ビルの地下駐車場に入り、空いているスペースに車を停めるまでは確かに視界に人の姿は皆無だったにも関わらず、エンジンを切って車外に降り立った途端、至近距離で恭しく頭を下げつつ挨拶してきた男に美子は軽く驚き、秀明は苦笑した。
「お待ちしておりました、藤宮様。私は、副社長秘書の寺島です。会長と社長がお待ちになられている、会長室へご案内致します」
「宜しくお願いします」
「ご苦労様です」
そしておとなしく先導する彼に付いて歩き出して、秀明と共にエレベーターに乗り込んだ美子だったが、寺島が操作パネルのボタンを何度も押しているのを見て首を傾げた。その視線を感じた彼が振り返り、苦笑気味に説明する。
「社長室や会長室を含む最上階は、セキュリティーの観点から暗証番号を打ち込まないと上昇しませんし、一度動き出したらノンストップです。階段も容易に下の階と行き来出来ない様に、通常は閉鎖されております」
「そうですか……」
そんな物騒な所に出向くのかと、思わず顔を引き攣らせた美子だったが、秀明はある程度予想していたらしく、面白そうに口を挟んできた。
「そのフロアに、ヤバい物も山積みか?」
「山積みと言いますか、凝集されております」
「空から来たらどうする」
「それはまた、別の話になります。防弾ガラスや逃走経路を含めた対応策は、確立してありますので」
「なるほどな」
すました顔で事も無げに述べる寺島と、面白そうな表情を浮かべる秀明を見て、美子はうんざりしながら溜め息を吐いた。そしてすぐに最上階に着いた三人は、廊下を少し歩いて、奥まった場所にあるドアの前に立った。
「失礼します。お二人がお見えになりました」
室内に向けて報告した寺島に促され、二人が室内に足を踏み入れると、立派なソファーセットに向かい合って座っている加積夫妻が出迎えた。
「やあ、美子さん」
「いらっしゃい。わざわざ会社まで来て貰って、悪かったわね」
微笑んだ桜が立ち上がって、夫が座っている側に移動している間に、秀明と美子がソファーのある場所まで足を進めた。
「この度は色々とお口添え頂き、ありがとうございました」
秀明が神妙に頭を下げると、加積が二人に手振りで座る様に勧める。
「礼には及ばない。大した手間では無かったからな」
秀明の謝意に加積は薄笑いで応じたが、さすがに美子は笑う気にはなれなかった。
(見ず知らずのカップルとその周囲には、大迷惑だったでしょうね)
溜め息を吐きたいのを堪えていると、続き部屋に繋がっているらしいドアから、新たな人物が現れた。
「藤宮様、当社の副社長を務めております、金田と申します。早速ですが、譲渡手続きの為の署名捺印をお願いします。実印と印鑑証明は、持参して頂けましたでしょうか?」
「ああ、大丈夫だ」
「はい、二人分揃っています」
「ありがとうございます」
すかさず二人が応じると、歩み寄って来た初老の男は恭しく頭を下げてから、手にしている書類の束から幾つかの用紙やホチキス止めの冊子を取り出し、秀明に手渡した。
「それではまず、こちらの書類のここと……、こちらです。軽く内容に目を通した上で、署名捺印をお願いします。何かご不審な点がありましたら、その都度お尋ね下さい」
「分かった」
秀明が軽く説明を受けながら中身を確認し、署名捺印した上で次々に美子に手渡していったが、何気なく書類に目を走らせた彼女は、どうにも納得出来ない内容を目にして、困惑顔になった。
「あの……、金田さん。ちょっとお聞きしても宜しいですか?」
「はい、ご遠慮なさらず、どうぞ」
「ここの数字が、間違っていませんか? 会長の役員報酬が年間一千五百万で、社長の報酬が一千万になっているみたいで……」
書類のとある箇所を指差しながら尋ねた美子だったが、金田は平然と応じた。
「その金額で、間違ってはおりませんが?」
「でも、副社長の金田さんが実質的な運営をしているのに、殆ど業務に係わらない社長と会長の報酬がこんなにあるなんて、どう考えてもおかしいですよね?」
「私の年収は二千万になっておりますので、どうぞお気遣い無く」
「そうですか……」
笑顔の金田にさらりと流されて、美子はそれ以上何も言えずに黙り込んだ。それを見た桜が、クスクスと笑いながら会話に加わる。
「本当に気にしないで、美子さん。元々ここの報酬は、私へのお小遣いのつもりで、主人が金額を決めていたから。美子さんも好きに使って良いのよ?」
「勘弁して下さい……。使い切れません」
気が楽になるどころか頭痛がしてきた美子だったが、桜が更に美子が頭を抱えたくなる事を言い出す。
「そう言えばここの名前って、主人が手に入れた時に私の名前に変えちゃったのよね。この際、美子さんの名前に変える?」
「そう言えばそうだったな」
「それは良いかも」
「冗談じゃありません!! 桜で結構じゃないですか! 日本の国花は桜と菊なんですよ!? このままでばっちりです。微塵も問題ありません!!」
「そんなにムキにならなくても」
どう見ても本気で言っている様に見えた三人は、実は冗談のつもりだったらしく、美子の反応を見て揃っておかしそうに笑った。
(駄目……、やっぱりこのご夫婦の相手は疲れるわ)
秀明以上に面倒くさい夫婦だとの認識を新たにしながら、美子はそれから秀明から回される書類に流れ作業的に署名捺印を続けた。それが一通り終わったところで、書類を回収して確認していた金田が、秀明に恐縮気味に声をかけてくる。
「これで必要箇所への記入は全て終了ですが、藤宮様には社長室に移動して頂いて、社長業務についての説明をさせて頂きたいのですが」
「どういう事だ?」
「面倒な事案や判断に迷う案件などは、これまで加積社長にご指示を仰いでおりましたので、今後同様の事を藤宮様にして頂く為に、この機会にこれまでの事例の幾つかを、解説しておきたいと思います」
言われた当初は困惑した顔になった秀明だったが、すぐに納得して話を進めた。
「なるほど、道理だな。どれ位かかる?」
「資料は準備してあるので、一時間位です。後は残りの資料を持ち帰って頂いて、時間のある時に目を通して頂ければ良いかと」
「分かった。美子、ここで少し待っていてくれ」
「ええ、分かったわ」
時間を無駄にせず立ち上がった秀明に頷いてみせて、美子が金田を伴って部屋を出て行く彼を見送ると、書類が片付いたのを見計らった寺島が、三人にお茶を持って来た。するとここで加積が、徐に口を開く。
「さて、美子さん。邪魔者が居なくなったので、ここで一つ、内緒話でもしてみるか」
「……どんなお話でしょう?」
「あの男の、かつての身内の話だ」
「秀明さんの?」
内心で身構えながら話を聞く態勢になった美子だったが、加積の持ち出した話題に正直面食らった。そんな彼女の戸惑いを無視して、加積が真顔で話し出した。
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