「よっし! 任務完了!」
「あそこまで上手くいくとは、思わなかったわね~」
「お騒がせしました。あの不愉快な人達は、もう戻って来ませんので」
秀明の推測を裏付ける様に、龍佑達の姿が見えなくなった途端、ドアを閉めた美幸が先程までの泣き顔とは打って変わって笑顔で拳を握り、美実と美恵が苦笑しながら秀明達の方に向き直る。それに些か呆然としながら秀明が問いかけた。
「美実ちゃん。あの短冊状の布は……」
それに美実は、人の悪い笑顔で応える。
「瞬間接着剤で髪にべったり塗り付けたから、下手したら頭皮にまで付いちゃったかも。そうしたら髪を切るだけじゃなくて、溶解剤も必要ね。大変そう~」
「あれを取るには、嫌でも髪を根元からザクザク切らなきゃいけないし」
「そんなみっともない頭で披露宴に出られるなら出てみなさいよ!」
カラカラと美幸が笑う横で、美野がボソッと説明を加えた。
「あの布……、美子姉さんが書いたんです。相変わらず達筆で、怖かった……」
「美野ちゃん? 何があった?」
どことなく顔色が悪い美野に、秀明はもとより美恵達も何事かと顔を向けると、美野は真顔で話し出した。
「偶々部屋を覗いたら、美子姉さんがあの布を睨み付けながらひたすら硯で墨をすっている所に遭遇して。『何をしているの?』と聞いたら、『禿げろって念じているの』って……」
「…………」
そこで室内は静まり返り、男達は揃って無意識に自分の頭に手を伸ばしたが、美野は沈鬱な面持ちで話を続けた。
「三十分位して、また様子を見に行ったら、漸く筆に墨を含ませた美子姉さんがすらすらと一気に書き上げて、『どう? 会心の出来だわ!』って、もの凄く良い笑顔で両手で、持って見せてくれて……」
それを聞いた彼女の姉妹達は、真顔で言い合った。
「確実に禿げるわね」
「元々禿げる運命だったとしても、十年は早まったわね」
「やっぱり美子姉さんだけは、本気で怒らせないようにしよう」
「…………」
力強く言い切った彼女達に男達は僅かに恐怖を覚えたが、すぐに秀明は気を取り直して懸念を口にした。
「だがあんな事をしたら、訴えられる可能性も」
「どうして訴えられるんです? 私達、何もしていませんよ?」
「え?」
秀明の台詞を遮ってニヤリと悪役らしく笑ってみせた美恵に、妹達が続く。
「この控え室に招待客以外の人なんか入っていないし、私達、見てないわよね?」
「そう言えばさっきホテルの監視カメラが、このフロアだけ故障しているってスタッフの方が仰ってました。臨時調整中だとか」
「お義兄さん、ごめんなさ~い。シャンパンを抜いてお祝いしたかったんだけど、酒屋のおじさんに『未成年者には売れないよ』って、断られちゃったんです~」
如何にも白々しい物言いに、秀明は思わず笑ってしまった。
「そうか。俺も招待客以外の人間は見ていない。お前達は何か見たか?」
後輩達に目を向けると、漸くいつもの調子を取り戻した彼らも、口々に笑顔で述べる。
「ここに来てから懐かしい先輩の顔と、可愛らしい義妹さん達のお顔しか、見ていませんね」
「何か騒ぎがありましたか?」
「俺達の馬鹿笑いの声じゃないのか?」
そんな風にあっさり意思統一されたのを見て、美恵が妹達に声をかけた。
「皆、撤収するわよ。大叔父さん達にご挨拶しないと」
「あんた達、制服を汚してないでしょうね?」
「大丈夫。泡の垂れる方向には注意したから」
「お騒がせしました~!」
最後に美幸が笑顔で手を振って四人が引き上げると、どうやら阿南に続いて入室していた清掃担当のスタッフ二人が、美野達から空き缶を回収した後は黙々と仕事をしていたらしく、床のコーラの痕跡を綺麗に消し去り、それが済むと同時に頭を下げて出て行った。
そして十分程前と同じ状況に戻った室内で、男達が呆然と呟く。
「何だったんでしょうか?」
「嵐みたいでしたね」
「近年稀にみる、凄い間抜けな物を見てしまいました」
しみじみと後輩達が口にするのを聞いてから、とうとう我慢できなくなった秀明は、腹を抱えて笑い出した。
「……はっ、あははははっ! 愉快過ぎる! 何なんだ、あれはっ!」
それに誘発されて周りも爆笑したが、そこにノックの音と共に、ドアの向こうから淳が顔を見せる。
「よう。何だ? 凄い盛り上がってるな?」
「小早川先輩!」
「何であと五分、早く来なかったんですか!?」
「めちゃくちゃ笑える物が見れたんですよ?」
「何の事だ?」
そして相変わらず腹を抱えて笑っている秀明を放置し、後輩達が嬉々として報告してきた内容を聞いて、淳は思わず天を仰いだ。
人知れずそんな騒ぎが勃発してから三十分程して、新婦控え室のドアが、静かにノックされた。
