「失礼します。美子ですが、入っても構いませんか?」
「ああ、美子ちゃん。待ってたわ。秀明さんも入って頂戴」
「失礼します」
「お邪魔します」
スルリと開いた襖の向こうから康子が笑顔を見せて促し、二人は室内に足を踏み入れた。そして秀明は縁側に近い方に設置されている、電動リクライニング式のベッドをリモコンで操作しながら、ゆっくり起き上がっている老人を観察する。
(この老人が倉田公典……。さすがにお義父さんの父親らしく、老いても眼光が鋭いな)
密かに秀明が感心していると、こちらに顔を向けた公典が飄々と言ってのけた。
「美子、良く来たな。ところで結婚相手を連れてくると聞いていたが、その男はとてもサッカー選手には見えんが? 実はそいつは間男で、亭主は他にいるのか?」
いきなり投げられた台詞に美子は動揺したが、秀明は笑いを堪えながら平然と言い返した。
「おじいちゃん! 一体いつの話を」
「サッカー選手では無くて申し訳ありませんが、間男をくわえ込む必要が無い位、美子の事は可愛がっていますのでご安心下さい」
「秀明さん!! 何言ってるの!?」
「あらあら」
「ほほぅ?」
当然美子は真っ赤になったが、公典と康子はおかしそうに笑った。
「そうか。それなら家族でサッカーチームも作れるか?」
「美子さえ良ければ、挑戦しても良いかと」
あくまで真顔で言葉を返す夫を、美子は叱りつけた。
「馬鹿な事言ってないで、黙りなさい!! でないと蹴り倒すわよ!?」
しかし男達の冷静な会話が続く。
「美子。亭主を壊したら拙いぞ?」
「大丈夫です。一度蹴り倒されましたが、壊れませんでしたから」
「そうか。頑丈な作りで良かったな」
「ええ。それが私の取り柄の一つですので」
「いい加減にして!!」
そこでたまらず絶叫した美子を見て、公典は苦笑しながら妻に言いつけた。
「康子。美子はちょっとばかり興奮しているみたいだから、向こうで茶を一杯飲ませて来てくれ。その間、俺はこれと話をしている」
「分かりました。じゃあ美子ちゃん。ちょっと女同士でお茶を飲んで来ましょうか。生菓子も揃えてあるし」
「え、でも……。……それじゃあ、ちょっと行って来ます」
流石に美子にも、公典が秀明と二人きりで話をしたがっている事を察し、一瞬心配そうに秀明を見やった。しかし秀明が無言で軽く頷いたのを見て、大人しく康子に従って部屋を出て行く。そして二人きりになった途端、室内の空気が微妙に緊張を含んだ物に変化した。
「さて、藤宮秀明」
「はい」
「ちょっとそこの棚の、一番上の右の引き戸を開けて貰えるか?」
「分かりました」
(何をさせる気だ? この爺さん)
重々しく言いつけられた内容に、秀明は不審に思いながらも素直に従った。そして指示された飾り棚の最上段を引き開けると、背中から次の指示が飛ぶ。
「そこの中に、大判の封筒が積み重なっていると思うが、灰色の封筒を取ってくれ」
「これでしょうか?」
該当する厚みのある大判の封筒を取り出して背後に向き直ると、公典は素っ気なくベッドサイドの椅子を指差しながら淡々と次の指示を出した。
「ああ、それだ。ここに座って、中身に目を通してくれ」
「はぁ……」
(何なんだ? 一体)
怪訝に思いながらも、秀明は言われた通りに椅子に座り、封筒の中身を取り出した。そして何冊かに分けて綴じられている書類の表紙を見て、軽く眉根を寄せたが、何も言わずにページを捲り始める。
「これまで随分と、やんちゃな事をしてきた様だな」
「男の子ですから」
とぼけた物言いでサラリと公典に言い返し、一番上と二冊目まで平然と目を通した秀明だったが、三冊目を手に取って中身を確認し始めた途端、その顔から綺麗に表情が抜け落ちた。その変化を面白そうに眺めていた公典は、少ししてから声をかけてみる。
「どうだ?」
