半世紀の契約

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(16)事の発端

公開日時: 2021年3月7日(日) 01:03
文字数:3,247

正月気分もそろそろ抜けようかと言う時期の、月曜日の午後。自宅の固定電話にかかってきた電話に出た美子は、かなり当惑する事になった。


「美子、ちょっと頼まれて欲しいんだが」

「何? お父さん。忘れ物か何か?」

「江原君だが、今日休んでいるんだ。会議に出て来ないから部署に尋ねたら、土曜日から風邪をひいて、こじらせて寝込んでいるらしい」

「あら……」

(細菌だろうがウイルスだろうが、弾き返すか捻り潰すイメージしかないんだけど、意外ね)

 咄嗟に言葉が出なかった美子が黙って話を聞いていると、昌典は予想外の事を言い出した。


「彼は一人暮らしの筈だし、面倒を見てくれる家族もいないだろうから、食べる物を持ってちょっと様子を見に行ってくれないか?」

 その依頼に、美子は幾分皮肉っぽく言い返す。


「一社員の事を、随分気にかけるのね?」

「彼の事は、深美も随分気に入っていたからな。少し位世話をしても良いだろう」

 全く動じることなく言ってきた昌典に、美子は小さく溜め息を吐いて応じる。


「分かったわ。早めに夕飯の支度を済ませてから、夕方彼の様子を見に行って来るから」

「頼んだぞ」

 それほど抵抗なく請け負ったものの、現実的な問題で美子は一人考え込んだ。


(土曜日からとなると、丸二日? まだ熱が下がっていないのかしら? 回復期だったら良いけど、困ったわね。今の体調が分からないと、どんな物を持っていけば迷うわ……)

 仕事で忙しい筈の父に電話をかけて尋ねるのも、かけても詳細までは知らないだろうと思って躊躇われ、美子は直接秀明にメールしてみた。しかし数分待っても返信が無かった為、情報収集を諦める。


「応答なし、か……。熟睡してるなら電話をかけて起こすのは悪いし、取り敢えず適当に見繕って行ってみましょう」

 そして美子は手早く必要な物を買い揃え、夕飯の支度も済ませてから、帰宅した美野や美幸に後の事を頼んで、必要な物を持って秀明のマンションへ出かけた。


 住所だけは把握していたそこに、迷わずに到着した美子は、入口を通ってエレベーターに向かい、目的階まで上がった。そして廊下に足を踏み出した美子は、進行方向を見て軽く首を傾げる。

「……あら?」

 その視線の先には、美子が目指すドアの前で「ちょっと、秀明! 居ないの?」と声を張り上げつつ、玄関ドアを叩いたり、インターフォンのボタンを押し続けている女性の姿があった。それに色々思うところがあったものの、美子は何食わぬ顔で足を進める。


「……誰? あなた」

 さすがに至近距離まで来た相手に気が付いたらしく、その目鼻立ちの整った女性が不審そうに尋ねてきた為、美子は淡々と答えた。


「こちらの住人を訪ねて来たんですが、あなたはお知り合いですか?」

「ええ、恋人だけど。あなたは? 単なる知り合い?」

 堂々と宣言し、更に美子を上から下までジロジロと眺め回した挙句、優越感に満ちた眼差しを向けて来た相手に、美子は溜め息を吐いて言い返した。


「そうですね。ですが合鍵の一つも貰っていない、自称『恋人』さんよりは、よほど上手く人を使えると思います」

「何ですって?」

「取り敢えず邪魔なので、そこをどいて下さい」

「ちょっと! 何するのよ!?」

 途端に相手は目つきを険しくしたが、美子は彼女を押しのけてドアの横に設置してあるインターフォンの前に立った。そしてドアの前でムッとしている彼女には構わず、バッグから携帯電話を取り出す。


(さてと。もの凄く馬鹿馬鹿しいけど。これで起きなかったら、この場で登録情報を抹消してやるわ)

 表面上とは裏腹に、かなり腹を立てながら美子が秀明に電話をかけると、暫く待たされたものの不機嫌そうな声が返ってきた。


「……何だ?」

 それに美子が、面白がる様な口調で応じる。

「あら、ごめんなさい。ひょっとして寝ていた? ここで一つクイズです」

「ふざけるな。切るぞ」

「今私は、どこのお宅の玄関前に居るでしょうか?」

 そう言い終るや否や、美子はインターフォンの呼び出しボタンを押すと、その場に「ピンポ~ン」と言う軽やかな電子音が響いた。そして若干のタイムロスを生じさせながら、電話越しに同じ音が聞こえてくる。


