母から頼まれた物を持参して、病室を訪れた美子は、出入り口の前までやって来たもののそこで立ち止まり、取っ手に手をかけるのを若干躊躇した。そして一回深呼吸をして、呼吸と共に気持ちを落ち着かせてから、いつもの表情でノックをして室内へと入った。
「お母さん、調子はどう?」
するとベッドを起こし、テーブルの上に置いた本を読んでいた深美が、それを閉じながら娘を出迎えた。
「いらっしゃい。調子も気分も良いわよ」
「そう。今日は頼まれた物を持って来たけど、こういう物で良いかしら?」
そう言いながら、美子が紙袋から取り出してテーブルの上に乗せた便箋や封筒、万年筆などを確認した深美は、満足そうに微笑んだ。
「ありがとう。取り敢えずはこれ位で、大丈夫だと思うわ。足りなくなる様なら、また頼むわね」
「ええ……」
素直に頷きながらも、どこか沈んだ様子の美子を見て、深美は思わず顔を顰めて、夫に対しての愚痴を零す。
「本当に、昌典さんも困った人ね。何も美子を同席させなくても良いでしょうに……」
それを聞いた美子は、慌てて父親を庇った。
「偶々、病院で出くわしたのよ。それに遅かれ早かれ聞かされる事になった筈だし、早く分かって却って良かったわ」
「それでもね……。美子に色々負担をかけてしまいそうで」
「どのみち家の中の事は、お父さんには分からないもの。気にしないで」
「ありがとう」
短期間のものも含めると、最初に発症した時から数回入退院を繰り返している深美としては、学生の頃から家の事を任せざるを得なかった美子に対して負い目を感じ、不憫に思っていたが、そんな事を口にしてもお互いが気まずくなるだけだと分かっていた為、それ以上は口にせずに笑顔で礼を述べた。
美子も母の心情は理解できていた為、話の流れを変えようと窓際に向かいながら声をかける。
「取り敢えず、お茶を淹れてくるわ。それからリストアップを手伝うから。ついでに、あのしおれたお花を捨てて来るわね。新しいお花を持ってきたし」
しかしここで、慌てたように深美が美子を止めた。
「あ、その花はまだ大丈夫だから、もう少し飾っておいて」
「え? でも……」
花瓶に活けられているそれが、何枚か花弁も落としている状態を見た美子が戸惑っていると、深美がちょっと困ったように笑う。
「秀明君から貰ったのよ。最近忙しいみたいで、なかなか来てくれなくてね」
それを聞いた美子は軽く眉を顰めてから、深美に背を向けつつ花瓶を持ち上げる。
「水を入れ替えるついでに、水切りしてくるわ」
「そう? お願いね」
その声を背に受けながら、美子は黙って棚の引き出しに置いてある水切りばさみを取り出すと、花瓶片手に給湯室へと向かったのだった。
「ごちそうさまでした……」
姉妹揃っての夕食を殆ど無言で食べ終えた美子が、真っ先に席を立って食器を手にして台所へと姿を消すと、食堂に取り残された妹達は互いの顔を見合わせた。
「何だか最近、美子姉さんが変じゃない?」
この間、何となく疑問に思っていた美野が周囲に同意を求めたが、隣の美幸は素っ気なく応じた。
「この前から、ずっと変だと思うけど? 江原さんからDVDを貰ってから、ニヤニヤしっぱなしだったじゃない」
「確かにそうだけど! それがまともになったと思った途端、今度は頻繁にボーッとして、難しい顔をして何だか考え込んでいるみたいだし。何か悩んでいる事でも、あるんじゃないかしら……」
いかにも心配そうに美野が訴えると、美幸が真顔で頷く。
「それはそうかも。目の前で廊下を走っても怒られないし」
「あんたって子は! 他の判断基準は無いわけ!?」
「五月蠅いわね。ごちそうさま」
美野が眦を険しくして叱り付けると、美恵が顔を顰めて立ち上がった。そして美子同様台所に向かってから、美野が美幸に文句を付ける。
「ほら、美恵姉さんに怒られちゃったじゃない」
「騒いだのは美野姉さんでしょ!?」
「ああもう、あんた達、本当に五月蠅いわよ?」
