そして室内に二人きりになった途端、深美が申し訳無さそうに秀明に話しかけた。
「ごめんなさいね、秀明君」
「何がです?」
「あの子の気休めと、茶番に付きあわせてしまって」
一瞬、何か言いかけた秀明だったが、真剣に自分の顔を見上げてくる彼女を見て、観念した様に小さく首を振った。
「やっぱり分かっていましたか……。でもこれ位、どうって事ありませんよ。深美さんの為なら」
しかし深美は、少し無念そうに言い出す。
「そうじゃなくて、秀明君はまだ若いのに、二回も見送らせる事になってしまうもの」
それを聞いた秀明は、一瞬驚いた様な顔になってから、小さく笑った。
「少し早くなっただけですし、年齢順ですよ。逆だったら、親不孝と言われるところです」
「それもそうね」
「それに……」
「それに、何?」
秀明の言葉に表情を緩めた深美だったが、ここで何故か秀明が不自然に黙り込んだ為、不思議そうに見やった。すると秀明が真顔で言い切る。
「俺は二度目ですから、他の人間よりは耐性があるかと思いますよ?」
「こう言う事に慣れたら駄目って、言うべきなんでしょうね……」
呆れた様に呟いてから、深美は彼に向かって言い聞かせた。
「あのね? 会社の事に関しては主人に任せておけば大丈夫だし、家と家族の事については、美子に任せておけば大丈夫だと思うの」
「そうでしょうね。あの二人に任せるなら、俺も問題はないと思います」
深く同意して頷いた秀明に向かって、ここで深美がさり気なく告げた。
「だから秀明には、美子の事だけをお願いするわね?」
初めて呼び捨てにされた秀明は、内心で驚いて軽く目を見開いたまま黙っていたが、深美は相も変わらずにこやかに微笑んでいた。それを見た秀明は苦笑し、静かに語りかける。
「……ええ、分かりました、お義母さん。安心して下さい」
それから深美に挨拶をして先程の病室に戻った秀明は、手早く着替えを済ませた。何とかドレスから私服に着替えた美子をよそに、若松が手際良く、しかし慎重に大きな箱に元通りドレスや小物を詰め終え、台車に乗せて挨拶の後に病室を出て行く。
メイク担当者やカメラマンも後片付けを終え、ゴミもきちんと集めて持ち替える徹底ぶりで、美子はその作業をおろおろしながら見守るだけだった。そして秀明と共に病室を出て、ナースステーションに顔を出すと、美子も顔なじみの看護師が歩み寄って来た。
「ああ、藤宮さん、終わったんですね」
「はい、病室を使わせて頂いて、ありがとうございました」
「いえ、藤宮さんは病室の室料をきちんと自費で一日分お支払いになってますし」
(え? そんな事までしていたの?)
笑顔で応じた看護師の話に、美子は内心で驚いた。しかしそんな彼女を半ば無視したまま、秀明は笑顔で相手に持っていた紙袋を差し出す。
「私用で使わせて頂くのですから、当然です。それに一応きちんと後片付けはしましたが、夕方に新しい患者が入るんですよね? その前の整備や消毒などの手間を考えれば、当然の事ですし。そのお詫びの意味もあるので、どうかこちらをお納め下さい」
そこで秀明が差し出した紙袋や、その中に入っている箱の包装紙に印刷された有名洋菓子店のロゴを見た彼女は、慌てて手を振って辞退した。
「あら、藤宮さん、こういうのは困ります。病院としては、患者様やご家族の方からは、一切金品を受け取らない事になっておりますので」
「ですがこれは、治療に関する付け届けでは無く、純粋な感謝の気持ちですので。病室の使用もそうですが、何人かの患者の方や見舞客には、私共が移動した時に姿を見られています。それに関してスタッフの方々が尋ねられて煩わしい思いをしたり、そういう治療以外の行為に病棟を使って良いのかと抗議された時の対応に対する、ささやかなお詫びの気持ちと思って頂ければ」
神妙な顔付きの秀明が、重ねて申し出た為、相手は少し考えてから了承の返事をした。
「そういう事であれば、ありがたく頂戴いたします。休憩時間の時にでも、皆で頂きますので」
「そうして頂けると、私共も嬉しいです」
「この度は、無茶な願いを聞いて頂きまして、ありがとうございました」
この間、話に割り込めなかった美子がここで慌てて頭を下げると、看護師は「いえ、お母様に喜んで頂けたのなら何よりです」と温かい声をかけて貰って、美子は思わず涙が零れそうになった。しかしそのタイミングで、秀明が声をかけて歩き出す。
「それじゃあ、行こうか」
「……ええ」
そして再度ナースステーションの奥に向かって一礼し、自動ドアを抜けてエレベーターの前まで来た美子は、何気なく気になった事を尋ねてみた。
「あの……、荷物は?」
「レンタル品だから、そのまま店に引き取って貰ったが? クリーニング作業も店側で施すから、心配要らない」
「そう」
内心でやっぱりレンタル品だったのねと納得しながら、美子は素直に感謝の言葉を口にした。
「あの……、今日はどうもありがとう」
「どういたしまして。深美さんが喜んでいたし、君がそこまで恐縮する事は無い」
しかし何故か秀明は、些か素っ気なく言ってよこし、美子は次の会話の糸口を掴めないまま一階へと下りた。そして正面玄関から外に出た直後、秀明は断りを入れてタクシーの待合所に足を向ける。
「じゃあ、ここで」
「え? 電車で来たんじゃなかったの?」
慌ててその背中に声をかけると、足を止めた秀明は少しだけ背後を振り返って告げた。
「五時から商談だから、先方に直接向かう。ここから電車だと、乗り換えが面倒で時間がかかるしな。それじゃあ」
そう言って再びタクシーに歩み寄った彼は、先頭車両に乗り込んであっという間に去って行った。
「これから商談って……、休みを取った訳じゃなかったの?」
そして美子は呆然としながら、その光景を見送るのみだった。
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