翌日、終業時刻と共に社屋ビルの一室で、持参していた喪服と黒いネクタイに着替えた秀明は、着ていた服とブリーフケースを持ってビルの外に出た。それから五分と経たずに目の前にセダンがやって来て、静かに停車して彼を拾う。
運転していたのは早めに仕事を切り上げ、自宅で喪服に着替えて来た淳で、互いに余計な事は言わずに一路藤宮邸へと向かった。
「さてと、着いたぞ。ここから少し歩くからな」
藤宮邸に程近いコインパーキングに愛車を入れた淳は、助手席の秀明に声をかけた。それに秀明が素直に頷く。
「構わない。どうせ近くには停められないだろうしな。お前が車を出してくれて助かった」
「どうせ仕事帰りに寄ると思ったからな。服と鞄も置いていけ」
「そうさせて貰う」
そして男二人で並んで歩き出しながら、淳がしみじみとした口調で言い出した。
「しかし……、確かに病状が悪化していると美実から聞いてはいたが、急な事で驚いた。昨夜電話で大泣きして知らせてきて、宥めるのに暫くかかったぞ。お前も美子さんから電話を貰った口か?」
「いや、夕方にメールがあったから、帰りがけに家に様子を見に行った。彼女だけ残ってたな。他は全員、病院に向かったそうだ」
予想外の事を聞いた淳は、何気なく尋ねてみる。
「気落ちしてたか?」
「業者にバリバリ指示を出していた」
それを聞いて何とも言い難い顔付きになった淳だったが、ぼそりと感想を述べた。
「……その方が、却って良いかもな」
「そうだな」
それからは二人は無言で歩き、無事に通夜が始まる前に藤宮邸に到着し、受付を済ませて上がり込んだ。
如何にも旧家らしく、繋がっている幾つかの和室の襖を取り払ってできた長方形の広々とした空間の向こうに、どうやら昨夜のうちに納棺を済ませたらしい白木の棺と祭壇が設置されていた。一般客である二人は神妙に手前の席に腰を落ち着け、ゆっくりと前方に左右に分かれて座っている、故人の近親者や関係者が座っている場所に目を向ける。
本来親族が座る右側の最前列には、正式な喪服である黒紋付きの羽織袴姿の昌典と、その横に黒の五つ紋付きに身を包んだ美子が座っており、二人とも無言でその周囲を眺めているうちに僧侶がやって来て正面の席に着席し、読経が始まった。
しかし最初のうちは神妙に俯いていた淳が、いつの間にか自分の方に顔を向けて、その向こうの何かに真剣な視線を送っているのに気が付いて、小声で尋ねる。
「淳。どうした?」
「うん? ああ、ちょっと……」
窘められても、言葉を濁しながら何かに視線を向けている友人に、秀明は不審の目を向けてから、さり気なく淳が見ていたであろう方向に視線を向けて見た。
(何だ? 親族席の方に、何かあるのか?)
常には見られない、友人の落ち着きのないふるまいが気にはなったものの、さすがに秀明もしめやかな場で追及するわけにもいかず、そのまま大人しく読経に聞き入っているふりをした。
それから少しして読経が続く中、焼香が始まり、親族や関係者の焼香が済んでから、参列者の焼香が始まった。秀明達も順番を待ちながらそれとなく遺族の様子を眺めていたが、制服姿で開始当初から泣き続けていた美野と美幸程ではないにしろ、美恵と美実も泣き腫らしたと分かる顔で目も赤くなっていた。しかし喪主である昌典はさすがの風格で微塵も動揺を見せておらず、美子も冷静に会葬者に挨拶して受け答えしていた。
「藤宮さん、この度はお悔やみ申し上げます」
「この度は、誠に突然のことで……」
焼香を済ませてから二人で喪主の前に正座して頭を下げると、昌典が穏やかな声で言葉を返した。
「やあ、江原君、小早川君。揃って来てくれるとは。深美も喜んでいるだろう」
「お忙しい中、足をお運び頂きまして、ありがとうございます」
父親の横できちんと喪服を着こなした美子が、両手を付いて礼儀正しく頭を下げるのを気遣わしげに眺めてから、二人は余計な事は言わずにすぐその場を離れた。
そして藤宮邸を出て歩き出し、駐車場の近くまでやって来て周囲に人目が無いのを確認してから、秀明が淳の肩を掴んで足を止める。
「ところで、淳。お前読経の間、何がそんなに気になっていたんだ?」
どうにも誤魔化しが利かない雰囲気の中、淳は冷や汗を流しながら話し出した。
「それが……、右側の末席の方に座っていたから、藤宮家の遠縁だと思うんだが、夫婦らしい中年の男女が話していたんだ」
