半世紀の契約

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第2章 面倒くさい男、面倒くさい女

(1)思いがけない話

公開日時: 2021年2月27日(土) 23:32
更新日時: 2021年3月6日(土) 23:43
文字数:6,594

日中、病院で担当医と協議した内容について、美子は頭の中で再度考えを巡らせてから、姉妹揃っての夕飯の席で口を開いた。


「皆に、言っておかなければいけない事があるんだけど……」

「何? 姉さん」

 他の者は急に重々しく言い出した美子に何事かと訝しむ顔を向け、代表するように美恵が問い返した。それを受けて、美子が慎重に本題に入る。


「お母さんのお見舞いについてなんだけど……、今までは正午から六時までの面会時間に各自都合の良い時間に行っていたけど、今度からは二時から四時の間だけにして頂戴」

「どうして? そうなると下校してから、病院に寄る事ができなくなるんだけど……」

 困った様に美野が申し出た横で、美幸も無言で頷いたが、美子は若干躊躇しながらも、用意しておいた台詞を口にした。


「この数日で急に寒くなってきたから、お母さんの体調があまり良くなくてね。面会謝絶まではしないにしても、あまり疲れないように面会する人間を制限しましょうかって、主治医の先生と話し合ったの」

「お母さん、そんなに具合が悪いの?」

 途端に心配そうに尋ねてきた美野に、美子はできるだけ優しく言い聞かせた。


「それほど酷くはないけど、念の為に大事を取るって事よ。だからお見舞いに行くのは、学校がお休みの時にね」

「はい……」

 そこで元来素直な美野は残念そうにしながらも一応頷いたが、横から美幸が更なる問いを発した。


「美子姉さん。それじゃあクリスマスとか年末年始に、お母さん一時帰宅できないの?」

 真っ向からそう尋ねられた美子は、ここでこれ以上誤魔化すのは諦めた。


「そう、ね……。そうなるかもね」

「……そんなの、やだ」

 俯いてボソッと文句を言った美幸を、美野が渋面になりながら窘める。


「美幸、仕方ないでしょう?」

「御馳走様でした」

「ちょっと美幸! まだ食べ終わってないじゃない。待ちなさい!」

 そして食事を中途半端にして走り去った美幸を、美野も叱りつけながら慌ただしく追いかけて行った。暫くしても戻って来ない二人の様子を部屋まで見に行った美子だったが、結局二人とももう食事は良いと言う話になり、溜め息を吐いて食堂に戻った。


「さっきのは、どういう事?」

 食べ終えてから美子が台所で洗い物をしていると、台所の入口に寄りかかる様にして美恵が尋ねてきた。しかし美子はチラッと背後に視線を向けたものの、すぐに向き直って洗い物の手を止めないまま言い返す。


「質問するつもりなら、もう少し分かりやすく聞いて欲しいんだけど?」

「母さんの具合、そんなに悪いわけ?」

 単刀直入に切り込んできた美恵に、美子は水の流れを止めながら淡々と告げた。


「そうよ。あなたも、そのつもりでいて頂戴」

 未だに自分達に背中を向けたままの美子に、美恵は無言で顔をしかめてから、問いを重ねた。


「それは分かったけど……、薄々感づいてる美実はともかく、あの子達はどうするの?」

 下二人には知らせないままなのかと、暗に責める様に告げると、美子は再び水を出しながら応じた。


「そのうち、私かお父さんから伝えるわ」

「そう……。それなら私からは余計な事は言わないわ。美実にもそう言っておくから」

「お願い」

 相変わらず背中を向けたままの姉に、物言いたげな視線を向けたものの、美恵はそれ以上突っかかる様な真似はせず、黙ってその場を去った。


 ※※※


 平日ではあったが、偶々休日出勤の代休を午後から取った秀明は、昼食を済ませてから深美の入院先へと足を向けた。 これまで通り面会の受付をして病室に向かった秀明だったが、ここで病室内の変化に気付く。


「深美さん……」

 どうやら熟睡しているらしい深美の、口と鼻をきちんと覆っている透明な立体型のマスクと、壁に付けられたコポコポと音を立てているボトルや床の小さなボンベを少しの間無言で見下ろしていると、ドアが開いて美子が現れた。


