「二年以上前の話になるか……。脱税と収賄と選挙違反が一度に明るみに出て、あいつの父親が代議士を、上の兄が県議会議員を辞職したのは?」
「はい、存じています」
秀明が裏で糸を引いた当時の騒動を脳裏に思い浮かべ、美子は僅かに渋面になった。しかし加積の予想外の話は、更に続いた。
「しかし幸いな事にと言うか、残念な事にと言うか、下の兄はそれらへの関与の証拠が不十分で送検されなくてな。父と兄とは異なり、一応、被選挙権を有している」
「そこまでは把握していませんでした。全く興味が無かったもので」
「だろうな」
正直に答えた美子に、加積は小さく笑った。そしてすぐに顔付きを改め、話を続行させる。
「ところで美子さん。白鳥前議員が辞職した後、彼の地盤がどうなったのかは知っているか?」
そう問われた美子は少しだけ考え込んで、頭の片隅にあった記憶を引っ張り出した。
「確か……、補欠選挙が行われましたが、白鳥氏及び陣営ぐるみの一連のスキャンダルのせいで、与党内で適当な候補者が立てられず、野党に議席を渡してしまったかと。そして去年の衆院選でも、その現職が与党の対立候補を破って、そのまま議席を死守したのでは?」
その美子の返答に、加積は満足げに頷いた。
「その通り。そして今現在与党内では選挙重点地区の一つとして、次の衆院選でそこを奪い返そうと画策している」
「そうですか」
「それで与党は一度立てた対立候補にこのままテコ入れするか、他に票を取れそうな候補者を新たに擁立するか、水面下で調整中らしいが、そこに因縁のある人物が名乗りを上げたそうだ」
そこで加積に思わせぶりに言われた美子は、咄嗟に頭の中に思い浮かんだ内容を口にした。
「まさか……、それが秀明さんの下の兄だとか、仰いませんよね?」
半信半疑で言ってみた美子だったが、加積夫妻は殆ど嘲笑めいた笑みを浮かべながらそれを肯定した。
「白鳥家は、長年その地域の発展に貢献しているのに加えて、知名度も誰よりも高くて票が取れると、与党の県議団と与党本部にアピールしたらしい」
「笑ってしまうわよね」
それを聞いた美子は、幼い頃から祖父や叔父達の政治家としての覚悟と信念を目にしてきただけあって、あった事もない白鳥家の人間に対して、激しい怒りを覚えた。
「自分達の不徳と不始末で議席を失ったのに、他力本願で議席を取るつもりですか? 無所属で戦い抜いて実力で議席を奪い取ってから、父親と兄の不明を頭を下げて詫びて、与党に合流する位の気構えを見せなさいよ!!」
「いや、尤もだな」
「素敵よ、美子さん」
思わず強い口調で吐き捨てた美子を窘めるどころか、加積達は笑顔で軽く拍手しながら彼女を誉める言葉を口にした。それで我に返った美子は僅かに赤面し、頭を下げる。
「すみません、お騒がせしました」
すると加積が、再び真顔になって確認を入れてくる。
「今の与党の選挙対策委員長を務めているのは、美子さんの縁戚だな?」
「はい。長谷川議員は、父方の伯母の夫に当たる方です」
「他にも実の叔父の倉田議員への伝手も得られるし、何とか美子さんと藤宮氏に渡りを付けたい所だな。白鳥側としては」
「でもこれまで私の方には、何の接触もありませんでしたが……」
話の流れ的に白鳥家の思惑は読めたが、これまでそんな気配を微塵も感じなかった事に美子が首を捻ると、加積が苦笑しながら教えた。
「あいつの住居や職場の方には、チョロチョロ現れてちょっかいを出しては、その都度奴に撃退されている様だ。藤宮氏の方も、完全無視らしい」
「あの二人なら、そうでしょうね……」
「それと恐らく藤宮家の固定電話は、白鳥関係のありとあらゆる電話番号を着信拒否する様に、奴がこっそり設定していると思う。帰宅したら確かめてみなさい」
「そうします」