「答えが分かったら、直接答えて」

 短く答えて問答無用で通話を終わらせた美子が、携帯電話をバッグにしまい込む。それから無言で待っていると、すぐにドアの向こうで焦った様に開錠する音が聞こえたのと同時に、もの凄い勢いでドアが開いた。そしてその前で待っていた女性にまともに激突し、当然の結果として、彼女が無様に廊下に転がる。


「きゃあっ! 痛っ!!」

「邪魔だ、五月蠅い。そんな所で何をやっている?」

 彼女の身体が邪魔でドアが全開にならなかった事で、パジャマ姿で出て来た秀明はドアの裏側を覗き見て不機嫌そうに顔を顰めたが、彼女は憤然として立ち上がりながら、まくし立てた。


「何を、って! 秀明が昨日のデートをすっぽかしたから、心配して昨日から何度も電話をかけたけど繋がらなくて。やっと朝に電話が繋がって寝込んでるって聞いたから、仕事帰りに様子を見に来て」

「用は無い。失せろ」

 まともに話を聞く気も無いらしく、冷たく言い捨てた秀明を怒りの形相で見上げた女性は、手に提げていたビニール袋を彼に投げつけて走り去った。


「もう二度と来ないわよ! この最低野郎っ!!」

(激しく同感だわ……)

 彼女の捨て台詞に共感しながら、美子はたった今見事な鬼畜っぷりを披露してくれた秀明を、しげしげと見上げた。伸びたままの無精髭と、乱れた上に汗で額に張り付いている前髪で、どうやら熱を出して寝込んでいたのは本当らしいと分かったが、とても秀明を擁護する気分にはならなかった美子を、秀明が不審げに見やる。


「で? お前はどうしてここにいる?」

 その問いに、美子は思わず溜め息を吐いた。

「父に様子を見て来てくれって頼まれたの。あなた今日、会社を休んだんでしょう? とにかく、中に入れて貰える? ろくに食べてないと思うし、何か作るから」

「……分かった」

 一瞬顔を顰めたものの、気だるげに前髪をかき上げた秀明は場所を譲って玄関に入る様に促し、美子は廊下に落ちたビニール袋を拾って、秀明のマンションに上がり込んだ。


(レトルトのお粥に、スポーツドリンクとゼリー飲料か。彼女なりにコンビニで買える物で、それなりに考えてくれた筈なのに……)

 廊下を歩きながらさり気無くビニール袋の中を覗き込み、その中身を確認した美子は、多少嫌な思いをさせられたものの相手の女性に軽く同情すると同時に、秀明に対する嫌悪感を募らせた。そして部屋の配置から1LDKの間取りらしいと判断しながらキッチンに入った美子は、台の上に持参した食材を置き、床に置いたバッグの中からエプロンを取り出して身に着け、戸棚や冷蔵庫の扉を開けて確認し始める。


「さて、作りますか。……だけど、やっぱりろくな食材は無いわね。ご飯も、念の為に炊いてきたのを持って来て良かったわ」

 独り言を呟きながら頭の中で算段を立てていた美子に、ここで声がかけられた。


「……美子」

「気安く名前を呼ばないで欲しいんだけど?」

 てっきりすぐ寝室に戻っていると思っていた秀明が、キッチンの入口のドアに背中を預けてもたれかかる様に佇んでいた為、美子は渋面になりながら言い返した。しかし彼女以上に苦々しい顔付きで腕組みをしていた秀明は、常よりも若干低い声で確認を入れてくる。


「本当に、社長がお前に『様子を見に行け』と言ったのか?」

「そっき、そう言ったけど?」

「あの陰険親父……」

 美子が不審そうに見返すと、秀明は組んでいた腕を解いて拳を握り、舌打ちしながら苛立たしげに背後のドアを叩いた。その行為に、美子ははっきりと軽蔑の視線を送る。


「何? 父は親切心から言ったのに、そんな事を言うならもう帰らせて貰うわ」

「誰が帰すかよ!!」

「え? ちょっ……」

 本気で腹を立てた美子が、食材をそのままに帰ろうと床に置いてあるバッグに屈んで手を伸ばしたところで、素早く距離を詰めた秀明に肩を掴んで突き飛ばされ、床に仰向けに転がった。


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