「あら……、来てたのね。今日は仕事じゃなかったの?」

「午後から代休でね。これはいつからだ?」

 目線で問うと、美子は冷静に答えた。


「三日前からよ。心機能と平行して、肺機能も低下しているみたいで、血中酸素濃度と動脈血中酸素分圧が低下しているのが分かったの。まだ症状としては軽い方だから人工呼吸器じゃなくて酸素吸入器だけだし、起きている時は外すようにしているしね。食べる量もかなり減っているけど、可能な限り経管栄養とかには切り替えない方針になっているわ」

「……そうか」

 説明を聞いて神妙に頷いた秀明を見て、ここで美子は失敗したと言う様な表情で言い出す。


「家族や身内には確実に起きている時間に見舞いに来る様に、さり気なく誘導してみたけど、あなたに言うのを忘れていたわね」

 自分が数に入っていなかった事は気にせず、ここで秀明は別な懸念を口にした。


「妹達には説明したのか?」

「美恵と美実は、見舞いの制限を告げた段階で察したわ」

 その言葉の裏側を悟って、秀明が軽く眉を顰める。

「美野ちゃんと美幸ちゃんには?」

 その問いに美子は直接答えず、秀明の手にしている物に目線を合わせながら片手を差し出した。


「まずはお花ね。お茶はその後に出すから、ちょっと待ってて」

「それはどうも」

 皮肉っぽく笑いながら小ぶりの花束を差し出した秀明からそれを受け取った美子は、棚にしまってある花瓶を取り出して病室を出て行った。そして彼女が花を活けて戻って来る間に、ベッドサイドに椅子を出して座っていた秀明は、窓際に花瓶を飾ろうとしている美子の背中に、声をかける。


「それで? 下の二人には、いつまで隠しておくつもりなんだ?」

「……どうしようかしらね?」

 何やら花の配置を直しながら、問い返す様に呟いた美子に、秀明は軽く眉根を乗せてから口調は笑いを堪える様に言ってみた。


「赤の他人に意見を求めるとは、らしくないな」

「誰もあなたの意見なんか求めていないし、ちょっと口にしてみただけよ」

「それは悪かった」

「第一、『らしくない』って言うなら、『私らしい』ってどういう事よ?」

「分かった。悪かった、降参だ」

 振り返ってきつめの眼差しを向けてきた彼女に、秀明は両手を軽く上げて降参の態度を示す。すると美子は面白く無さそうに棚からカップとティーバッグを取り出して、無言のまま部屋を出て行った。


「相変わらず、俺の前では不機嫌そうだな」

 苦笑しながらそんな事を呟いた秀明は、また眠っている深美の顔を無言で眺めた。すると戻って来た美子が、両手に持っているカップの片方を、秀明に差し出す。


「どうぞ」

「どうも」

 秀明が受け取ると、美子は秀明とはベッドを挟んで反対側に椅子を出し、それに腰を下ろした。そして二人で無言で何口か紅茶を飲んでから、秀明が徐に口を開く。


「この前の……」

「何?」

「弁当が美味かった」

「はぁ?」

 一瞬何を言われたのかが分からなかった美子は、まじまじとベッドの向こう側にいる秀明の顔を眺めてから、呆れた様に言い返した。


「いきなり何を言い出すのかと思ったら、今更?」

「直接、顔を合わせた時に言おうと思ったからな」

 あくまでも真顔を崩さない秀明に、美子が肩を竦める。


「そんなお世辞、それこそらしくないわよ。人の事を言えないじゃない。美味しかったのなら、食べている時に誉めなさいよ」

「美味しかったのは勿論だが、他の事に気を取られていた」

「他の事って?」

 不思議そうに首を傾げた美子に、秀明は本当に彼らしくなく若干躊躇する様な素振りを見せてから、静かに言い出した。


「深美さんに弁当を作って貰った時の中身と、この前の弁当のおかずの種類がほぼ同じで、重箱と味付けが同じだった」

「え?」

 再び当惑した顔付きになって、瞬きを繰り返した美子は、当然の疑問を口にした。


「ちょっと待って。どうしてお母さんと入院中に知り合ったあなたが、お母さんにお弁当を作って貰えるのよ?」

「今まで隠してたが、俺が深美さんと知り合ったのは、前回の入院中だ。彼女が退院してから、何回か外で会ってた」

「何ですって?」

 本気で驚いた美子に向かって、秀明は真顔で打ち明け話を続ける。


「勿論社長は知ってたぞ? 深美さんが『昌典さんが嫉妬しないように、秀明君とデートだってちゃんと言っておくわね?』って言ってたから。……そのせいで、その翌日とかに会社で嫌がらせめいた事をさせられたり、言われたりしたが」