その声に秀明はゆっくりと顔を上げ、いつも通りの皮肉げな笑みで答えた。
「流石に倉田家御用達の興信所ですね。自分でも知らない事が書かれていて、正直驚きです」
「その割には、全く驚いた様には見えないが?」
「申し訳ありません。他人の期待を裏切るのが好きなもので」
薄笑いを浮かべて応じた秀明に、公典は負けず劣らずの物騒な笑顔を見せた。
「母親だけでは無く、お前の母方の祖母も所謂未婚の母だな。母親の戸籍に祖父の名前が無かった筈だ」
「……それが何か?」
「単なる独り言だ」
スッと両眼を細めた秀明に、公典が淡々と続ける。
「何やらくたばりそうな馬鹿が、死に際になって漸く良心が疼いたか、地獄に落ちるのが怖くなったらしいな」
「周りに迷惑ですね。何をしたって地獄行きは確定でしょうに」
「ほう? 迷惑か? 本来、お前の母親が受け取る筈だった物を、お前が貰えるかもしれないぞ?」
「そんな事、俺が知った事か。万が一、こちらに下手なちょっかいを出して来るような、迷惑で恥知らずの上に、底抜けの馬鹿だったら……」
そこで勢い良く読んでいた報告書を閉じた秀明は、公典を真正面から見据えながら、獰猛な肉食獣を思わせる笑みを見せた。
「どんな家だろうが組織だろうが、白鳥の様に叩き潰すだけの話だ」
「良い面構えをしているな、若造」
しかし公典は全く動揺を見せず、寧ろ満足そうに頷いた。そして唐突に話題を変える。
「気に入った。それは封筒ごとくれてやる。その代わりにサッカーチームとまでは言わんが、美子との間に三人以上子供を作れ。息子でも娘でも構わん」
「は?」
「そして、そのうち一人は倉田によこせ。俺の孫の中では美子が一番だし、お前との掛け合わせなら間違いは無い」
いきなり脈絡が無い事を言われて唖然とした秀明だったが、すぐに気を取り直して真っ当な事を口にした。
「私の事を随分高く評価して頂いている様ですが、それは本人の資質と性格と能力によるかと。しかもまだ生まれてもいない子供について、私の一存でお約束できません」
「和典と照江には言っておく」
「……微妙に話が通じない爺さんだな」
本気で呆れて思わず本音を漏らした秀明だったが、次の公典の行動で再び面食らった。
「よし、話は終わりだ。これをやるから美子を呼んでこい」
そう横柄に言い付けながら、公典がごそごそと寝間着の袂を漁って取り出した物を両手に押し付けられた秀明は、完全に目が点になった。
「あの……、これは?」
「見ての通りポチ袋だ。ちゃんと名前を書いてあるから、間違えるなよ?」
「いえ、そうでは無くてですね」
なぜここで『美子へ』と『秀明へ』と左上の隅に小さく書かれたポチ袋を受け取らなければならないのかと、秀明には珍しく本気で戸惑っていると、襖が開いて康子が顔を見せた。
「あなた。お話は終わりました? 美子ちゃんを連れて来ましたよ?」
「おう、さすが康子。タイミングばっちりだぞ! 美子、さあこっちに来い!」
「はい」
嬉々として美子に向かって手招きする公典を見て、秀明は反射的に封筒を抱えて立ち上がった。同時に無意識にジャケットのポケットにポチ袋を突っ込んだところで、空いた椅子に座ろうとした美子が、横に立つ秀明が何やらいつもと違うのを察したのか、不思議そうに尋ねてくる。
「秀明さん、どうかしたの?」
「……いや、何でもない」
「そう?」
それから美子は公典に、挙式と披露宴、新婚旅行に関しての話を語って聞かせた。それらを公典は笑顔で頷きながら、時折質問を繰り出していたが、その姿はどう見ても孫娘にベタ甘の好々爺にしか見えず、先程押し付けられた封筒を持参した鞄に詰め込みながら、秀明は(やはりお義父さん以上の人物だったな)と、密かに溜め息を吐いた。
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