翌朝、いつも通りの時間に起きて、いつも通り台所でエプロンを付けて朝食を作り始めた美子だったが、いつもとは異なる背後の気配に、心底うんざりしながら振り返って文句を口にした。
「……て、……から、……い」
「さっきから、そこで何をブツブツ言っているの? 鬱陶しいから止めて欲しいんだけど」
美子としては当然の主張だったのだが、背もたれの無い椅子に腰掛け、作業用のテーブルに肘を付いてふてくされている秀明は、如何にも面白く無さそうに、愚痴めいた呟きを漏らした。
「これだから……、情緒を解しない奴は」
それを美子は、鼻で笑い飛ばす。
「情緒? 随分似合わない言葉を口にするわね。だいたいこれまではそっちの方が、用が済んだら女に構わないで、さっさと一人で部屋を出ていたんじゃないの?」
「…………」
図星だったらしくそれきり黙り込んだ秀明に、(少しは弁解しなさいよ)と美子は呆れ果てながら、手元の出汁巻き卵を一口サイズに包丁で切り分け、菜箸で掴み上げて秀明の所に持って行った。
「はい、あ~ん」
そう言いながら差し出された物を秀明は一瞬驚いた様に凝視したが、すぐに素直に口を開け、口に入れて貰った。そして彼が味わって飲み込んだのを確認してから、美子が尋ねる。
「どう?」
「美味い」
「良かった。これが美恵が作るとスクランブル寸前の代物になって、美実だと若干塩味が効き過ぎて、美野だと薄味好みだから出汁が今一つで、美幸だと時々細かい卵の殻が混ざるのよ。そういうのを食べたいの?」
にっこり笑いながらの問いかけに、秀明は迷わず即答した。
「いや、美子の作った物が良い」
「そうだろうと思って早起きして作っているんだから、ガタガタ文句を言わないの。第一、まだ本調子じゃないんだから、大人しく布団で寝てなさい」
「……分かった」
そう答えたものの立ち上がる気配の無い秀明に、美子は再び振り向いて尋ねた。
「客間に戻らないの?」
「大人しくしてる」
真顔で言い返された美子は、思わず溜め息を吐いた。そして説得を諦めて、再び彼に背中を向けて調理を続行する。
(一人で居たく無いのかしら? 本当に手がかかるわね。そう言えばお母さんがあの手紙で、この人の事を『構ってあげないと寂しくなって死んじゃう黒兎』って言ってたっけ。だから昨日咄嗟に『肉食系黒兎』なんて思ったんだわ)
そんな事を考えて、思わず美子がクスクスと笑ってしまうと、秀明が訝しげに声をかけてきた。
「何がおかしいんだ?」
「別に、大した事じゃ無いんだけど。それより江原さ」
「秀明」
「え?」
「俺の事は名前で呼べ」
自分の話を遮り、押し付けがましく言ってきた秀明に、振り返った美子は困った顔をしながらも、取り敢えず妥協してみた。
「……秀明さん?」
「取り敢えずはそれで良いか」
僅かに顔を顰めたものの、秀明もあっさり妥協する事にしたらしく、それ以上強くは言わなかった。それに美子は安堵しつつ、遠慮せずに彼に仕事を言いつける。
「じゃあ秀明さん。ここに居るなら手伝って。ご飯茶碗と汁椀を七人分、背後の食器棚の中段にあるから、そこから取ってテーブルに置いてね」
「……分かった」
そこで溜め息を吐きながら立ち上がった秀明は、素直に食器棚に向き直り、該当する物を取り出してテーブルに並べた。それを確認した美子が、調理の合間に次の指示を出す。
「次は角皿の小さい方と、小鉢も七つずつ出して」
それに無言で従った秀明は、テーブルに揃えて美子にお伺いを立てた。
「これで良いのか?」
それを受けて振り返った美子は、笑顔で頷いて彼に近寄る。
「ええ、ご苦労様。ちょっと屈んで?」
「こうか?」