(この前頻繁に家に来てた時、隙を見て電話に細工していたとか? こそこそと何をやっているのよ)
半ば腹を立てつつ、美子は思ったまま正直に口に出した。
「でも……、それならどうして私に言わないで、陰で設定しているのかしら?」
その疑問に、向かい側に座っている夫婦は顔を見合わせてから、苦笑いで解説してみた。
「それはまあ……。白鳥家の事を正直に言って、美子さんに面倒だと思われるのが嫌なんじゃないか?」
「あまり手のかかる男だと愛想を尽かされるかもと、心配しているんじゃないかしら」
「はぁ? あの傍若無人な人間がですか?」
本気で驚いて瞬きした後、加積達に疑わしげな視線を向けた美子に、加積は言い聞かせる様に考えを述べた。
「あいつは今回、初めて縄張りを持った動物みたいなものだからな。ちょっと神経質になっているのかもしれん」
「縄張り……」
その話を聞いた美子が、微妙な表情になって黙り込む。その反応に不自然な物を感じた桜が、訝しげに声をかけてきた。
「美子さん、どうかしたの?」
「あ、いえ。大した事ではありませんが……」
「何?」
にこやかに有無を言わせぬ口調で再度迫った桜に、美子は溜め息を吐いて、正直に口ごもった理由を述べた。
「その……。自分の巣穴を囲む様に、一生懸命鉄条網を設置している兎の姿が、一瞬脳裏に浮かんだものですから……」
(また馬鹿な事を言ったわ)
これでまた笑われるだろうなと思いながら美子が口にした内容は、やはり一瞬きょとんとした顔になった二人に、揃って笑われる事になった。
「まあ、可愛い事。あの男のイメージからはかけ離れているけど」
「鉄条網を張り巡らせる気になっただけ、成長したのは良い事だな」
「成長、ですか?」
思わず口を挟んだ美子に、加積がおかしそうに笑いながら小さく頷く。
「あの男はこれまで、向かってくる敵は手段を選ばす殲滅していただろうが、間違っても守りに入る事は無かった筈だ」
「確かにそんなイメージですね」
「だが、そんな事ばかり続けていたら、長生きできんしな。偶には巣穴で惰眠を貪るべきだろう」
「そういう物ですか?」
「そういう物だ」
首を傾げた美子に、加積が再度頷いてから言い聞かせる。
「だからあの男が寝ぼけている時に、不埒者が鉄条網を越えて来たら、迷わず美子さんが蹴り倒す様に」
「分かりました。偶には安心して昼寝をして貰う為に、頑張ります」
「おう、頑張れ」
「本当に、あの男に美子さんはもったいないわね」
加積の言葉に美子がすこぶる真面目に頷いたのを見て、加積と桜は再び楽しそうに笑った。
「それで話を戻すが、あいつに当たっても埒が明かないと、最近白鳥家は標的を美子さん達に変えてきたんだ。だが知り合いになろうとする連中を、これまで悉く桜査警公社で排除している」
「どういう事ですか?」
予想外の話に美子は軽く驚いたが、加積は淡々と事情を説明した。
「美子さんがここの会長に就任するのが決まった時点から、美子さんを含む藤宮家の皆さんは、全員警護対象になっている」
「そうだったんですか。存じませんでした」
「それで美子さん達に近付こうとする不埒な輩を、引ったくりを装って引き倒して動けなくさせたり、工事現場から事故を装って頭上に大量の砂を降らせて足止めしたり、自転車でひき逃げしたり。他にも色々な手段で、これまで二十回以上人知れず妨害を」
「ちょっと待って下さい! 今の話、明らかに犯罪行為が混ざっているんですが!?」
慌てて加積の話を遮って問い質した美子だったが、それに桜はあっけらかんと答えた。
「大丈夫よ。皆、経験豊富なプロばかりだし。警察に捕まる様なヘマはしないわ」
「そういう問題では無いですよね!?」
(やっぱり付いていけないわ、この人達!)