「失礼します。新郎様をお連れしました」
「どうぞ」
美子が落ち着き払ってドアの向こうに声をかけると、スタッフに続いて秀明が姿を見せる。そして彼が近くの椅子を引き寄せて美子の前に座ると、新郎新婦双方に付いていたスタッフは、「それでは披露宴開始時間まで、少々お待ち下さい」と頭を下げて出て行った。
「俺に黙って、何をこそこそとやってるんだ?」
控え室に二人きりになった直後、秀明が渋面になって非難したが、美子はおかしそうに笑って応じる。
「黙っていたのはお互い様だけど、この前、秘密にしている事が五つあるって言ったわよ?」
「これがその一つか……。だが、美容室のスタッフから話が漏れて、藤宮家に変な噂が立ちかねないが」
そんな懸念を口にした秀明だったが、美子は事も無げに答えた。
「どこで誰に何をされたと言うの? 言いがかりも甚だしいわ」
「美子?」
「金田さんに頼んで、桜査警公社の人間をホテルスタッフに紛れ込ませて、フロントロビーから秀明さんの控え室、そこから美容室への移動を、極力人目に触れない様にして貰ったもの」
「阿南の事か?」
「名前までは知らないけど、美容室のスタッフにも姿を見られる事無く、その手前で別れたと思うわ。第一、元々のホテルスタッフでは無い人間だし、ここの従業員リストを探しても出てこないから、証人になりようがないもの」
美子がそう述べると、秀明も少し考え込んで結論を述べた。
「そうなると……。さっき美野ちゃんが言っていたが、監視カメラが都合よく機能してないらしいし、頭に変な物をどこかで付けた変な夫婦が、どこからともなく現れたと言うだけの話だな」
「そういう事。美野と美幸に殊勝に頭を下げさせてひたすらこちらが下手に出たから、子供相手にあまり高圧的に出て心証を害するより、相手に借りを作っておいた方が良いと欲をかいて、あっさり引き上げたのが運の尽きね。本当はフォーマルドレスが着たいって言っていたのを、わざわざ二人に制服で出席させた甲斐があったわ」
「容赦ないな」
細かい小細工に秀明は苦笑するしかなかったが、美子は同様に笑って答えた。
「衣装はすぐに着替えられるけど、あの頭を何とかしようと思ったら、どう考えても披露宴開始時間に間に合わないわ」
「それはそうだな」
「公社が派遣したスタッフが、閉鎖されている会場に乱入しようとする無頼の輩は徹底排除してくれるそうだし、招待客の皆様に不愉快な思いをさせずに済みそうね。勿論、言いがかりを付けて請求してくるであろうクリーニング代や理髪代を含めた慰謝料も、びた一文払う気は無いわ。こちらに非は無いから当然よ。訴えたいなら訴えれば良いわ。返り討ちにして、逆に名誉棄損で訴えてやるだけの話だし」
堂々とそう言い放った美子を、秀明は苦笑しながらそのまま暫く眺めていたが、急に真顔になって口を開いた。
「……美子」
「何?」
「俺が、こんな事を口にするのは初めてなんだが……」
「だから何?」
何やら真剣な顔付きで言い出した秀明に美子は首を捻ったが、そんな彼女に向かって、彼は笑いを堪える表情になりながら告げた。
「惚れ直した。やっぱりお前は良い女だな」
それを聞いた美子は、一瞬目を見開いた後、おかしそうに笑った。
「あら。これまで『惚れた』とは言った事はあるけど、『惚れ直した』と言った事は無かったって事?」
「そうだ。悪いか?」
そこで開き直ったように問い返されて、美子の笑みが深くなる。
「薄情なあなたを窘めるべきか、あなたにそう言わせられなかった女の人達に同情すべきか分からないけど、随分と珍しい言葉を聞かせて貰ったのね」
「そう言う事だな」
「じゃあこれから頑張って、私に『惚れ直した』って言わせてみせてね? そうじゃないと周りの人間に、私はそれほどでもなくて、あなたの方ばかり私を好きだと思われるわよ?」
多少意地悪く笑いながら美子がそんな事を言った為、秀明は瞬時にいつもの不敵な笑みを見せながら宣言する。
「今日は色々度肝を抜かれたが、すぐに『惚れ直した』と言わせてみせる。覚悟しておけ」
「本当に?」
「あまり俺を見くびるなよ?」
「楽しみにしているわ」
そこで美子が明るく笑ったところで、披露宴の開催を告げにスタッフ達がやって来た為、秀明は彼女の手を取って立ち上がらせた。そして美容室で美容師に指摘されて漸く自分達の後頭部の笑える状況に気が付いたであろう次兄夫婦が、悲鳴と憤怒の叫び声を上げている姿を想像しながら、秀明は清々しい気持ちで美子と共に披露宴会場へと向かった。
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