 最後の方は若干目が泳いでいた秀明を見て、美子は微妙に顔を引き攣らせた。


「……父が意外に嫉妬深くて、心が狭い事を初めて知ったわ」

「それで二人でどこかに行こうかという話になった時、深美さんが『ピクニックしましょう』と提案したんだ」

「母はどうして、ピクニックをしたがったのかしら?」

 素朴な疑問を口にした美子だったが、それに秀明ははっきりと苦笑いと分かる笑みを浮かべながら話し始めた。


「俺の母は忙しく働いていて、普段どこにも連れて行って貰えなかったんだが、亡くなる直前何を思ったか、突然『秀明の好きな物一杯入れてお弁当を作って、ピクニックに行こう』とか言い出したんだ」

 そこでいきなり話題が変わった事を不思議に思いつつも、美子は話の先を促した。


「それで? 二人で行ったの?」

「俺が『何で休みの日に、わざわざ早起きして弁当作って出かけなきゃいけないんだ。ゆっくり休んでろよ』と言って、結局行かなかった」

「それは……」

 彼なりに、普段忙しく働いている母親を気遣っての台詞だったのだろうと、容易に見当が付いた美子だったが、そんな事を指摘されたい為に相手がわざわざ口にしたのではないであろう事も分かっていた為、余計な事は言わずに口を噤んだ。


「その後すぐ、母が体調を崩して入院して、病気なのが分かった途端、あっという間に悪化して死んだものだから、俺にしては珍しく、その時の事を、少しだけ後悔していてな」

 自嘲気味に言ってはいたが、変に湿っぽく無い分、逆に秀明がその事を相当意識しているのを何となく感じ取った美子は、調子を合わせて淡々と言ってみた。


「せっかく誘ってくれたのに、行けば良かったって? それでそれを、それより前に母にポロッと愚痴った事があったとか?」

「まあ、そんな所だ」

「本当に、らしくないわね」

 素っ気なく言って美子が紅茶を一口飲みながら秀明の様子を窺うと、彼も同様に喉を潤していた。それを見ながらある事を思い出した美子は、言い難そうに言葉を絞り出す。


「お母さんと言えば……。その……、悪かったわ」

「何の事だ?」

 いきなり謝られて秀明は本気で当惑したが、美子はこの機会に言ってしまおうと言葉を継いだ。


「だから……、二年前に、あなたの母親の事について、かなり失礼な事を言った覚えがあるし。愛人云々とか、何をどう考えてあなたを産んだのかとか。一度ちゃんとその事について、謝らないといけないとは思っていたんだけど……」

 俯き加減でそんな事を言われて、秀明は漸く該当する事柄を思い出した。しかしすっかり記憶の彼方に葬り去っていた内容であり、まだそんな事を気にしていたのかと正直おかしくなりながら言葉を返す。


「ああ……、俺がいつもふてぶてしいんで、つい謝るのを忘れていたと?」

 含み笑いでそんな事を言われて、美子の顔が僅かに引き攣る。

「自覚があるのなら、普段の態度を少しは改めて欲しいんだけど」

「無理だな。まあ、あの時の事は別に本当の事だし、別に気にしてない。俺も相当失礼な事を言った覚えがあるし、相殺だと思っていたんだが」

「そう言って貰えると嬉しいわ」

 若干強張った笑みの美子を見て、秀明は笑いを堪えながら話を元に戻した。


「それでピクニックの話なんだが、深美さんは行く気満々だったが、体調を考えると下手に遠出するわけにはいかなかったからな。社長にどこに行くのが良いか相談したら、『新宿御苑にしろ』と指定されたんだ」

 それを聞いて、美子はこの前の一件を思い返した。


「ひょっとして……、だからこの前新宿御苑に行ったの?」

「ああ。何となく外で食べたくなったら、そこが頭に浮かんだ」

「納得したわ。でもどうして父は、新宿御苑を指定したのかしら? 私達は連れて行って貰った事が無いんだけど」

「若い頃、あそこで二人でデートしたらしい。園内を二人で散策している最中、深美さんが当時の事を思い出しながら、『あの時昌典さんがああだった、こうだった』と、盛大にのろけまくっていた」