要求通りに秀明が上半身を傾けると、それほど身長差が無くなった彼の頬に、美子が軽く身を乗り出す様にしてキスをした。それを感じた秀明はゆっくりと上半身を起こしてから、少し驚いた様に美子を見下ろす。
「……何だ?」
「何って……、ご褒美?」
「…………」
軽く首を傾げながら答えた美子だったが、秀明が無反応だった為、若干気分を害しながら尋ねた。
「……何? 気に入らないの?」
「他に何をすれば良い?」
しかし真顔で問い返された為、美子は遠慮なく次の要求を繰り出す。
「えっと、そうね……。一番右の引き出しに箸が入っているから、七人分の七膳と、箸置きを取ってくれるかしら」
「分かった」
何となく機嫌良さげに答えた秀明が、早速該当する引き出しを開けたが、すぐに困惑した声を出した。
「箸は分かったが、箸置が七つ、種類がバラバラに入っているんだが……。これで良いのか?」
それを聞いて、自分の説明不足を悟った美子は、流しに身体を向けたまま説明を加えた。
「普段使いの物は、各自、好きな物を買って使っているのよ。お母さん用は三枚連なった紅葉だから、それ以外の六つをそこから出して。それと秀明さん用に左隣の引き出しから、お客様用に数を揃えてある箸置きから一つ取って欲しいんだけど」
「この紅葉を使ったら駄目か?」
「え?」
唐突な申し出に美子は思わず振り返ったが、秀明が問題のそれを神妙に手にしているのを見た美子は、笑って頷いた。
「良いんじゃない? 今は誰も使っていないし」
「それなら使わせて貰う。……これで良いか?」
許可を貰った秀明は嬉しそうに指示された物を全て揃え終え、美子に声をかけた。そしてコンロの火を止めて振り返った美子は、満足そうに頷いてみせる。
「はい、どうもありがとう」
「頬じゃなくて、こっちが良い」
お礼の言葉に対して、秀明が自分の口を指差しながら言い返された美子は、一瞬言われた意味が分からなかったが、すぐにそれを悟って渋面になった。
「自分からだとやった事がないから、どんな角度にすれば良いか分からなくて、難しいのよ。鼻が当たりそうで」
そんな真っ正直な申し出に、秀明は尤もだなと納得し、彼女の顎と腰に手を伸ばしながら、真顔で言い聞かせる。
「仕方がないな。教えてやるから早く覚えろよ?」
「分かったわ。自主学習しておくから」
「誰とする気だ?」
「さあ……、誰とかしら?」
途端に不機嫌になった秀明に、美子は微笑んでから近づいてくる彼の顔を軽く見上げた。しかしここで先程の秀明以上に、不機嫌な声が割り込む。
「ちょっとそこのバカップル。この家にはまだ未成年者が二名いるんだから、朝っぱらからいちゃつくのは止めてよね」
いつの間にやって来たのか、台所の入口で壁に背中を預けながら渋面で腕組みしている美恵を認めて、秀明は全く悪びれずに笑顔で朝の挨拶をした。
「ああ、美恵ちゃん、おはよう」
「いちゃついているかしら? 躾の一環のつもりだったんだけど」
秀明に続いて、真顔でちょっと首を傾げただけの姉を見て、美恵はうんざりとした顔付きで愚痴を零す。
「これだから腹黒と世間知らずは、変な所で自然体なんだから。少しは周りを気にしなさいよ。とにかくそろそろ皆が揃うから、いつも通りさっさと準備するわよ」
「そうね。じゃあよそった物から、どんどん隣に運んで頂戴」
「分かった」
「美恵、箸置きと箸はあなたが並べて。秀明さんには席順が分からないから」
「……了解」
自分の主張に頷いて美子と秀明が動き始めたものの、姉が秀明の事をさり気なく名前で呼んでいる事に気が付いた美恵は、(この際、本気で一人暮らしを考えようかしら?)と少々うんざりしながら動き始めた。
そして台所に隣接した食堂に七人分の食事を運んでいるうちに、藤宮家の面々が次々に姿を現し、互いに朝の挨拶を交わした。