そんな騒々しい妹達の声を背中で受けながら、美恵は先ほど美野が口にした事を考えた。
(最近、姉さんの様子が変なのは確かだけど、悩みとかがあっても自分から進んで口にするタイプじゃないしね。江原さんはあれ以降、変なちょっかいは出していない筈だし……)
さて、どうしたものかと考えながら美恵は台所に入り、流しで後片付けを始めていた美子の横に立った。
「ごちそうさまでした」
「ええ、そこに置いておいて」
言われた通り台に使った食器を置いて立ち去ろうとした美恵だったが、洗い物の手を止めた美子が急に振り向き、声をかけてきた。
「ねえ、美恵」
「何?」
「最近、田村さんとはどうなの?」
「和斗? 『どう』って、何が?」
問いかけられたのも唐突なら、その内容も完全に予想外だった為、美恵は完全に面食らった。そんな彼女に、美子が幾分言い難そうに言葉を重ねる。
「だから、その……、去年からお付き合いしてる方だし、そろそろ結婚とか考えていないの?」
そう言われて、美恵は漸くその質問の意図が分かった。
「結婚? しないわよ。第一、和斗とは二か月前に別れたし。今は別な男と付き合っているけど?」
淡々と事実を述べた美恵だったが、美子は目を丸くして思わず苦言を呈した。
「別れた? 美恵、あなた付き合っているって言った相手が、田村さんで一体何人目だと思って」
「付き合った男の数なんて、私が一番良く知ってるわよ! 賢しげな顔で、さも自分だけは良識人だって物言いで、人の人生に口出ししないで頂戴! 端から見ても気分悪いわ!」
「ちょっと、美恵!」
美子の言葉を怒声で遮り、美恵は憤然として台所を出て行った。
(確かに……、余計なお世話かもしれないけど)
そして美子が一人で項垂れていると、美実がやって来て明るく声をかける。
「ごちそうさま~。二人で何を騒いでいたの? まあ、姉さん達が揉めるのは、珍しく無いけど」
そこでゆっくりと顔をあげた美子は、控え目に尋ねてみた。
「美実……」
「何?」
「その……、小早川さんとは、上手くいっている?」
その問いかけに、美実は怪訝な顔になった。
「いきなり何? そんな事、今まで聞いた事あったっけ? 淳が江原さんの親友だって分かってからも、特に文句とかは言って無かったわよね?」
「ちょっと気になって。付き合い始めて暫く経つし、もう成人したし、ひょっとしたら学生結婚とかしないのかと思って」
それを聞いた美実は、益々変な顔になった。
「はぁ? 淳と? 学生結婚?」
「ええ」
真顔で尋ねてくる美子を見て、美実は困ったように言い返した。
「何か、変な心配をしてない? そこまでガツガツしてないわよ。確かに淳も三十になったけど、焦る理由も無いでしょう。第一、面倒臭いわ」
「……そうでしょうね。ごめんなさい。変な事を聞いたわ」
「まあ、良いけど……」
溜め息を吐いた美子に背を向け、美実は台所を出て行ったが、頭の中は疑問符で一杯だった。
(何でいきなり結婚? 確かに今まで淳との交際を反対されてはいなかったけど、推奨されてもいなかったわよね? どういう事なのかしら?)
幾ら考えても答えは出ず、美実はその日は寝るまでの時間帯を、すっきりしない気分で過ごす事になった。
「ごちそうさまでした」
次に美野が食器を持って来ると、美子は迷わず頼み事を口にした。
「ああ、美野。ちょっとお願いしたい事があるんだけど」
「何? 美子姉さん」
「江原さんに、連絡を取って欲しいの」
そう言われた美野は一瞬当惑してから、嬉しそうに言い出した。
「え? あ、じゃあ連絡先を教えるから、美子姉さんが直接」
「連絡は、あなたからして頂戴。それから、この事は誰にも言っちゃ駄目。分かった?」
「……はい、分かりました」
語気強く自分の言葉を遮って言い聞かせてきた美子に頷き、美子は怪訝な顔をしながらも頼まれた内容について、秀明と幾つかのやり取りをする事になった。
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