「先輩、変なんです。例の佐倉って人物、該当者が見当たりません」
「本当か? 光」
三田在住の『佐倉』なる人物の調査を依頼していた後輩からの電話を受けた淳は、若干不信感を滲ませた声を返した。するとこれまでの付き合いで敏感にそれを察した光が、語気強く言い返してくる。
「本当ですって! この一週間、各種データのチェックをして、最後は区役所の住基ネットに潜り込んでまで調べたんですから。どう考えても住所か名前のどちらか、あるいは両方が間違ってます!」
「もしくは、住んでいても住民登録は他の場所、表札も表に出してるのは別な物って事だな」
その訴えに淳はすぐに納得し、相手を宥めた。
「分かった。おそらくこちらのミスだろう。無駄骨を折らせて悪かった。経費は遠慮無く請求してくれ。割増で払うから」
「分かりました。支払い宜しくお願いします」
光が最後は機嫌良く電話を切ってくれた事に安堵しながらも、淳は困惑顔で考え込んだ。
「おかしいな……、偽名でも使われたか? そうなると益々胡散臭いし、厄介なんだが」
ここで一人で考えていても埒が明かないと判断した淳は、早速美実に電話を入れ、それを受けた美実は、夕飯を食べ終えてから自室に引っ込んでいた美子の所に押しかけた。
「美子姉さん、ちょっと良い?」
「何? 美実」
「この前着物を新調して貰った佐倉さんって、本当に三田に住んでるの?」
「住んでいるんじゃないの? どうしていきなり、そんな事を聞くわけ?」
ノックするのとほぼ同時にドアを開けて室内に入ってきた美実を、美子は不思議そうに見やった。そこで美実は頭の中で考えてきた、口からでまかせの内容を告げる。
「今日芝公園駅の近くに出向いたんだけど、用事を済ませてから散歩がてらブラブラと三田を抜けて白銀高輪まで歩いてみたの。でも『佐倉』って表札を出してるお屋敷が、見た限りでは無かったから」
「え? どうしてそんな事を? それに『佐倉』って……」
「話を聞いた限りだと随分羽振りが良さそうだったから、よほど大きなお屋敷なんじゃないかと思って、探してみたのよ」
美実の話を怪訝な顔で聞いた美子は、ここで噴き出しそうになりながら、妹の誤解を正す為に口を開いた。
「嫌だ、美実。あなた、勘違いしてたのね?」
「どういう事?」
「『さくら』は名前の方で、名字は加積さんなのよ」
それを聞いた美実は、驚きで目を丸くした。
「そうだったの!? だって、一度顔を合わせただけの相手を名前呼びするって美子姉さんらしくないし、てっきり『さくら』って名字の方だと思ってたわ」
その訴えに、美子は苦笑しながら頷く。
「確かに最初は『加積さん』とお呼びしていたけど、本人から『桜さんって呼んで?』と言われてしまったのよ」
「なるほどね……。因みに『さくら』って言うのは、お花見する『桜』よね。そうなると『かづみ』って、どういう字を書くの?」
「『加入』の『加』に『積み木』の『積』よ。因みにご主人の名前は康二郎さん。『健康』の『康』に、漢数字の『二』。おおざとの『郎』よ」
そして必要な情報をしっかり得た美実は、一刻も早く淳に報告しようと、話を切り上げにかかった。
「良く分かったわ。なんだ。色々真剣に見て来ちゃって損した」
「余所のお宅の門や玄関を、じろじろ見て来たわけ? 不審者だと思われたかもね」
「これから気をつけるわ。じゃあお邪魔しました」
そう告げると同時に美子の部屋を出た美実は、急いで自室に戻って電話をかけた。
「淳、調べても分からなかった理由が分かったわ。私の勘違いで、違う名前を言ってたのよ。ごめんなさい」
そう率直に謝ると、淳は苦笑混じりに返してきた。
「やっぱりそうか。それで? どんな名前だったんだ?」
「厳密に言えば間違って無いけどね。住んでるのは三田で間違いない筈だけど、『さくら』って言うのは名字じゃなくて、名前の方だったの。フルネームは『加積桜』って言うんですって。美子姉さんが『桜さん』って言ってるのを、名字呼びかと思い込んでいたわ」
若干疲労感を覚えながら美実が告げると、淳は納得した様に言葉を返した。
「そうだったのか。確かに佐倉って名字は有るからな」
「因みに、桜さんのご主人の名前は『康二郎』って言うらしいわ」
ここで何気なく追加した情報に、淳の声のトーンが僅かに変わった。
「そうなると……、旦那の名前が『加積康二郎』?」
「みたいね。それがどうかしたの?」
急に訝しむ様な口調になった淳に、美実が不思議そうに尋ね返すと、淳が意外な事を言い出す。
「そういう名前を、どこかで聞いた覚えがあるんだが。どこだったか……」
「そうなの? 世間って意外に狭いのね」
「ちょっと待て。加積……。加積、康二郎…………」
「淳? 一人で何をブツブツ言ってるの?」
急に電話の向こうで自問自答し始めた淳に、無視される形になった美実は多少腹を立てながら呼びかけたが、彼はそれも耳に入っていないらしく、何かを呟き続けていた。
「三田の、加積……………………」
「ちょっと淳、さっきから何を一人で」
「って!? おい、ちょっと待て!! 加積康二郎って言えばもしかして、いや、もしかしなくても“あの”三田の妖怪の事じゃねぇのかっ!?」
何やら独り言を呟いているかと思いきや、いきなり大声で叫んだ淳に対し、反射的に携帯を耳から離した美実が怒鳴りつけた。
「ちょっと淳! 耳元で怒鳴らないでよっ!!」
「それどころじゃねぇぇっ!! 大至急、親父さんに代わってくれ!」
焦りまくった感じで淳が告げてきた内容に、美実は怒りも忘れて呆気に取られた。
「え? お父さんは、まだ帰宅してないわよ? そろそろ帰る頃だと思うけど」
「分かった! 今から必要な物を揃えてそっちに向かう! 親父さんと美子さんに話があるとだけ言っておけ!!」
「あ、ちょっと淳!?」
動揺著しい淳が喚き散らしたと思ったら、問答無用で通話を終わらせた挙句、慌てて掛け直しても一向に電話が繋がらないという事態に、美実は「どういう事?」と呆然としつつも、取り敢えず美子に報告すべく部屋を出て、先程顔を出したばかりの彼女の部屋へと向かった。しかし無人だった為に一階に下りて台所に向かうと、丁度帰宅したらしい昌典が、食堂に入ろうとする所に出くわす。
「あ、お父さん、帰ってたのね。気が付かなかったわ」
「どうした美実。何か話でもあるのか?」
「私じゃなくて、淳が」
「は?」
父からの問いかけに美実が端的に答えると、案の定昌典が変な顔になった。それには構わず美実は昌典と一緒に食堂に入りながら、室内で父親の分の夕食を並べていた美子にも、聞こえる様に説明する。
「今から淳がここに来るって。美子姉さんとお父さんに、話があるみたいなの」
「話? 今から?」
「私にも?」
「そう。内容は分からないけど。電話も繋がらないし。運転中みたい」
「…………」
それを聞いた昌典と美子は掛け時計に視線を向け、深夜とは言えないまでも、いきなり訪問するにはどうかという時間帯である事を確認した為、何となく嫌な予感を覚えながら無言で顔を見合わせた。
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