 素朴な疑問に真顔で言い返されて、美子はがっくりと項垂れた。


「……本っ当に心が狭いわね、お父さん」

 その心底うんざりした口調に、秀明が思わず笑みを零す。

「バラが綺麗で、歩くのにも良い時期だったしな。深美さんが凄く喜んでた。『一度、息子とデートってしてみたかったのよ』って」

 それを聞いた美子は、俯いたままカップの中に残っている紅茶を見下ろしながら、低い声で呟いた。


「やっぱり一人位は、息子を産みたかったのかしらね」

 その幾分沈んだ声に、秀明は事も無げに言い返す。

「俺の母は可愛げの無い、反抗期真っ盛りの俺を見て『男の子ってつまらない。女の子だったら飾り立てたり、一緒に仲良く買い物とかもできるのに』とか言ってたがな。俗に言う『隣の芝は青い』って奴だろう」

「そうね……」

 しかしそのまま美子が俯いている為、秀明は一瞬舌打ちを堪える様な表情になってから、それを綺麗に消しつつさり気なく話を元に戻した。


「それでその時、深美さんが『頑張っていつもより二時間早く起きて作って来たの。男の子だからこれ位は食べるわよね!』って言われて出された重箱と、あの時の重箱の中身がほぼ一緒で、あの時驚いたんだ」

 それを受けて、美子は顔を上げて深美の顔を見ながら考え込んだ。


「『男の子』って何よ……。だけど言われてみれば、確かに母も私も、五人がそれぞれ好きなおかずをあの重箱に詰める事にしているから、自然と内容が似る事になってもおかしくないわね」

「なるほど……、そういう事か。納得した」

 味付けが同じ事はともかく、内容が酷似していた事の理由が分かって、秀明は素直に頷いた。と同時に、当時を思い出して小さく溜め息を吐く。


「だが食べた後、深美さんが糸が切れた様に熟睡してしまったからら、早起きさせてそんなに疲れさせたのかと、あの時かなり焦ったな。起こした方が良いのかどうかと、結構真剣に悩んだし」

 恐らく目の前の男にしては珍しく、相当狼狽したのだろうと言う事が口調から察する事ができた美子は、思わず小さく笑った。


「確か二時間早く起きたかもしれないけど、お弁当作りに丸々二時間、根を詰めたって事じゃ無いと思うわよ? 下拵えをしておいた物を調理して詰めて、それをきちんと隠して何食わぬ顔で朝食の準備をするのに必要な時間だったんでしょうし。……だけど本当に、全然気がつかなかったわ。お母さんったら、その時一体どこに重箱と水筒を隠してたのよ」

 最後は若干腹立たしげに自問自答した美子を見て、秀明は笑いを誘われた。その気配を察した美子が、皮肉っぽく声をかける。


「でもこの前は、そっちが熟睡してたわよね。一瞬、置いて帰ろうかと思ったわ」

 しかし秀明が負けじと言い返す。

「俺が起きた時は、そっちだって熟睡してただろうが」

「だってお天気も良かったし。目の前でひとりだけグースカ寝られたら、腹も立つわよ」

「それは悪かった。確かに全面的に俺の落ち度だな」

 素直に笑いながら自分の非を認めた秀明に、美子が途端に警戒する視線を向ける。


「……気味が悪いわね。そこまで殊勝な事を口にするなんて。今度は何を企んでるの?」

 その不機嫌そうな顔を見て、秀明は何とか笑い出すのを堪えた。


「素直に謝っているだけなんだがな。じゃあ俺だけ先に寝るのは腹が立つなら、今度は一緒に寝るか?」

「公園で二人でごろ寝って、端から見たら相当変よ? 二度と御免だわ」

 如何にも面白く無さそうに顔を背けた美子に、秀明はくすくすと笑いだした。するとここまでの会話で自然に意識が覚醒したのか、深美が小さく声をかけてくる。


「美子?」

「あ、お母さんごめんなさい。煩くて起こしちゃった?」

 慌てて顔を向けた美子に、深美は口元からマスクを外しつつ微笑んだ。


「そういう事では無いから、大丈夫よ。秀明君も来てくれたのね」

「ええ、今日は午後から代休を入れたので」

「今、看護師さんを呼んで、機械を止めて貰うわ」

 そして美子はナースコールで看護師を呼び出し、その後は深美には横になって貰ったまま、暫くの間三人で他愛の無い話をして過ごした。


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