「おはよう」
「おはようございます、江原さん」
「江原さん、怪我は大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だから心配しないで」
「良かった。お父さん達が籠って話してたから、昨夜は江原さんと全然顔を合わせないまま、休んじゃったし」
そして全員が着席すると、制服姿の美幸が、妙に機嫌が良い事に気が付いて、美子が不思議そうに声をかける。
「美幸? 何だか随分機嫌が良いけど、朝から何か良い事でもあったの?」
「うん。久し振りだね! 七人で朝ご飯食べるのって。紅葉も出てるし」
元気一杯に満面の笑みで答えた美幸に、彼女以外の全員が一瞬呆気に取られ、次いで柔らかく微笑んだ。
「そうね。じゃあ、いただきます」
「いただきます」
そんな風に、いつも通り美子の号令で食べ始めた藤宮家の朝食の席は、その日は普段より幾分賑やかな物となった。
朝食後、それぞれ出勤や登校していった家族を見送ってから美子は台所を片付け、次いで客間に顔を出した。
「洗っておくから、洗濯物は出して。お父さんが言ってたけど、本来の出張日程だった明日までは休みにするんでしょう?」
「ああ、頼む。社長と話してそういう事にした。明日の昼過ぎにマンションに帰るから」
「それが良いでしょうね」
美子が秀明に声をかけると、スーツケースの中身を整理していた彼は素直に洗濯物を渡した。しかし何やら言いたげな空気を醸し出している彼に、不思議に思って尋ねてみる。
「何か私に、言いたい事でもあるの?」
それを聞いた秀明は、幾分迷う素振りを見せてから、静かに言い出した。
「さっき台所で考えていて、色々言っておかなければいけない事を思い出した」
「それで?」
「今度の日曜、行きたい所があるから、一日俺に付き合って欲しいんだが」
真剣な口調でそんな事を言われて、美子は若干戸惑う。
「一日? 午前だけとか、午後だけとかは駄目なの?」
「都心からだと、片道三時間半から四時間と言ったところか。車は潰したから、新幹線と在来線の乗り継ぎで行くしかないからな」
そこで美子はピンときた。
「……ひょっとして秀明さんが白鳥家に引き取られるまで、住んでいた所?」
「ああ、そうだ。知ってたか」
出会ったばかりの頃に叔父に頼んで秀明の事を調べて貰った時、その報告書に記載されていた地名を美子は記憶の底から引っ張り上げたのだが、それは秀明にも予想が付いていたらしく、小さく笑った。その表情の変化を見ながら、美子が確認を入れる。
「私は構わないわよ? 何か持っていかないと、いけない物はない?」
「手ぶらで良い」
「分かったわ。お父さんにも言っておくから。今日くらい、一日ゴロゴロ寝ていなさい。治るものも治らないわよ?」
「そうさせて貰う」
そうして受け取った洗濯物を抱えて廊下を歩き出した美子は、今言われた内容について、頭の中で反芻した。
(秀明さんの故郷……。あの報告書で地名を見ただけで、全然馴染みは無いけど)
「色々、何を考えていたのかしらね」
小さく溜め息を吐いた美子だったが、一人で考えて答えが出る訳でも、事前に聞いても秀明が答える様に思えなかった為、意識を切り替えて目の前の事に集中する事にした。
「取り敢えず、お父さんがブチブチ文句を言わない様に、早目にメールで報告しておきましょうか」
今回の件で、一番神経を擦り減らした上に割を食った不幸な昌典は、十分後、更なる不愉快な事実に直面する羽目になり、その日一日旭日食品の社長室にはブリザードが吹き荒れていた。
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