さんがあたしの名を呟く。


「『治したい』『きっと治る』『治して差し上げたい』――そんな気持ちだけで病に勝てるなら、医者も薬も必要ないでしょう


 治す為には、最終的には医療に頼らざるを得ない。難病や不治の病であれば、尚更だ。


「医者がそんなことでどうするがですか?」

 龍馬さんが、静かな声音で告げる。


「どういてその一握りの希望に賭けられんがですかッ!?」

 何処か冷ややかで――それでいて怒りに燃える瞳。


「貴方は何の為に、萌華さんの病を治せと私に迫るのですか?」

 洪庵先生が訊き返す。


 龍馬さんが、一瞬目を伏せた。


「萌華を助けたいゆう以外に、何の理由があるがですか?」


 あたしは目を見張る。


 助けたい?

 どうして龍馬さんが、そんなことを思ってくれるんですか?


 洪庵先生が嘲笑した。

「助けたい、ですか……」

 そう呟いて、洪庵先生は龍馬さんを斜めから見上げる。


「随分とキレイな言葉ですね」

 洪庵先生の声が、廊下に響いた。


 龍馬さんは何も言わず、洪庵先生を見下ろす。


「助けたいなどという想いだけで病が治るのであれば、医者も薬も必要ないのです。貴方に何が出来るのですか?」


 龍馬さんが眉根を寄せた。

 陽之助さんは姿勢を崩し、激しい咳にハァハァと喘いでいる。


 洪庵先生のその言葉は、龍馬さんだけでなく、あたしにも向けられているような気がした。


 あたしも、吹雪の中で血を吐いて苦しむ陽之助さんに対し、「死なせたくない」なんていうキレイ事を口にした。でも実際、彼にしてあげられることなんて――ほんの少ししかない。あの日のあたしは苦しむ陽之助さんを安心させたくて、キレイな言葉を並べ、彼のことを救える――そう思ってしまっていた

 「死なせたくない」なんて――とても無責任な言葉だった。


 洪庵先生の言う通りだ。あたしに、何が出来るのだろう


「ケホッゴホゴホッ!! ……ッゥ……ゴホッ、エホ……ッ!! ……ハァ……ハァッ……」

 苦しげな咳が、あたしの傍で響く。


 胸の上辺りまである陽之助さんの下ろした髪が、咳の度に揺れた。

 心配しているのか、龍馬さんが陽之助さんを一瞥する。

 あたしが振り返ると、龍馬さんと目が合った。


「ゲホゲホゲホッ……ゴホゴホッゴホ……ッ!! ゲホッゴホッ……ゲホォ……ッ!! うゥ……ゲホッゴホンッ!!」


 激しい咳、液体が滴る音――。


 あたしは驚いてハッと息を呑み、陽之助さんの方を見る。

 緋色の水が、肩で息をする陽之助さんの手の甲を伝っていた。


「陽之助さん!」

「陽之助ッ!」

 あたしと龍馬さんは、彼の名を叫んだ。


 鮮血が、彼の色白な肌を染めた。

 龍馬さんが、激しい咳と喀血に苦しむ陽之助さんの背中を撫でる。


 洪庵先生は、喀血に喘ぐ陽之助さんを見下ろすだけで――何もしなかった


 龍馬さんが背後に居る洪庵先生に鋭い視線を飛ばし、立ち上がる。

 そして、洪庵先生の方へ歩み寄って行った。底知れない怒りが、背中越しに伝わって来る。


「この藪医者……!!」

 龍馬さんが、怒りに拳を震わせた。だけど彼は、手を出そうとはしない。


 そんな龍馬さんを鋭く睨み、洪庵先生が告げる。

「労咳が不治の病であるということは、貴方が誰より知っているハズです


 龍馬さんが、ハッと目を見開いて歯噛みした。

 どうしたんだろう?


 ――その瞬間ときだ。


「何を言うちょるんじゃ!!」

 鋭い声がしたかと思うと、洪庵先生が何者かに殴り飛ばされていた。


 あれは……!


 短く黒い髪、痩せているが筋肉の付いた体――高杉さんだ。だけど唯一違うのは、彼の藍色の瞳が血のようなあかに変わっていることと、その手の甲に黒い桜の痣が浮かび上がっていることだった。


 これは、一体……!?


「高杉さん!!」

 あたしは、洪庵先生を殴り飛ばした人物の名を叫ぶ。


 高杉さんは冷ややかな眼差しを洪庵先生に投げながら、顔を歪めて立ち上がろうとする洪庵先生を、容赦なく蹴り飛ばした。


「君に医者を名乗る資格はない!! 陸奥君が苦しんじょるのが見えんのか!!」

 床に倒れ伏した洪庵先生を、何度も蹴り付ける高杉さん。


 やがて高杉さんが蹴るのを辞めた後、ゆっくりと立ち上がって洪庵先生が言った。

「……病人如きが、元気なものですね。見たところ、あれを飲んだようですし……元気なのは当然ですが」


 どういうことだろう?


「陽之助さん、貴方にも差し上げましょうか? 効果のある薬があるのです」

 洪庵先生が言う。


 そして、1本の小さなガラス瓶を取り出した。中に赤い液体が入っている。


「これはかげくれないといい、私が発明した薬です」


 その場に居る全員が、赤い液体の入ったガラス瓶――影紅に視線を注いだ。


「影紅?」

 あたしは口を開いた。

 洪庵先生は、あたしを見て頷く。

「これを飲むとどんな傷病も治り、超人的な力を発揮出来るようになります」


 どんな傷病も治る


 あたしの中に、1つの疑問が浮かんだ。そんな霊薬があるのなら、何故今まで出さなかったのだろう?


「……差し上げましょうか?」

 洪庵先生が、陽之助さんに尋ねる。

 陽之助さんは、暫く影紅を見つめていた。

「……」

 中に入っている液体が、何処か怪しげに揺れる。


「……頂きますわ」

 そう言って、陽之助さんが影紅を受け取る。


 影紅を手渡した洪庵先生の口元が、何故か不敵に歪んだような気がした。

【第10話の用語解説】

※『涙色の夢路ゆめ【解説・設定資料集】』にて、更に詳しく説明しています。


❀歴史的用語❀

・労咳…現在でいう肺結核。


❀オリジナル用語❀

・影紅…緒方洪庵が発明した薬。

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