「口の動きを読んでたのか。それで?」
悪友の知られざる特技の一つを思い出した秀明は、納得して話の続きを促したが、途端に淳が言い渋った。
「……怒らないか?」
その台詞に、秀明は半眼になりながら催促する。
「さっさと言え」
「人の頭越しだったし、全ての会話を確実に確認できたわけじゃ無いんだが……」
「淳」
弁解がましく言い出した淳だったが、最後通牒の如く低い声で名前を呼ばれて、抵抗するのを完全に諦めた。
「主に喋ってたのは女の方だったんだが……、『娘ばかり五人も産んで息子は一人もいないなんて、何て役立たずだ』とか『婿養子の分際で大きな顔をして』とか『再婚とかでこの家に変な女を連れ込まれたらどうするの』とか『涙一つ見せないなんて、母親同様、なんて可愛げのない』とか……」
「…………」
秀明から微妙に視線を逸らしつつ、ぼそぼそと告げてからも相手が黙っている為、淳は思わず彼に顔を向け、次の瞬間それを激しく後悔した。
「あ、あのな? その……、本当にその通り言っていたかどうかは、確証は持てないんだが……」
感情らしき物を一切感じさせない秀明の表情に、淳は盛大に顔を引き攣らせながら弁解がましく口にしたが、秀明は容赦なく追い詰めてくる。
「勿論それだけではなくて、他にも色々言ってたんだろうな?」
「ああ……、まあ、な。……一応、藤宮さんの耳に入れておいた方が良いか?」
恐る恐るお伺いを立ててみた淳だったが、その提案を秀明は腹立たしげに一蹴した。
「放っておけ。そんな下らん事を教えて、社長に不愉快な思いをさせるな。大体そんな輩は、泣いていたら泣いていたで『あんなに泣いてみっともない』とかほざく阿呆だ。まともに相手をするのは、時間と労力の無駄だ」
「確かにそうだな」
そこで秀明が再び歩き出した為、淳も(意外にこいつが冷静で助かった)と胸を撫で下ろしながら並んで歩き出したが、すぐに秀明が確認を入れてきた。
「その女、座っていた位置や特徴は覚えているな?」
「ああ。それが?」
何気なく問い返した淳だったが、それに冷え切った声が返ってくる。
「美実ちゃんに聞いて、それが誰なのかきちんと特定しておけ。家族全員の名前と住所と電話番号と勤務先は必須だ」
「……了解」
無表情で告げられた事で、却って親友の怒りが最上級であると分かってしまった淳は、(これは本気で怒ってるな……。もう俺は知らん)と、自らがの発言がきっかけだったにもかからわず、事態の収拾を完全に諦めた。
その後の藤宮邸では無事に通夜ぶるまいも終了し、深美とごく親しい者達だけが残って、祭壇の前で語り合っていた。そんな中頃合いを見て居間に籠っていた美子に、ドアを開けて美恵が報告してくる。
「奥の和室に布団を敷いて、叔母さん達に休んでもらう様に声をかけたわ。仮眠程度になるでしょうけど。交代でお風呂に入って貰う様にも言ったし」
「ありがとう、助かったわ」
「それから、美野と美幸の事は、美実に頼んであるから」
「そうね……、暫く付いてて貰って」
そこで物憂げに溜め息を吐いた姉の手元を見て、美恵が眉を顰めながら尋ねる。
「それで、姉さんは何をやってるの?」
「請求書と領収書と弔電と香典の整理。これが済んだら明日の朝ご飯の準備をしてから、叔母さん達にお茶でも持って行くわ」
かなりの分量で積み重なっているそれらを見やった美恵は、溜め息を吐いて姉に申し出ながら台所に移動する。
「炊飯器のセットとお茶出し位、私がやっておくから」
「あ、今日は泊まっている人が何人もいるから」
「その分はちゃんと多く炊くわよ!」
慌てて呼びかけた美子に、美恵は気分を害した様に言い返して立ち去り、美子は再度溜め息を吐いた。そこで何気なく壁に目を向けた彼女は、昨日受け取ってそのままリビングボードにおいてあったビニール袋に気が付き、立ち上がってそれを取りに行く。
「今日も、忘れないうちに飲んでおこう。確かにあまり眠くならなかったものね」
そうして箱を一つ取り出し、中の瓶の中身を勢い良く飲んでから、美子は残った一つを見下ろしながら呟く。
「後は明日の朝か。結構役に立っているかも」
そう言って、一瞬秀明の事を思い出しながら苦笑いした美子は、すぐに意識を切り替え、明朝からの段取りと準備を整える事に集中した。
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