本気で頭を抱えたくなった美子だったが、ここで更に聞き捨てならない事を加積が言い出した。
「それで度重なる“偶然”で悉く失敗した連中は、無理に押しかけて心証を悪くするよりも、確実だと思う方法を考えたらしい。部下達の報告ではこの数日、美子さん達の周囲から姿を消しているそうだ」
「つまり、どういう事ですか?」
「どこからか、美子さん達の披露宴の日時を嗅ぎ付けたらしい。実の兄が出向くなら、他の人間の手前、排除する為に揉めて騒ぎを起こすのも外聞が悪いし、急いで席を設けるだろうと考えているのではないか?」
冷え切った笑みを浮かべている加積を見て、正直恐怖を覚えた美子だったが、それ以上に厚かまし過ぎる白鳥家への怒りと呆れが、それを軽く上回った。
「正気ですか? そんな自分達に都合の良い事を、本気で考えていると? 第一、身内なのに呼ばれない段階で、恥ずかしいとか問題があるとは考えないんでしょうか?」
「さあ。他の方の考える事は、良く分からないわ。それで、美子さんはどうするの?」
そこで唐突に桜に尋ねられ、美子は怒りも忘れて面食らった。
「私、ですか?」
「ええ」
「そうですね……」
そこで三十秒程俯いて考え込んだ美子は、ゆっくりと顔を上げてきっぱりと断言した。
「秀明さんは父と養子縁組をして、既に藤宮家の人間です。つまり彼に手を出す人間は、藤宮家全体の敵になります。それならただでさえ秀明さんが忙しい時は、私が蹴り倒しても問題ありませんよね? 寧ろこの場合標的が私の様ですから、私が手を下すべきかと思います」
その宣言に、加積が満足そうな笑みを浮かべながら、詳細について告げた。
「その通りだな。因みに当日は会場のホテルに、警備担当の者を十名程、目立たない格好で潜り込ませる予定だ。手を借りたい時は、金田に言ってくれ。これからは美子さんの部下になるわけだから、好きに動かして構わない。向こうの動きも引き続き探らせて、逐一、君に報告させよう」
「ありがとうございます。人手が要る時には、お願いする事にします。それからもう一つ、お願いしたい事があるのですが」
「何かな?」
「白鳥家からのちょっかいと護衛の件について、私が既に知っている事を、秀明さんに内緒にしておいて欲しいのですが」
それを聞いた加積は一瞬考えてから、確認を入れてきた。
「それは、あいつが美子さんに隠しているからか?」
「はい。私に心配させたくないとか、嫌な思いをさせたくないとか、見当違いな気遣いをしているのにちょっと腹が立ちましたので。自分から言うまでは、勝手に一人でやきもきさせておきます」
その容赦のない物言いに、加積は思わず笑ってしまった。
「分かった。その様に金田達には厳命しておこう」
「まあ、美子さんったら、存外悪い女だったのね?」
「あら、ご存じなかったんですか?」
冷やかしてきた桜に、美子がすまして言い返す。すると桜は笑みを深くしながら、楽しげに言い切った。
「でも確かに良い女程、抱えている秘密の数は多いし、ある程度の秘密を抱えておくのは、夫婦円満の秘訣なのよ。覚えておきなさいね?」
「分かりました。肝に銘じておきます」
「お前は本当に良い女で秘密だらけで、俺を驚かせるのが得意だからな」
その呆れ果てたと言わんばかりの加積の台詞に、女二人は同時に笑い出し、それに加積も苦笑いで加わった。それから世間話をしながら、楽しく時間を過ごしていると、秀明が金田を引き連れて戻って来る。
「待たせたな、美子」
「大丈夫よ? お二人と楽しく話していたし」
「そうか」
秀明は笑顔で出迎えた美子に、釣られた様に顔を緩めたが、反対に彼の顔を眺めた美子が、若干気遣わしげに尋ねた。
「秀明さんこそ、大丈夫? 大変そう?」
そう問われた秀明は彼女の横に座りながら、その懸念を打ち消した。
「それほどでもない。俺まで回ってくる案件は、そうそう無い筈だからな」
「私共も、なるべく社長とオーナーのお手を煩わせない様に心掛けますので」
「分かりました。今後とも、宜しくお願いします」
金田からも恭しく頭を下げられた美子は、取り敢えず納得する事にして、自分も頭を下げた。
そして秀明が戻るとすぐに、彼に促されて美子はその場を辞去し、金田と寺島に駐車場まで送られて、桜査警公社を後にした。内心で(そんなに露骨に、長居したくないっていう意思表示をしなくても)と思いながら、助手席で加積達との会話を思い出していた美子は、秀明を含み笑いで見やる。
「どうした?」
その視線を感じたらしい秀明が、運転しながら横目で尋ねてきた為、美子は明るい笑顔になって告げた。
「あなたって、ちょっと可愛いかもと思って」
その途端、秀明の眉間に皺が寄る。
「……何だそれは?」
「大丈夫よ。ちゃんと嫌がらずに面倒を見てあげるわ」
「だから何なんだ。今度はあの妖怪夫婦に、一体何を吹き込まれた?」
自分が席を離れている間に、また何か面倒な事になっていたのかと、信号で止まったのを幸い秀明が心底嫌そうな顔を向けてきた為、美子は笑い出しそうになるのを堪えながら微笑んだ。
「別に? 強いて言いなら……、良い女になる条件と、夫婦円満の秘訣を教えて貰ったわ」
「ろくでもない事を言われている気しかしないぞ」
「まあ、失礼ね」
途端に顔をしかめた秀明に、美子が多少拗ねた様に応じる。しかし秀明は、しみじみとした口調で言い出した。
「だが……」
「何?」
「俺の事を『可愛い』なんて評する人間は、深美さん位だと思っていたのにな」
「だって母娘ですもの」
「そうだな」
クスッと笑って当然の如く応じた美子に苦笑いしかできなかった秀明は、素直に頷いてみせてから、何事も無かったかのように、車を再び走らせて行った。
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