土曜日。
毛利さんが数学のわからないところを教えてほしいということで、一昨日、約束していたので、今日は勉強会となった。
午後から毛利さんが家へやってくることになっている。
午前中は、時間に余裕があるので白雪姫の台本をもう一度読んでいた。
よくよく読んでみると、なにやらツッコミどころが満載だ。
意地悪な王妃が毒リンゴを白雪姫に食べさせて、白雪姫は死んでしまうのだが、死因はリンゴをのどに詰まらせたからだという。
“毒”じゃないのか?
そして、7人の小人たちは死んだ白雪姫をガラスの棺に入れるだけで、埋葬せずに保存?
遺体を保存とか、ロシアの革命家レーニンみたいだな。
レーニンの遺体は防腐剤を塗られ、モスクワの赤の広場にあるレーニン廟に保存されていると聞いたことがある。
そして通りかかった王子様は何故、遺体にキスしようと思ったのか?
白雪姫には防腐剤の記載は無いので、遺体は腐乱していたかも?
そんな腐乱死体にキス? それで、生き返ったらゾンビだよ…。
読めば読むほど謎は深まる。
しかし、こういう物語は深く考えてはいけないのだろう。
そのなこんなで、昼食を食べて、さらに小一時間ほど待つ。
約束の時間に毛利さんがやって来た。
彼女を僕の部屋に案内して、いつものローテーブルの前に座るため、座布団を置いてあげる。
座って、ちょっと雑談をしてから、毛利さんが分からないという数学の問題を幾つか教えてあげた。ついでに僕の方からは、わからない古文の問題についていくつか尋ねた。
そして、さほど時間もかからず勉強会は終了した。
「ありがとう。武田君、教え方が上手いね」
「伊達先輩ほどではないよ」
さらに、しばらく雑談などをして時間を過ごす。
「ところで、王子様の方はどう?」
毛利さんは唐突に話題を変えた。
「え? 前も言ったけど、上手くいっているよ」
「ちょっとやってみて」
「今、ここで? セリフも短いよ」
「いいの。私が白雪姫だと思って」
毛利さんはそう言うと、おもむろに立ち上がり、ベッドに横になった。
上杉先輩といい、毛利さんといい、男子の部屋のベッドに寝転がるのに、抵抗はないのだろうか?
そして、毛利さんがやってみてというのは舞台の最後の最後、王子様が白雪姫にキスをするシーンのことだろう。
しかし、舞台では実際にキスをするわけではない。キスをする寸前で照明を消して暗転し、数秒後、再び照明が点いたら白雪姫は生き返っているという演出になっている。
毛利さんは待ち構える様にベッドに横になって目を閉じている。
仕方ないなあ。恥ずかしいけど、やるか。
僕はベッドの横にひざまずいてセリフを言う。
「おお、なんと美しい姫。まるで、眠っているようだ」
毛利さんは目を閉じたままだ。
僕は困ってしまった。
「えーと、ここで一度、照明が消えて、再び点くんだけど…」
それでも毛利さんは目を閉じている。
しばらく待つと毛利さんは右目だけを一度開けて僕の服の袖あたりを掴んで引き寄せ、再び目を閉じた。
僕は脳をフル回転させる!
え? これ、本当にキスしろってこと??
待て待て待て、僕らはまだ正式に付き合ってないよね。
いや、付き合ってなくてもキスは出来るな…。
もし、ここでキスしたらどうなる?
キスしたら、付き合うことになるのはほぼ確実。
しかし、僕は毛利さんと付き合うことに躊躇している。
その理由は、以前、彼女が理由もわからずしばらくの間、不機嫌だったことがあったのだ。
ああなってしまうと、僕はどう対応していいのかわからなくて困ってしまったことがあった。
それは考慮に入れず、ここでキスして付き合うことになったら?
なんのトラブルもなく付き合い続けたら、将来は結婚?
結婚したら、子供は2~3人欲しいなぁ。
しかし、このご時世、経済的な事情でそんなに子供を持てるのだろうか?
そのためには、この長い不況の日本で、かなりいい仕事に就かないといけない。
いい仕事に就くには、いい大学に入学することか? 学部も重要だな。
僕は今、進路も適当に文系と希望を出した。“適当”、それでいいのか?
それに稼げるようになる学部ってなんだ? 今、景気のいい業界って何だっけ?
その業界、学部を調べて、それに向けて勉強をしなければならなということか?
そう言ったことも、今後は考慮して生きて行かないといけない。
将来に対して、今の態度も変えなければいけないのか。
しかし、このキス待ちをしている毛利さんの目の前で、たった今、諸々決断するのは不可能。
ここまで0.1秒。
でもいいや、キスしよう。
後は野となれ山となれ。
と、決断して、毛利さんに顔を近づけた、その時。
コンコン。
僕の部屋の扉をノックする音が。
このタイミングで!?
僕は慌てて毛利さんから離れた。
毛利さんも急いて身を起こして、ベッドに座る。
僕もベッドに腰掛け、口惜しさを感じながら、扉の向こうに声を掛けた。
「どうぞ!」
扉を開けて入ってきたのは、妹の美咲。
「お兄ちゃん、飲み物出してないでしょ?」
そういって、お盆にジュースの入ったコップを2つ乗せ、部屋に入ってきた。そして、それをローテーブルに置いた。
「悪いな」
一応、僕は礼を言う。多分、顔は引きつっていただろう。そして、毛利さんは顔を赤らめている。
コップを置いた美咲は僕らの顔を見て言った。
「ひょっとして、お取込み中だった?」
「うるさいな。いいから行きな!」
「はいは〜い。じゃあ、ごゆっくり~」
美咲はニヤつきながら、部屋を出て行った。
やれやれ。僕と毛利さんはローテーブルのほうに座って、美咲の持ってきたジュースを飲む。
しばらく沈黙。なんか気まずい。
「そろそろ、帰るね」
毛利さんはそう言って勉強道具をまとめて鞄に入れながら言った。
「あ…、うん」
キスの続きは無しか…。
僕は毛利さんを玄関まで見送って別れた。
その後、僕は自分の部屋に戻ってベッドに身を投げて考える。
進路も、もうちょっと真面目に考えるか。
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